第十三話
「じゃあこっちだよ」
建物と建物の間には人一人が通れる隙間があり、ミルザムはそこを通る。
次に樹利亜が行き、最後にエマが続く。
脇にある赤いドアを開けると、ミルザムは二人に手招きをする。
「どうぞ。入っておくれ」
「失礼いたします」
エマが気を利かせて先に入ってくれたので、樹利亜は彼女のまねをした。
玄関で靴を脱ぐ場所はなく、シリウスの家とのギャップに驚くハメになる。
すぐ右手側が応接室らしく、そこに通された二人は来客用のソファーに腰をかけた。
「ちょっと待っていておくれ。お茶を淹れて旦那を呼んでくるから」
ミルザムはそう言い残し、部屋を出ていく。
応接室にはテーブルとソファー、椅子があるだけだった。
花瓶もないし皿もなく、暖炉もない。
(こういうのが一般的なのでしょうね)
と樹利亜は観察しながら思った。
魔術師が珍しいのであれば、生活水準が高くても不思議ではない。
街から外れて森の中に家を建てて暮らせるのだから、なおさらだ。
もしかするとシリウスだけがおかしいのかもしれないが。
ほどなくしてミルザムは飲み物をトレーに乗せ、ずんぐりとした体格の良い、オレンジ色の髪をした中年男性を伴って戻ってきた。
ドアを開けたのはその男性である。
「お待たせ」
ミルザムはそう言って二人の前にまずお茶を置き、それから自分たちの分を置いた。
「お前さんたちか、隣の店舗を借りたいというのは? ……ああ、ワシがこいつの亭主のカノープスだ」
「初めまして、樹利亜です。そうです、私が検討しています」
カノープスはじっと樹利亜を見つめる。
「ジュリアか。魔術師なんだって? ミルザムの奴が絶賛していたぞ」
「ありがとうございます」
樹利亜は謙遜しそうになるのをぐっと堪え、頭を下げて礼を言った。
今の彼女は自分の実力を売り込むべき立場だ。
謙遜しない方がよいと直感的に考えたのだ。
「腕のいい魔術師が入ってくれるなら、ワシとしても歓迎したいところだ」
カノープスはそう言って、柔和な笑みを彼女に向ける。
「しかし、見た感じ訳ありのようだな」
チラリとエマに視線が移った。
(どうしよう?)
樹利亜は少し迷ったものの、事実を打ち明けることを選ぶ。
隣同士となると、隠していても何がきっかけで知られてしまうか分からないと思ったからだ。
「実は私、こっちの世界に迷い込んできた者でして」
「ジュリアさん」
エマは驚いたように彼女に声をかける。
言ってはまずかったらしいとニュアンスから分かったが、もう遅い。
「ふむ? そういった話はたまに聞くな。当事者を見たのは初めてだが」
カノープスとミルザムは目を丸くしている。
「それじゃ準備金はなしでもいいだろう」
「えっ、いいのですか?」
カノープスの思いがけない言葉に、樹利亜が目を見開く。
「払えと言っても無理だろう。それに準備金はな、家賃を支払う能力がないのに借りた挙句、払わずに逃げるような奴の対策として存在する。言っちゃ悪いが、あんたのような人は逃げようにも逃げるアテはないだろう」
「そ、それはその通りです」
カノープスの言う通りだ。
樹利亜が知っているのはこの街とシリウスの家くらいしかない。
(この立場が逆に安心されるなんて、思ってもみなかったわ)
と異世界人の考え方に驚かされた。
「それに腕のいい魔術師なら、家賃を滞納される心配はまずいらないからね。ジュリアならきっと店を繁盛させられるよ」
ミルザムも笑顔でそう言う。
ああ、そうか、魔術師というのもある種の保障になっているのか。
樹利亜はようやく気づいた。
「できれば物件の中を見せてもらえたらと思うのですが」
彼女がそう言うと、カノープスはあっさり許してくれる。
「いいだろう。今から行くかい?」
「えっ、いいのですか?」
またまた樹利亜は驚かされた。
早い方がいいのは確かなのだが、カノープスの対応は信じられないほど迅速だ。
「ありがとうございます。お願いします」
もしかするとこれが異世界のテンポなのかと思いながら、樹利亜は受け入れる。
「うん。じゃあ四人で行くかい?」
「はい。あ、カギは」
不動産屋が入っているならば、物件のカギも不動産屋が持っているのではないだろうか。
樹利亜はそう思ったのだが、カノープスはにやりと笑う。
「不動産屋が一つ、ワシらが一つ持っておる。だから心配はいらん」
「そうでしたか」
ミルザムが立ち上がり部屋から出ていく。
カギを取りに行ったのだろうなと思って見送ると、ほどなくして飴色のカギを一本持ってくる。
「もしもあんたが借りれば、ワシらのものと不動産屋が持っているものを預けることになる。誰かに渡すのは自由だが、ワシらか不動産屋のどちらかに報告はしてくれ」
「分かりました」
四人は連れ立って例の店舗へと向かう。
道が狭いので一人ずつしか通れなかったのだが、あまり不便とは感じない。
ミルザムがカギを開けて頑丈そうな木の扉を手前へと引く。
「さあどうぞ」
彼女に言われて樹利亜は店の中に入った。
中は当然のように真っ暗だったが、ミルザムが慣れた様子で壁際のランプに明かりをつける。
当たり前だが何もない空間が広がっている。
大きさはおそらく十畳分くらいだ。
「念の為に言っておくとこれは魔力式じゃないし、燃料はあんた持ちになるからそれを忘れちゃいけないよ」
とミルザムが忠告した。
「ああ、そうなのですね」
