宮野サワ
密室の作り方。
まず、自分の部屋に入りドアを閉める。
窓が開いていたので閉める。勿論鍵を掛けよう。
もう、これで簡易密室完成な訳なんだが、生憎とこの部屋のドアには鍵が無い。
自宅の一部屋を親から与えられただけだからね。
わざわざホームセンターに行き鍵付きのドアノブを購入して来る程暇でもないし、そんな日曜大工好きでもない。
更に、いくらするかは知らんが、そんなに小遣い貰ってないし、自転車が使えればオッケーだけど、ホームセンターに行くまでの交通費もバカにならん。
大体、我が家の近くにはホームセンターなるものがない。
そんな鍵無しの部屋の住人には、朗報だ。
一度も使ったことのない大工道具袋が、この部屋には何故かあるんだな。
ゴム製のハンマー一個と、これも使ったことの無い錐が二本。使いもしない物がどうして二本あるのかは不明だが、これでドアノブを挟むようにして打ち付ける。ガンガンぶん殴れば、結構簡単に刺さる。ドア枠が木製なのは良いことだ。
ゴムハンマーで殴り付ける理由は簡単。
鉄のハンマーだと、錐のお尻が木製だから壊れちゃうじゃん。壊れないようにぶん殴るのはなかなかコツが要るけど、密室を作る為の労は厭わない。
錐の持ち手部分を、これまた袋から出してもいない針金を使って縛る。この道具袋には、普段の生活で絶対使わない物が大量に入っている。何故押入れにこれが入っていたかも不明だ。
とにかく、自分で金を出して買った物はひとつも無いので安上がりだ。
「うん。なかなかの密室ぶり」
自画自賛し、窓際のベッドに倒れて見る。顔を横に向ければ、ガチガチに固められたドアノブが見える。窓も閉まっているし、開いているのは換気口くらいだね。別に開いていたからと言って、人の出入りが出来るスペースでもないから、密室としては完璧でしょ。
大工道具入れから鉄製のハンマーを取り出し、右手に持ち寝転がっている。
右手を上げ、このまま思い切り頭に振り下ろせば、密室殺人の完成。
ところで、自分で自分を殴り、即死させる事は可能なんだろうか。
まあ、実験してみりゃ良いんだよね。即死しなかった場合は、それでも頭蓋骨くらいは割れて、中の血管とか傷付けて、なんらかの原因で死ぬことが可能だと思われる。もっと簡単に、練炭を焚くという手法もあるが、ガムテープで密閉している間に気が変わりそうだ。同じ理由で洗剤を混ぜるのも却下。
臓器移植の意志表示カードは書いておこう。家族の判断なんて、その時々で変わるし、正直人が死んでいる時の判断力なんて当てにならん。誰々の中で心臓だけ生きているとか、目玉だけ生きているとか、感動秘話に参加したいならば、提供の意志アリにチェックしておけば良い。
まあ、事件性のある死亡案件の場合、司法解剖とかに回されちゃう筈だから、新鮮な臓器を必要とする移植手術には使えないんじゃないかと思う。今は密室殺人の話だから、興味のある人はネットで検索して調べてくれ。
問題は、このハンマーだよね。指紋が付いちゃっているし、死んだ後で隠す方法が見つからない。密室殺人で凶器が残っているのは、ミステリーでも何でもない。
「大体、これは殺人じゃなくて、自殺じゃん」
当たり前のことを、口に出してみた。
起き上がり、ドアノブをガンガン殴って錐を外す。好都合なことに、両親は留守なんだよね。
「どうして、冬休みっていうのは、こう……暇なんだろう?」
北海道の真冬に窓を開け、空気の入れ替えをしているのは、どう考えてもこの部屋の住人だけなんじゃないだろうか。
外はマイナス何度って気温だからね。正気の沙汰じゃないってことはいくらなんでも判っているよ。
