第十五話
カノープスとミルザムと賃貸契約を交わし、その後彼らを連れて例の不動産屋に行った。
カノープスたちがいいならと不動産屋は何も言わなかった。
シリウスが手配したらしい人たちの手で、あっという間に必要なものが運び込まれ、整えられた後、ミルザムが樹利亜に尋ねた。
「お店の名前はどうするんだい?」
「……魔術具ショップジュリアでいこうかと思います」
樹利亜は少し迷った末に答える。
店の名前に自分の名前を使うのはありがちらしいと、この街を見ていて覚えたからだ。
異世界人である彼女にとって、店の名前と自分の名前を一緒に覚えてもらうのは悪くないと判断したという事情もある。
店の看板を出した次の日、さっそくやってきた客があった。
五十歳くらいの女性で、身なりは悪くない。
「いらっしゃいませ」
笑顔で出迎えた樹利亜に、女性はキョロキョロと店内を見回しながら聞く。
「ジュリアって付与魔術師が開いた店ってここでいいんだよね? カノープスの店の隣だし」
「ええ、こちらであっております。どのようなご用件でしょうか?」
いきなり情報が広まっているのはさすがに信じられない。
(たぶん、エマさんか、シリウス様か、不動産屋さんか、カノープスさんたちの知り合いよね)
心当たりをいくつも思いつくのは幸せだ。
樹利亜は幸運と、幸運によってもたらせた知己にそっと感謝する。
「ここのお店、靴下をほっかほかにしてくれると聞いたんだけど」
その女性はそう言って、紺色の靴下を一足取り出して見せた。
「はい。承ります。お代は大銅貨一枚ですね」
と樹利亜は営業スマイルを浮かべて言う。
ちょっと高い気が彼女はしたのだが、「まっとうな技術料や魔術の代金は請求しろ」とシリウスに厳しく言われ、それに従った。
「ああ、はい」
女性は驚きもせずに大銅貨を取り出して手渡す。
「ありがとうございます。それでは」
樹利亜はさっそく付与魔術をかけた。
「これでいいんですか?」
女性は珍しそうと言うよりは不思議そうな顔で尋ねる。
「はい。もう履いていただいても大丈夫ですよ」
「早いわねえ」
女性は感心した様子で、樹利亜の顔と靴下をまじまじと見つめた。
「じゃあ家に帰ったら、さっそく試してみるわ」
女性は帰っていき、樹利亜はひとりめの客が来たことにホッとする。
(幸先よかったわね)
と思った。
しかし、その後客はなかなか来ず、樹利亜の気持ちはやや下降してしまったところで、昼休みに入る。
従業員が入れば交代で休憩をとればよいのだが、今の彼女にそんな余裕はない。
一時的に看板をしまって二階の自宅へあがり、手早く朝の段階で作り置きしておいたスープを温めなおし、パスタと一緒に食べる。
「最初のうちはこんなものかしら」
そう言葉に出してあせりそうになる自分を抑えようと努力した。
「そうよ。初日でひとり来ただけでも上出来よ」
うすく淹れたハーブ茶を飲みながら、そうつぶやく。
(この世界では一か月が三十日で、店舗経営者は最低五日休みを取らないといけないんだっけ)
シリウスに教わったこの国の法律を思い出す。
つまり店を営業できる二十五日で家賃と生活費を稼がなければならない。
(家賃と生活費を入れた支出がだいたい銀貨十一枚くらいと仮定した場合……一日に大銅貨五枚くらいは稼ぎたいところよね)
それだけの売り上げがあれば生活の心配をしなくてもすむ、というわけではない。
(問題は税金なのよねえ)
税金は住居税だけらしいのだが、街によって変わる。
イアンの街の住居税は年間銀貨十五枚だという。
固定なのはありがたいのだが、売り上げが悪くても免除されない点が非常に厄介だった。
(年間当たりの支出の想定が銀貨百三十二枚、税金を足して百四十七枚か。これを二十五日かける十二か月、つまり三百日で割ると……あれ、四千九百?)
計算していた樹利亜は意外なことに気づく。
一日あたり大銅貨五枚稼ぐ程度では税金を払えないと思っていたのだが、どうやら税金を払うところまではいけそうだ。
(もっとも手元に残るのが一日あたり銅貨一枚程度じゃ、お話にならないけどね。大銅貨五枚の売り上げが安定して入るとは決まっていないし)
銅貨一枚、つまり約十円程度である。
一か月あたり約二百五十円程度しか自由にできるお金がないというのは非常に厳しい。
新しく服を買い替えることすら難しいだろう。
(こっちの世界では古着屋が人気な理由、ちょっと理解できた気がするかも)
それだけ厳しい生活を送っている人が多いということだ。
(軌道に乗るまでは我慢して、削れるところは削らなきゃ)
と決意を新たにする。
そして休憩を終えてもう一度看板を出し、ぼんやりと店内で来客を待つ。
三十分、一時間、二時間と時間が経過したころ、再びドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
樹利亜が笑顔で声をかけると、入ってきた小柄な老婆がおずおずと尋ねる。
「ここの店、腰巻きに魔術をかけて、あったかくしてくれると聞いたんですが」
「はい、できますよ。腰巻きはお持ちでしょうか?」
樹利亜は応答しながら老婆のところに歩み寄った。
老婆は言葉にこくりとうなずき、肩からかけていた紺色のカバンから、茶色の腰巻きを取り出して彼女に差し出す。
樹利亜が魔術を発動させると白い光が腰巻きを包む。
「はい、できました」
「もう終わったのですか?」
老婆は細い目を見開いて、驚きをあらわにしている。
「はい、そうですが」
怪訝そうな樹利亜に対して、老婆は半信半疑という顔で腰巻きを受け取った。
「大銅貨一枚、頂戴いたします。今日この後すぐお試しくださいね」
「ええ、そうしますね」
老婆が去り、ドアを閉めたところで樹利亜は首をかしげた。
「魔術の発動って、もっと時間がかかるものなのかしら?」
彼女が知っているのは自分とシリウスくらいだ。
そしてシリウスの魔術の発動速度は、彼女よりもさらに速い。
だから彼女は自分がまだまだ大したことはないと思い込んでいたのである。
(まあいいか。別にマイナスなわけじゃないでしょうし)
速くて効果もしっかりあると評判にならないかなと、少し期待してみることにした。
その日は結局ふたりだけしか来なかった。
(初日なら、来てくれる人がいるだけマシだよね)