燃料はどれくらい必要なのだろうと樹利亜が計算していると、カノープスが背後から口を出す。
「あんたは魔術師なんだし、魔力式に変えてもかまわんよ。もっとも費用はそちら持ちだがな」
どうやら店舗の設備に関しては原則として樹利亜が決めてよいらしい。
費用を全て自分で負担しなければいけないからかもしれないが、なかなか自由度がありそうだ。
そう考えたところで樹利亜はエマに尋ねる。
「エマさん、魔力式ランプってこの街で売っていましたっけ?」
たしかデネブの店では見かけなかったはずだ。
エマは困った様子で答える。
「この街では売っていないと思います。入手手段はあると思いますが」
彼女の言う入手手段とは、シリウスから譲ってもらうことだろう。
(魔力式だとコストはかからないし、火事のリスクもはるかに減少するのよね)
とシリウスから学んだ知識を思い出す。
安全性という観点でも経済的な理由でも、魔力式のほうがずっと優れている。
問題は魔力を適時供給しなければならないという制約があることで、だからこちらの世界では一般的にはなっていないのだ。
「ランプって全部でいくつあるのですか?」
「店舗のほうには二つ。二階の住居部分には玄関、風呂、トイレ、寝室の四つだったかな」
カノープスがちらりとミルザムを見て、彼女は小さくうなずいた。
「どこにあるかは実際に見てもらうとしよう」
カノープスがそう言うと、ミルザムが階段のほうへ歩いて樹利亜たちを誘導する。
(日本だったらスタッフオンリーとか書いていそうね)
黒いドアをくぐりながら樹利亜はそんなことを思う。
ドアの先にはおそらく住居用の玄関と見られるスペースがあった。
そこから階段をのぼって住居用のエリアへと向かうのだ。
「おっと、階段にもあったか」
明かりを消して追いついてきたカノープスが最後尾でそんなことを言う。
たしかに階段ののぼり口にランプが一つあって、これは持ち運びできるようだ。
靴は階段の手前で脱いで一人ずつ順番にあがっていく。
(階段の上から蛍光灯みたいに照らせたら便利なんだけど)
蛍光灯のようなものがこちらの世界にはないのだろう。
シリウスの屋敷ですらなかったのだから、入手は諦めたほうがよさそうだと樹利亜は判断する。
「ほら、見てくれ」
ミルザムにうながされて樹利亜は中をのぞきこんでみた。
階段を左に曲がればトイレがあるが、シリウスの家のような水洗式だった。
「あら、こちらのトイレは」
樹利亜が目を丸くすると、ミルザムが笑う。
「やっぱりこっちのタイプのほうがいいからね。衛生的にもさ。だから奮発して作ったんだよ」
「その分家賃を高くしないとわりに合わなくなっちまったけどな」
カノープスもガハハと笑った。
(ちょっと安心ね。やっぱり汲み取り式はつらいもの)
と樹利亜は胸を撫で下ろす。
田舎の祖母の家ではいまだに汲み取り式で、正直あまり使いたくなかったものだ。
そこまで考えてもう一つの重要アイテム、風呂がないことに気づく。
「お風呂はどうすればいいのでしょう?」
彼女が聞くと、カノープスは目を丸くする。
「へえ、お嬢さん、風呂なんて高級品を知ってんのか」
「え、えと、まあ、一応は」
何かまずかったかと樹利亜は慌てたが、エマが動揺していなかったので安心した。
「風呂なんてものを家に持てるのは、貴族様か金持ちくらいさ。俺たちは共同浴場を使っているんだ」
「そうなんですね」
樹利亜はうなずく。
(ということは、シリウス様ってやっぱりお金持ちなのね)
同時に納得もした。
強力な魔術師は少なくて価値が高いならば、シリウスもそうなのだろう。
シリウス本人を見るかぎりそんな大した人物には見えなかったが。
エマの手前、言えない感想である。
「寝室や台所はこっちだよ」
とミルザムが言った。
台所とダイニングルームを兼ねたような部屋があり、六畳間くらいの広さがあった。
そしてその奥に白い引き戸があり、開ければ寝室がある。
ベッドとマットレスはあるが、枕やシーツ、布団などはなかった。
聞くまでもなく自腹で用意するべきものなのだろう。
「窓を開けりゃ通りが見えるのは言うまでもないね」
ミルザムがそう言うとカノープスが質問を発する。
「どうだい? 気に入ってもらえたかな?」
「ええ。いい感じの物件ですね」
樹利亜は率直な感想を述べた。
(お風呂がないのだけは残念だけど、他は悪くない感じだわ)
今の自分は高望みできるような立場ではない。
このような条件でも感謝しなければいけない、と樹利亜は思う。
「えっと、相談したい人がいるので、待ってもらえたら嬉しいのですが」
それでも即座に決めなかったのは、シリウスに確認したいからだ。
万が一問題でも起これば、シリウスに話がいくのだろう。
つまり樹利亜がどこに住むのか彼に報告し、承認を得ておくのが筋だと彼女は考える。
「ああ。あんたの場合、保護者か何かはいるんだろうし、その人に許可をとっておかないと、後日面倒になりかねないからな」
カノープスは物分かりがいい返事をくれた。
「ジュリアさん、まだ家賃を聞いていませんよ」
エマが苦笑しながら指摘する。
「あっ……」
樹利亜とカノープスが同時に声を漏らす。
どうやらうっかりしていたのは彼女だけではなかったらしく、ミルザムがあきれた顔をしている。
「えっと、おいくらでしょうか?」
「家賃は銀貨七枚と大銅貨五枚だね」
高い。