第三十五話
浴場に行って戻ってきたところで、彼女はミルザムとカノープスのところに顔を出す。
「おやまあいらっしゃい。あがっていきなよ」
笑顔で出迎えられて、ホッとしながら中に入る。
「今日はどうしたんだい? 晩ご飯食べていくかい?」
「あっ、はい」
樹利亜はありがたく言葉に甘えることにした。
別に期待していたわけではないが、もう遅いだろう。
(レシピは知りたいけど、料理はいらないっていうのも何だか感じが悪いものねえ)
ミルザムの好意はありがたい。
甘えてばかりだと自分がダメ人間になってしまいそうで怖いのだ。
「今日はレシピについて相談があるのですが」
「おや?」
ミルザムが怪訝そうな顔をしたので、樹利亜は素早く説明する。
「お風呂あがりだと、あんまり料理の気が進まなくて……」
「そうだよね、分かるよ」
ミルザムは真剣な表情で何度もうなずいてくれる。
心底共感してくれたらしい。
「火を使わなくてもできる料理ならいくつもあるけど、あんたなら適温で料理の具材を加熱できる、そんな付与魔術だってあるんじゃないのかい?」
「うーん」
樹利亜は少し迷う。
何となく敬遠したのだが、具体的な理由をと言われても思いつかない。
「そういうのって勝手に作っちゃっていいのでしょうか?」
「? 何がいけないんだい? 魔術師様はみんないろいろなものを自家製でやっているはずだけどねえ」
ミルザムは心底不思議そうな顔で首をひねる。
「え、そうなのですか?」
樹利亜は目をみはって息を飲んだ。
「そりゃそうさ。それが便利なものだったら世の中に出回るし、魔術師様たちの稼ぎになる。失敗作だったら、魔術師様が困るだけだね」
そう言ってミルザムはからからと笑う。
「そうなんですか」
何ともまあ単純で豪快な話ではないか。
(いちいち許可って必要ないのね。そう言えば、営業許可とか申請した覚えはないわね)
樹利亜は唖然とする。
そして自分もこの街を治める領主とやらに営業許可を取っていなかったことを思い出す。
「あんたが自分でやって他の誰にも迷惑をかけないなら、そりゃ罪にはならないよ。火事を起こしたり、建物を壊したりされるのは困るし、弁償してもらうけどね」
「は、はい」
ミルザムの言葉に樹利亜はうなずいたものの、
(建物の弁償なんてできるわけがない)
と思う。
小火とかにも気を付けなければと誓った。
「それで火を使わない料理だっけ」
「あ、はい」
話を戻したミルザムはにっこり笑う。
「ちょうど今日はそういう料理にしようかと思ったんだ。よかったら手伝ってくれるかい?」
「喜んで」
樹利亜も笑顔で応じる。
料理を手伝うなら、ごちそうになるのにも精神的な負担は軽くなる。
さらにレシピを覚えることもできて一石二鳥だ。
ミルザムの心遣いには頭が上がらない気持ちでいっぱいである。
「まあ大したもんじゃないけどね。実物を見ればジュリアさんだってなあんだってがっかりするような代物さ」
「はあ」
樹利亜があいまいな返事をしている間に、ミルザムは床の保冷室から食材を取り出す。
「サラダだったり、冷やして食べる物だったりが多いよ」
「ああ、なるほど」
説明されて樹利亜はようやく合点がいく。
切るだけ、並べるだけといったものならばたしかに加熱しなくてもよい。
彼女が思いつくままにやっただけならただの手抜きかもしれないが、ミルザムは野菜サラダに魚のマリネ、ピクルスとけっこう品数もあるし、おそらく外で購入してきたのだろう肉の燻製などもある。
(これは主婦の知恵よね)
見事なものだと樹利亜は感心した。
漬ける系統が多いように感じるのはご愛敬だろう。
何かを避けるためには妥協しなければならないことだってあるのだ。
(それに電子レンジがないものね)
電子レンジを使えるなら、もっと料理の幅ができるだろう。
そのハンデを考えればミルザムは素晴らしいと思う。
「どうだい? 大したものじゃないだろう?」
「いえいえ、参考になりました」
謙遜するミルザムに樹利亜は笑顔で返す。
「この手のものだと、作り置きもできますしね。素晴らしいと感動しているところですよ」
「何だい、ずいぶんとまあ大げさな子だね」
ミルザムはそう言ったものの、まんざらでもなさそうだった。
料理を並べ終わったところでカノープスがやってきて、ミルザムに花を渡す。
「いつもすまんな。ほれ、お前が好きなカリタスの花だ」
「わあ! ありがとう!」
赤い大輪の花を受け取ったミルザムは、歓喜で顔を輝かせる。
「よかったですね」
樹利亜はちょっとうらやましく思いながら、ミルザムに話しかけた。
「うん、そうだね。うちの亭主の数少ない長所さ」
そう答える彼女は幸せそうだった。
「ろくに長所がない男ですまんね」
カノープスは苦笑している。
憎まれ口が愛情の裏返しだと知っているからだろう。
たしかな絆を築き上げている夫婦の余裕のようなものを、樹利亜は感じることができた。
(いいなあ)
素敵な夫婦だと樹利亜は心から思った。




