第二話
男性は彼女に言い聞かせるようにゆっくりと話す。
「俺の弟子となれば魔術のほかにも情報や文字を教えることもできる。君にとって悪い話ではないと思うが」
「たしかにそうですけど」
樹利亜は男性の言い分はもっともだと思う。
彼の提案を断ったところで、彼女にメリットは何もない。
(今の私は誰かに助けてもらわなきゃ、何も分からないものね)
落ち着いてきたことで冷静な分析ができた。
自分の常識がどこまで通じるか分からない異世界で、自分の事情を知っていて自分に必要なものを教えてくれる人物がいるというのは、天の助けだと解釈する。
「ところであなたのお名前は?」
「シリウスだ。君の名前は?」
「池野樹利亜……池野が姓で樹利亜が名前です」
「姓を持っているのか」
シリウスと名乗った男性が初めて驚きを見せた。
「もしや君は貴族なのか?」
「いえ、ただの庶民です」
「庶民? ただの平民が姓を持っているだと? そういう世界もあるのだな」
シリウスはさっさと受け入れたらしく、すぐに冷静な表情に戻る。
(もしかしてこの人も貴族なのかしら?)
それだと何だか偉そうな態度も説明できるな、と樹利亜は考えた。
「ではジュリアと呼ばせてもらおう。ひとまず俺の自宅まで来てもらおう」
「え、まさか同居するのですか?」
樹利亜は思わず顔をしかめる。
いくら困っているとは言え、出会ったばかりの男性とひとつ屋根の下というのはさすがに抵抗があった。
「いやなら……まあ何とかしよう。俺もべつに下心があると誤解されたいわけではない」
シリウスは苦虫を大量に噛み潰したような表情で応じる。
「……ごめんなさい」
親切をうたがって不愉快にさせてしまったのは事実だったため、樹利亜は頭を下げて謝った。
「若い女性がそう思うのは無理もない。こちらの世界でもその感覚は忘れないほうがよい。気にするな」
「はあ」
理解されてよかったと思うべきか、こちらの世界でも若い女は気をつけなきゃいけないのかとため息をつくべきなのか、彼女は少し悩む。
「ではとりあえず俺の家まで案内しよう。歩けるか? 体に異常はないか?」
言われて初めてジュリアは自分の体に異常がないかたしかめてみた。
腕を振って見たり、後ろを向いてみたり、その場で軽く駆け足をしてみたが何ともない。
「大丈夫です。ただ、外出できる恰好ではないのが問題ですね」
パジャマではなく室内着だったのがせめてもの救いだと思いながら、樹利亜は言った。
「ふむ。こちらの世界の貴族には就寝用、室内活動用、外出用、礼服とあるのだが、そちらの世界でも同じだったのか?」
「はい」
言いたいことが通じそうで樹利亜はホッとする。
「女の服は誰かに買って来させるとしよう」
「ありがとうございます。稼げるようになったらお返しします」
樹利亜としては譲れない一線だった。
「弟子の面倒は師がみるものだから気にすることではないのだが」
シリウスは眉をあげる。
かなり意外そうであった。
「借りっぱなしでは申し訳ないので」
樹利亜が毅然とした態度で言うと、彼は納得したようにうなずく。
「わかった。返せるようになったら考えよう」
「ありがとうございます」
シリウスはけっこう柔軟な頭の持ち主らしく、彼女の言い分を聞いてくれた。
「では移動するぞ。【浮遊】」
「えっ?」
いきなり魔術を使われて樹利亜は目をみはる。
まるで遊園地の絶叫マシーンに乗った時のように体が浮き上がっていた。
「その恰好で歩けば足が汚れるだろう。慣れないだろうが、少しの間我慢してもらおう」
「ちょっ」
樹利亜が抗議するよりも早くシリウスは動き出す。
彼自身は地上を高速で移動するのだが、彼女は彼の魔術で強制的に移動させられる。
ジェットコースターの急加速並みの速度で、あっという間に二人は森の中にある白いレンガ造りの家の前に到着した。
「な、何だったの今の……? 移動するための魔術?」
思いやりというものが欠片もないと腹を立てるべきか、あまりあの場所に長くいたくはなかったのは事実だから配慮してもらえたと喜ぶべきか、樹利亜は迷う。
「ああ、すまない。移動のための魔術だ。やはり理解が早いな」
シリウスは少しも悪びれないどころか感心している。
(何かモヤッとする)
その態度に樹利亜は何となく気に入らなかった。
周囲への気遣いなど無用と思っていそうなところとか、自分がいいと思ってやっていることは肯定されるのが当然だと思っていそうなところだとか。
とにかく気に入らないものは気に入らない。
「さて入ってくれ」
シリウスがそう言って赤いドアの前に立つと自動的にドアが開く。
「えっ? 自動式なの?」
ここは異世界よね、と樹利亜は目が点になる。
「ほう? 君がいた世界にも似たような仕組みがあったのか?」
「ええ。魔術ですか?」