これは、冬休みの自由研究のつもりでやっている『完璧な密室殺人の行い方。その二』の実証実験。ちなみにその一は、夏休みに自由研究として提出したけど、再提出の評価を貰ったよ。
今時の中学校で、こんなタイトルの自由研究を受け付ける筈もないんだけどね。先生がどんな顔するのか見たくて、暇つぶしにやってみたんだ。
案の定、部活終わりに生徒指導室に呼ばれて、説教されちゃった。
『中学三年にもなって、こんなバカなことをするな!! 受験に備えて勉強するのが、お前のやるべきことだぞ!? 云々……』
みたいなことを言われた覚えがあるね。
そのせいかも知れないけど、冬休みの宿題は多かったかな。いくら多くても、冬休み初日のうちに終わる量だったけどさ。
北海道の学校の冬休みは長いんだよね。その分、夏休みが短い。
8月後半の日曜夕方放映されているアニメなんかで『今日は8月31日、宿題に手をつけていない! どうしよう!?』みたいなことを、主人公なり他のキャラクターなりが叫んでいる頃、北海道の学生は既に二学期が始まっていたりするんだよ。
今はその逆で『4日から学校に行かなきゃ!!』なんて騒ぐことは無いんだよね。今日が12月30日だから、まだ丸々二週間は休みが残っているかな。
ちなみに、一年の夏休みに研究して提出した『領土問題を解決しない人に読んで欲しい、元島民の言葉と、その地からシベリアに連れて行かれた人たちの言葉』というレポートは、なんか偉い人に呼ばれて怒られたよ。『我々は全力を尽くしている!!』とかなんとか言っていたけど、70年も前のことを未だに解決出来ていないんだから、無能なんじゃないかと疑いたくなるね。そのレポートに書かれた、元島民やシベリアに抑留された人たちの言葉は、実際にこの足で根室の辺りを回って集めた物だから、嘘は書いてない筈なんだけどね。まあ、随分前の話だから、取材したお爺ちゃんお婆ちゃんが惚けていて、嘘八百並べたのかも知れないけどさ。
話半分に聞いても、凄い話が沢山聞けて、単純に教科書とにらめっこしているよりはリアルな勉強になったから、個人としては問題ないかな。
大体、たかが北海道に住む中学生が、夏休みの暇つぶしに作ったレポートに目くじら立てないで欲しいね。
それを踏まえ、冬休みは簡単に『北海道で迫害され続ける先住民族の言葉集』を総力取材したんだけれど、これも提出したまでは良かったんだよ。夏休みのレポートもね。どちらも提出した瞬間は結構な評価を受けていたんだ。後で取り消されたけど、地域の教育委員会から表彰までされたんだよ? それが中央の教育委員会とやらで問題になり、終いにはそこの偉い人に呼ばれて説教って、意味が判らん。
だから、二年の夏休みから自由研究の題材は、少なくともそういう人に関わらないような題材に変更したんだよ。
二年の夏休みは『総力取材、ニホンザリガニを探せ。消えて行く日本固有種の衰退の現実』冬休みは『冬眠しなくなった羆、知床の冬を歩く』というタイトルでレポートを出した。
これも担任教師にウケたけど、職員会議で問題になり却下されたよ。中学生が社会問題に目を向けちゃダメなのかね? 論調が批判的だと寸評は貰ったから、不可よりはマシだけどね。
それで三年は『完璧な密室殺人の行い方。その一と二』これなら空想上のお話だからオッケーとか思ったんだけど、読んで実際殺人事件が起きては困るんだってさ。『名探偵何某』じゃあるまいし、計画的密室殺人なんて現実に起きる可能性は殆ど無いと思うんだけどさ。そんなことを言うなら、朝昼晩関係なくテレビで再放送しているその手の殺人の起きる番組を注意しなさいよ。
受験勉強ね。
