第二十九話
彼女の鼓動は早いままだったが、ここにきてようやく人心地がついたというところだ。
(心臓に悪かったなあ)
行き当たりばったり同然だった点は反省するべきだろう。
だが、過ぎたことをあれこれ思い悩んでいても仕方がないという気持ちもある。
反省をして今後に活かしていくことこそが肝要だ。
(風と歌う妖精でも同じようなことをする必要があるかもしれないし、それに必要な経験を積めたのはプラスよね。しかも上手くいったのだし)
つまり次も同じようなやり方でいいだろう。
それを考えれば気が楽になるではないか。
立ち止まって深呼吸をしながら、気持ちを立て直していった樹利亜はよしと気合いを入れて、両頬を軽く叩く。
たまたま近くを通りかかった人が怪訝そうな顔をしていたが、気づかないフリをして歩き出した。
「風と歌う妖精」のドアを開けると、やはり混雑した店内と忙しそうに動き回っている店員という光景が、樹利亜の目に飛び込んでくる。
飲食店のかき入れ時というのは、どこもあまり違いがなさそうであった。
「あら、ジュリアさん」
どう切り出そうかと思っていた樹利亜にヴェガが声をかけてくれる。
この時間帯に来ると伝えておいたのは正解なのだろう。
「平気なのですか?」
「ええ、大丈夫です」
樹利亜は答えてから小声で聞き返す。
「こちらのお店こそ今、平気でしょうか?」
出直してくれと言われた場合、彼女は従うつもりだった。
しかし、ヴェガはにこりと笑って応じる。
「平気にするんです」
言い切ったその表情はツワモノそのもので、樹利亜は言葉に甘えることにした。
基本的な流れは「花と風」の時と変わりはない。
ヴェガが店内の客たちに彼女を紹介し、その後に彼女が名乗るのだ。
店内の客が全員女性なのも同じである。
違いがあるとすれば、「風と歌う妖精」の方には男性従業員がいるという点だろうか。
「みなさまの要望はあるでしょうか?」
「特にないかしら」
こちらの方では客からの要望というものは出なかった。
ダイエットや美容にいいという効果で満足してもらえているらしい。
そこで樹利亜の方から提案してみる。
「お通じがよくなる効果はいかがでしょう?」
「あ、それはいいわね!」
「野菜を食べるようにしてるけどねえ」
「なかなか食事だけじゃ、上手くいかないのよねえ」
客たちの反応は良かった。
「ではそれも検討してみるということで、どうかしらヴェガさん」
樹利亜に話を振られたヴェガは苦笑しつつうなずく。
「ええ。お客様がお望みなら、当店としては提供できればと考えます」
彼女が言ったところで、客の一人が手を挙げる。
茶髪の二十歳かそこらの若い素朴そうな女性だ。
「あのう、ジュリアさんは靴下や腰巻きに体が温まる効果を付与してくださるとのことですが、それって飲み物にもできるのですか? 祖母が温かい物をとって体の内側から温まるようにと、お医者様に言われているのですが、なかなか難しいようで」
なるほどと樹利亜は思う。
体内から温まるといいとは地球でも聞いた覚えがある。
その点はこちらの世界でも同じなのだろう。
(できればやりたいところなんだけど)
樹利亜が乗り気になれなかったのは、引っかかる点があったからだ。
「お話は分かりました。私としてはできるだけお力になりたいと思います」
「じゃあ」
若い女性が青い目を輝かせたが、彼女は首を横に振る。
「その前に確認させていただきたい点があります」
「何でしょう?」
女性はきょとんとした。
樹利亜が何を聞きたいのか、まったく思いつかないようだ。
「お医者様の診断に従った物をお出しできるかどうか、私には分かりません。私がやっているのは治療行為ではないのですから、効果があることは保証できません」
樹利亜としては言っておかなければならないことだった。
祖母のためだという若い女性に協力したいのはやまやまだが、それでよい効果が出なかったとしても責任はとれないのだから当然である。
「はあ……」
若い女性はまだ分かっていないようだった。
樹利亜はどうしようかと悩む。
(体が温まる飲み物を扱えるなら、その方がいいのは確かなのよね)
ただ、それで医者に許可が出るような効果が出るかは、彼女としても疑問だ。
身も蓋もない言い方をするならば、危ない橋は渡りたくないのである。
「では医者が保証すれば問題ないのでは?」
しかしそんな声が起こった。
声がした方向を振り向けば、そこにはスピカがいる。
「スピカさん?」
樹利亜の声に彼女は応じず、発言を続けた。
「魔術関連に詳しい医者を私が紹介し、その上であなたが用意するものが医療的に推奨されるものかどうか、判断してもらいましょう。いかが?」
彼女はそう言ってまっすぐに青い目で樹利亜を射抜いてくる。
意志が強そうな瞳である。
だが、それを見た樹利亜はピンとくる。
(スピカさんは私にチャンスをくれたんだわ)
医者が保証するほどのものを提供できるとなれば、彼女の知名度はいっそう高くなるし、信用も勝ち取れるに違いない。
もちろん、それだけの評価を勝ち取るのは彼女自身の力によってだろうが、それでも大きなチャンスなのは事実だ。
「スピカさんがかまわないなら、私には異存はありません」
はっきり言って自信はない。
しかし、ここは他に選択の余地はない。
樹利亜はそう判断した。
「決まりね。あなた、いつなら時間があるの?」
スピカはさっそく切り込んでくる。
速断速決を重んじる性格のようだ。
「この後、少しなら時間はあります。紹介してくださるお医者様は、ここからどれくらい離れているのでしょうか?」
「ここからだと徒歩十分くらいってところかしら。あまり離れていても意味ないしね」
スピカのこの回答に樹利亜は目を丸くする。
魔術の知識もあるという医者が、意外と近くにいると知らなかったのだ。
だが、いいことを教えてもらえたとも思う。
「ではヴェガさんとの話が終わり次第ということで、いいですか?」
「私はいいわ」
客としてきているのにどうなのだろうと樹利亜は思ったのだが、スピカは気にしないらしい。
ならば遠慮なく手を貸してもらうと決める。




