第十六話
楽観しようと前向きに考えながら、彼女は共用浴場に向かう。
場所は彼女の店兼住居から徒歩五分ほどの距離にある。
タオルは持参しなければならないが、男女で完全に分かれているし、女性用には女性の番台がいて脱衣場にはカギがかかるのもよかった。
(混んでいるわねー)
働いている人が多く、仕事が終わる時間が似ているのか、浴場は満員御礼状態だった。
洗い場も浴槽も混雑しているせいで、ゆっくり洗ってのんびりリフレッシュというわけにはいかない。
(毎日これくらい混雑しているなら、ちょっとくらいはお店を早く閉めてもいいかな?)
なんてことを樹利亜は考える。
閉店時間を自分の都合で変更できるのは、自分の店を持っている特権だ。
客がいるのならば問題かもしれないが、あいにくとあまりいないのだから誰も困らない。
(それよりもお風呂ね……)
まだ涼しいが冬が来たら湯冷めしてしまう。
何か考えておきたいところだ。
(カノープスさんは自腹でならつけていいと言っていたけど)
さすがにそれは考えてしまう。
どうせお風呂設備を用意するなら、賃貸物件ではなく持ち家でやりたい。
取り外しができて持ち運びもしやすいランプとはわけが違うのだ。
(持ち家を買うためには、どれくらいかかるかな~)
ちょっと暗くなりそうだったので、思考を中断する。
まだまだ混んでいるため、早めにあがった。
そして近所の青果店で買い物をする。
まとめて買って作り置きしておけば、外で食べるよりも安くできるからだ。
とてもではないが贅沢できないのが今の樹利亜である。
(肉も野菜もそんなに高くないから助かるわね)
買い物をしながら彼女はそう感じた。
それを考えると、おそらくこのイアンの街はいわゆる「大都市」ではないのだろう。
(大きな街になれば税金も物価も高くなるかもしれないのよね)
高望みはやめておこうと思う。
樹利亜はこの世界でつつましく生きていければそれで充分なのだから。
食事を済ませれば早めにベッドに入る。
別に明日早起きをする必要はないのだが、こちらの世界ではやることがないのだ。
(テレビもない、ネットもない、スマホもない……)
あるとすればせいぜい本くらいである。
(シリウス様から何冊か借りればよかったかな)
つい遠慮してしまったのだが、あまりにもやることがなさすぎて、ほんのちょっと後悔した。
もっとも、実際に本を借りれば返しに行くのが大変になるはずだが。
次の日、朝食をすませて下に降り、看板を出した。
(さあ、今日は何人来てくれるかしら)
欲を言えば昨日と同じくらい来てくれればいい。
そう思っていたのだが、看板を出して数分後にさっそくドアが開いて、十代の少年が現れた。
髪は茶髪で耳が犬のような形をしていて、尻尾が生えている。
(あら、獣人かしら)
と樹利亜は判断した。
こちらの世界には日本のファンタジー作品に出てきた獣人やエルフ、ドワーフが住んでいるとシリウスに学んだのだが、実物を見たのは初めてな気がする。
「いらっしゃいませ」
「こ、こんにちは」
犬の獣人はあどけないが整った顔立ちの少年で、後数年もすればさぞ美青年になるだろうなと樹利亜は思う。
(緊張しているのも可愛らしいわね)
年下趣味はない彼女は微笑ましく感じるだけだが、そうでなければノックアウトされてしまったかもしれない。
「ここのお店、腰巻きと靴下に付与魔術をかけてもらえるって聞いたんですが」
「ええ、そうですよ」
少しずつ広まっているのだろうかと思いながら樹利亜は返事をする。
「あなたが使うの?」
こちらの世界では男性も必要とするのだろうかと気になり、彼女は尋ねた。
「いえ、おばあちゃんに使ってもらいたくて……おばあちゃん、腰痛と冷えでつらそうだから」
獣人の少年は端正な顔を悲しそうにくもらせる。
「まあ。おばあさま思いなのですね」
樹利亜がそう言うと、少年はちょっと照れくさそうに鼻をこすった。
「へへへ。いつもかわいがってもらっているしね。おばあちゃん孝行したいんだ」
「そうですか」
樹利亜が返事をすると、少年は白い靴下と赤い色の腰巻きをそっと差し出す。
「ふたつで大銅貨二枚いただきますが、よろしいですか」
「うん。こづかい、貯めて来たから」
少年はそう言うと、ごそごそとズボンのポケットをあさって、大銅貨を二枚とり出した。
「ありがとう」
樹利亜は受けとってから付与魔術を発動させる。
「はい、できました」
「えっ? もう?」
少年は赤い目を丸くしていた。
「ええ。大丈夫なはずですよ」
「早いなあ」
少年はまじまじと腰巻きと靴下を見ていたが、やがて白い歯を彼女に向けた。
「これできっとおばあちゃんも喜んでくれるね! お姉さんありがとう!」
そう言って小走りに去っていく。
「おばあちゃん思いのいい子がいるのね」
ほんのりと心が温かくなった。
同時に日本に残してきたであろう家族のことを思う。
(いつか帰れたらいいな)
そのためにはまずここで生きていかなければならない。
そしていつの日か「ただいま」と言うのだ。
暗く沈みかける気持ちを立てなおしているところへ、再びドアが開く。
さっきの少年が戻ってきたのかと思いきや、今度は四十歳くらいのふくよかな女性だった。
「こんにちは。ここって冷えに利く魔術をかけてくれるんだって?」
「はい。今のところ靴下や腰巻きを承っております」
樹利亜が答えると、女性は手にしていた紺色の靴下を彼女の前に出す。
「じゃあこれをお願いね」
「分かりました」
樹利亜はすぐに魔術をかけ、女性に話しかける。
「終わりました。料金は大銅貨一枚ちょうだいします」
「早くない?」
彼女は驚いたと言うよりは、うさんくさそうな反応だった。
「そうかもしれませんが、効果は出ているはずですよ」
「ふうん」
女性はそう言って大銅貨を一枚出してくれる。
理由をつけて払ってもらえなかったらどうしようと思ったのだが、それは杞憂だったようだ。
女性が去っていくと、何人もの人が訪れてジュリアを驚かせた。
昼までにやってきた人数は八人である。
(どうして急に……?)
看板を店の中に入れて休憩に入りながら、樹利亜は首をひねった。
昨日は一日でふたりだけしか来なかったのに、午前中だけで四倍になった計算である。
何かあったのは確実だと思う。
(カノープスさんたちが宣伝してくれたのが、広まったのかしら?)
というのが一番ありえそうな考えだ。
(そうだとしたら、落ち着いたところでお礼を言わないといけないわね)
彼女ひとりの力ではないのだから、お礼をするのは当然だ。
そう思いひとまず仕事に戻る。