高校進学に意味は感じないけど、現代医学上、奇妙なくらい長生きするのは判っているから、時間潰しに行くのはやぶさかじゃない。大学まで行くかは考えてないけど、少なくとも、あと7年は学生でいたい気分なのも確かだよ。大学卒業しても、就職とか無さそうな時代だけどね。勉強は一応しているし、学年順位も10番から下に落ちたこともない。だから、受験に失敗する事も考えたことはないよ。
しかし、これじゃ自慢だね。
まあ、北海道の中学で学年10番以内でも、全国なら1000番以下でしょ。
何かの研究をする度に潰されるんだから、少なくとも『あたし』が学者になることは考えられないよ。着目点が悪いなら、ちょっとはそういう方向に修正出来るように指導するのが教師の役目じゃないのかね。
それとも中学生らしく乙女チックに『ジンギスカンの正しい焼き方と、浸けるタレの作り方』とか『将来の夢はお嫁さんと書かなくなった本当の理由』とか研究しろってことなのかね。
それはそれで、論調が変わるとも思えんのだけど。
『完璧な密室殺人の行い方。その二。』は、完全に行き詰っている。研究しようにも、そんな形で死んだ人間に取材出来ないもんね。
知り合いのオジサンに鑑識の人が居るんだけど、当たり前な話、警察内の話を外部に漏らすようなバカじゃないんだよね。このオジサンは守秘義務が服を着て歩いているんじゃないかと錯覚するくらい、堅いんだよ。
まあ、あんまり柔らかいと、懲戒免職とかになっちゃうんだけどさ。
このオジサンと知り合ったキッカケは、小三の時に起きた事件で、それからちょっと交流があり、中一の夏休みレポートで、完全に国家権力からマークされちゃったあたしの監視役になったからなんだ。
あまりに下手な尾行だったんで、先回りして『そんなに警察って暇なの?』って、中学生の女の子らしく、可愛く聞いたつもりだったんだけど、かなり怒られた。
『俺は本職じゃないから尾行も下手だし、本来の警察は危険思想を持つ人間一人をいちいち尾行観察したりはしない。俺は上司の命令で、君の後ろをくっついて歩けと言われただけだ』
どうやら危険思想少女を保護観察しているようなのよ。
やっぱり暇なんだとしか思えなかった。
まあ、後で考えると、このオジサンがいつもストーカーみたいにくっついていたお陰で、あたしは何度か命の危険を救われたんだけどさ。
名前は発唆夢南、冗談みたいな名前の、本職は鑑識係の暇な人。
ちなみにあたしの名前は宮野サワ、婆さんみたいな名前の危険思想家のレッテルを張られた女子中学生。
「ねぇ」
地下鉄のつり革に掴まった体制で、ブレーキの度に揺れる車内、隣には同じ高校を受験する園ちゃんが居る。
丸山高園ちゃんとは幼馴染。
「どうしたの?」
園ちゃんはおっとりした性格で、メガネっ娘。絵に描いたような秀才で、いつもあたしより成績は上位。ついでにクラス委員。ちなみにあたしは体育委員。
今日は高校受験の当日なのよね。
普段乗り慣れない地下鉄は満員で、ついでにこっちが寝坊したから、時間もギリギリなんだよ。大通駅の乗り換えまでは大して混んでもいなかったんだけど、朝の南北線は通勤通学の人たちに、普段は乗らない受験生が押し寄せて、かなりの混雑。
こんなことなら、昨日から受験会場前でテントでも張って寝ていれば良かったかも。まあ、札幌の街中でそんなことをしていると、この時期なら簡単に凍死するけどね。
ワカサギ釣りに行き、テント内にて練炭で暖をとっていて、中毒で死んだなんて話を聞く時期の話だからさ。
まあ、それは置くとして。
「あたしのお尻って、そんなに触り心地が良いと思う?」
「はい?」
聞き直したい気分もわからなくもない、受験当日に何を言っているんだよって感じだもんね。