「その通りだ。登録してある魔力を感知して開く。後で君の魔力も登録しておこう。登録していない魔力の持ち主が不用意に接近すると、犯罪者撃退用システムが起動するからな」
恐ろしいことをさらりと言ってのけたシリウスは、涼しい顔をして手招きをした。
「私が一緒なら大丈夫だから安心して入りなさい」
「は、はあ」
おっかなびっくり入ってみると、意外なことに靴を脱ぐ場所がある。
「すまないが来客は想定していないんだ」
シリウスの言葉だったが、樹利亜はもっともだと思う。
森の中にわざわざ建てた家なのだから、想定している方が変だ。
彼は懐から黒電話のような物体を取り出すと何事か話している。
(そう言えば、女物の服を買ってきてもらうって)
樹利亜は先ほどの彼の発言を思い出していた。
それに彼女の足は上がるのが申し訳ないレベルでよごれてしまっている。
「さて、そのまま上がってくれ」
「え、よごれていますよ?」
通話を終えた彼の発言に樹利亜は何を言っているのかと反応してしまう。
「どうせよごれるのだ。それに後で掃除をすればいいだろう」
間違ったことを言っているわけではないのだろうが、何となく樹利亜は納得できなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
ただ、それでも今の彼女にはありがたい配慮でもある。
ごねても何にもならない気がしたため、彼の言葉に甘えることにした。
「着替えが届けられるまで三十分ほどだ。その間湯にでもつかっているといい。……風呂の入り方とかは分かるのか?」
「ええ。分かると思います」
樹利亜はうなずく。
わざわざ聞かれたということは、風呂を知らない異世界人でもいたのだろうかとふと考えた。
彼女は日本人らしく風呂が好きである。
こちらの世界では標準なのかどうかは知らないが。
「それならいい。念の為に案内しようこっちだ」
シリウスに案内され廊下を十メートルほど進み、右手に曲がると正面に洗面台があった。
(ああ、洗面台もあるんだ)
樹利亜は少し安心する。
何もかもが違うのではなく、いくつか共通している部分があるというのは彼女にとって非常にありがたかった。
「知っているかもしれないが、これは洗面台だ。蛇口や水道は分かるか?」
「ええ」
彼女が返事をするとシリウスはふむとうなずく。
「むしろ分からないことがあれば質問してもらう形の方がいいかもしれないな」
同感だったため、彼女は反対しなかった。
「左側がトイレ、右側が風呂だ」
シリウスはそう言って白いドアを開く。
「手前が脱衣室。奥に浴槽がある」
脱衣室と浴槽の間はガラス戸で仕切られている。
そのガラス戸をシリウスが開けて中を見せてくれた。
中にはシャワーと白いタイル、クリーム色の浴槽がある。
「さて、質問は?」
「お湯が出たり水が出たりしますか?」
「もちろんだ」
シリウスは答えるとシャワーの前でかがむ。
「右側をひねると湯が出て、左側をひねると水が出る。風呂についてはここのボタンを押せばいい」
彼はそう言って壁際にあった赤いボタンを押す。
「これも魔術なんですか?」
「そうだ。説明してもいいが、魔術の知識がないとおそらく意味不明だぞ」
「止めておきます」
樹利亜は素直に引き下がった。
基本的には日本のものと使い方も同じらしい。
(いったい全体、どういう偶然?)
と思わざるを得ないが、何もかも違っているよりは慣れやすいだろう。
この際、ポジティブに受け止めることにした。
「じきに湯がたまるだろう。湯がたまれば自動的に止まるから安心しろ。ではゆっくりな。……ああそうだ。アラームも貸しておこう」
「アラーム?」
樹利亜が聞き返すとシリウスは懐から黒い腕時計のような代物を取り出す。
「そうだ。時間を計り、一定時間が経過すれば音を鳴らして知らせてくれる魔術道具だ」
時計そのものだと彼女は直感する。
(こういうところまでそっくりなのね)
魔術や魔術道具があるかどうかを除けば、意外と大きな違いはないのかもしれないと思う。
「水にぬれても大丈夫なのですか?」
「ああ。水にもよごれにも強いぞ」
防塵防水仕様ということかと樹利亜は解釈した。
「四十分後に設定しておいた。鳴れば服が届いていると思ってくれ」
「分かりました。何から何までありがとうございます」
彼女が礼を言えば、シリウスは手をさっとあげて出ていく。
キザな男性だなと思いながら彼女は脱衣室で服を脱いだ。
実のところ汗とよごれで気持ち悪かったのである。
(これも魔術なのかしら?)
疑問を浮かべながら樹利亜はシャワーを浴び、お風呂を楽しんだ。
この世界で特に気になっていたのが風呂とトイレである。
(魔術のおかげでそこまで変わらないなら、悪くないかも)
あとは生理用品だが、こればかりはシリウスには尋ねにくい。
買って持ってきてくれる人が女性ならばいいのだがと思う。
アラームはまだ鳴らないので、次のことに思考を切り替える。