でも、さっきから一人居るんだよね。ブレーキが掛る度に、変なくっつき方をする奴がさ。
しかも、人の尻目掛けて、手が揺れまくっているんだよ。
手動バイブレーターとか言うつもりかね。
「……もしかして、痴漢?」
囁いてから、園ちゃんがあたしの肩越しに後ろを確認する。
園ちゃんくらいのおっとりさんでも、その人物に当たりは付けたみたい。
「どんな奴? 格好良いなら許すけど」
「私たちには一生縁の無さそうな、それらしい人が居るよ。でも、手の位置が確認出来ないよ」
「そう……そいつじゃないね。当たる手の感覚からすると、園ちゃんの真後ろ辺りなんだよ」
園ちゃんに確認してもらったあたしがバカだったよ。
それらしい人と表現された人、ごめんなさい。
園ちゃんは流石に真後ろを向く事が出来ないので、結局自分で振り返る。園ちゃんの真後ろに立つ男は、普通にしか見えないサラリーマン風の背広男。年代は40代くらいかな。ウチの父と同じくらいの年齢ね。
園ちゃんの真後ろに居るのに、触るのはこっちの尻。それらしい替え玉があたしの斜め後ろに居るのも計算している。つまり常習犯。
近くにストーカー兼監視役のオジサンが居る筈なんだけど、こう混んでいると、何処に居るかもわからない。
ああ、考えてみれば地下鉄って密室だよ。こんな身近に密室があるんだ。冬休みの自由研究にこれを書かなかったことに少し腹を立てた。
もちろん、痴漢行為に目を瞑る気もないよ。
次の駅で停まる為のブレーキングが始まる。人間は皆同じ方向に傾くよね。その斜角が他の人より多い人間が居る。そいつが痴漢。背広の男だ。
さっきから人の尻を撫で回すだけ撫で回している人間。こんな奴が社会人として会社とかに通っているかと思うと、反吐が出そうだよ。
「きっと、奥さんと、お金の掛る子供が二人居て、年収に見合わない持家を買って、ローンで首が回らないんだね。あたしのお尻で良ければ、差し出しますよ?」
車内に居てこの声が聞こえた人間は、全員ポカンだよ。
園ちゃんがその性格に似合う感じで、口に手を充て赤面した。園ちゃんは可愛いんだよ。
にも関わらず、こいつはその隣に居るあたしを狙いやがった。
「……なんて、言う女子中学生が居る訳ないだろぉーーっ!!!」
地下鉄が停車して、ドアが開くのと同時に手を掴んで振り回し、ホームに押し出す。
背広男は無様に転んだ。
園ちゃんが手を伸ばして止めようとしたけど、あたしもホームに降りる。それこそ尻押しをしていた駅員がすっ飛んで来たね。乗り込もうとする客を掻き分け、ストーカー兼監視役のオジサンもホームに降りて来る。
「事情は後で聞くから、君は試験会場に向かいなさい」
普段はどう見てもストーカーにしか見えないオジサンが、珍しく本物の警官に見える。
本物の警官なんだけどね。
「私は警察官です。あなたの行為を痴漢の現行犯と認め、逮捕します」
御老公様じゃないな、スケかカクのどっちかみたいに身分証明を背広男に見せながら、オジサンは車内にあたしを押し戻す。
その寸前に転んだ背広男の頭を思いっきり蹴っ飛ばしてやった。一瞬スカートが捲れて、パンツが見えたかも知れないけど、そんなのどうでもいい。
「こいつ、ぶっ殺す!! 受験会場に向かう年端も行かない女子中学生の尻をなんだと思ってやがるっ!? あたしの尻はそんなに魅力的かっ!? 大人しく触られてやってりゃ、調子に乗りやがって!! 恥を知れっ!」
あたしの怒鳴り声と蹴りを見た車内の客が全員俯きながら、場所を開けてくれる。
キレた子供を注意出来る大人って少ないんだよね。あたしの周りは混雑とは無縁になったけど、なんか晒し物っぽくて嫌だ。
園ちゃんがドアの閉まるまでの間、後ろから抱き締めてくれている。
これは愛情表現じゃなく、単純に遅刻を免れる為にあたしを止めている事は理解出来ている。
でも、頭は冷静じゃない。
「……宮ちゃんのお尻は奇麗だよ。触りたくなるくらいね」
「顔を真っ赤にして何を言うのよ?」
怒り心頭のあたしは、その後受験会場に行ったらしいけど、どんな問題が出たかも覚えていないくらい、憤慨していたみたい。
少し落ち着いて、家に帰ってからテレビで回答速報を見たんだけど、何も思い出せなかった。
あたしの憤慨振りを汲んだ両親は、簡単にモンスターペアレンツに変身し、父が早速受験校への事情説明と、地下鉄運営会社に抗議の電話、母が学校に出向きクレームを付けてくれている。こんな時は頼りになる両親だよ。
まあ、車で送ると言ってくれた父の提案を断ったのはあたしなんだけどさ。
しかし、こんな受験当日ってアリなのかね。
そんなことを考えていると、ストーカー兼監視係のオジサンが家まで来た。いつも道路の向こうからしか見ていないオジサンが、わざわざ家まで来るのは珍しい。
「まったく、あんたが付いていながら、どういうことだい? ウチの娘の尻に触ったバカは一体何処のどいつだ!! その変態ロリコン野郎を此処に連れて来い! 性根を叩き直してやる!」
おお、警察官に八つ当たりする父を初めて見たよ。
オジサンは平謝り。
父は普段冷静に見えるんだけどね、あたしくらいの年齢の頃はヤンチャだったらしいよ。25年前でそんなヤンチャをしている人間が居たかって言うとね。まだ実際に北海道には居るくらいだから、25年前にも存在はしていたんだよ。今はスポーツジムのインストラクターだけど、昔は特攻服に身を包んで、いかにも違法なバイクにまたがっていたんだそうだ。
オジサンがまだ巡査とかしていた頃からの知り合いなんだよね。
「サワちゃん!!」
くっ、その名前で呼ぶな。ウチが駄洒落一家だってバレるじゃないか。あたしの下の名前を呼びながら入って来たのは、父の同級生で、その仲間でもあった手井根のおじさん。ちなみにこの人の名前も駄洒落だよ。しかも、北海道限定、更には札幌市民限定の駄洒落名前。あたしの周囲にはそんなふざけた名前の人間ばかりだ。
「オウオウ! お前が犯人かよ!? って、発唆の旦那じゃねぇですか? 鑑識に移ったって聞いたけど、どうしてこんな所に?」
手井根のおじさんは近所に住んでいるから、父が連絡して集合かけたんだと思う。
昭和の終わりから平成の初めくらいの臭いをプンプンさせた人たち、どうにも最近生まれたあたしには付いて行けないノリなんだよね。
気が付くと、家の周りに人だかりが出来ているよ。ああ、父がヤンチャだった頃の仲間たちが皆集まっている。札幌ってそんなに田舎でもないと思うんだけど、どうしてこんなに、小さな村の大事件みたいな集まり方が出来るのかな。仲間意識強過ぎだよ。
ちなみに、手井根おじさんの伯父さんっていう人が、中一の夏休みの自由研究『領土問題を解決しない人に読んで欲しい、元島民の言葉と、その地からシベリアに連れて行かれた人たちの言葉』の基本データをくれた人だよ。なんだか知らないけど、あたしが警察に思想犯扱いされるきっかけを作った人の一人だね。
「オウ、アズマ! 連絡網は回してくれたんだな?」
「オウよ! 俺たちの可愛いサワちゃんに悪さした野郎をぶっ飛ばす会を設立済みだ!」
連絡網ね。
今と違い、前の人と次の人以外の、電話番号も住所も書かれた紙が、学校で配られていた時代の人たちだから、こんな会話も成り立つみたいだ。そしてその連絡網がまだ生きているってのが不思議。両親の携帯には『誰々の実家』というタイトルの電話帳入力が、軽く300件くらい入っているんだよ。
ぶっ飛ばす会はこの人たち特有のノリだから、気持ちはわからんでもないが、理解には苦しむ。
その喧噪を逃れる為に二階に退避する。まあ、防音なんて設備のある部屋じゃないから、大して変わらないけど、喧々囂々と怒鳴り合っているようにしか聞こえない会話を、少なくとも聞き取れないくらいの意味はある。あたしはあんまり晒し物になるのが好きじゃないんだよ。
お祭り騒ぎは父に任せる。
携帯の着信が凄い数になっている。事件をお祭り騒ぎにしたいのは、今も昔も変わらないのかね。大量の電話とメールの着信の中から、園ちゃんの携帯にアクセス。あたしはこの小さなボタンを神業のように早く打つ能力を持っていないし、どうせなら喋った方が早いと考えている。メールならパソコンの方が俄然打つのは早いしね。個人用の無料チャット掲示板は園ちゃんが持っているから、そっちでも良いんだけどさ。
『もしもしぃ……』
電話に出た園ちゃんが既に寝ていたのには驚いた。思わず時計を見る。
目覚まし時計の電池が切れたんだった、それで今朝は寝坊したのを思い出す。
制服のポケットから懐中時計を取り出す。これはあたしが小学校に入学した時に、お婆さんという人から買って貰った一品。時間はまだ午後8時より前だよ。
どんだけ寝るんだこの子。
『う……ん。今日……は、大変だったよねぇ……宮ちゃんのいっつも言って……いる、ストーカーの警察官の人……カッコ良かった』
駄目だ、喋りが寝惚けている。オジサンが格好良いなんて言い出す子じゃない筈。
まあ、珍しく警官には見えたけどさ。
人の眠りと食事の邪魔だけはしないと心に決めている人間としては、早々に電話を切り上げる方向にし、帰宅直後から今までのメールを読むことで、言いたいことは大体理解した。
園ちゃんはすぐ傍であたしの憤慨振りを見ていたから、試験に打ち込めずに、受験に失敗したことを想定してのメールだね。細々と二次募集している高校の一覧まで添付してくれている。幼馴染だから許すけど、これが担任とかだったら、もうひと暴れ両親にさせそうな内容だよ。
まあ、そんな心配されなくとも、落ちたとは思っていない。よく覚えてないけど、問題を読んだ覚えと、回答欄を全て埋めたことだけは覚えている。
他のことに気を取られていても、なんとなく出来ている場合ってのが、今回の例だね。
面倒だったので、電話着信は全て無視し、園ちゃんからのメールを確認していると、珍しい奴からメールを受信していることに気付いた。あたしが憤慨しながら試験を受けている時に着信していたようだ。タイトルが無いのはいつものこと。本文内容を開けと命令されているみたいで嫌なんだけど、開いて見る。
『お前を触った奴は、俺が殺す』
ありゃりゃ。ヤバい奴に火を付けちゃったみたいだ。大体なんでこいつに情報が漏れているんだろう。
まあ、思い当る節はある。
あの野郎はあたしと園ちゃんの乗った車両に居たんだ。こっちは冗談ではなく、本物のストーカーなんだけど、殺人予告は不味いよね。
そう思いながら、部屋のカーテンを開け、内窓を開ける。北海道の窓は基本二枚だからね。外の空気や音を拾わない程度の厚さを持つ外窓は流石に開けない。だって、寒いし、まだ家の前に保護者会一同集まって騒いでいるんだもん。
その中で手刀をきって脱出を試みるオジサンの姿を見つけた。携帯でオジサンに電話する。
着信を確認したオジサンは、こっちに向かってちょっと待てという身振りをして、人混みを足早に抜けた。あたしからオジサンに電話する時は大体が緊急事態だからね、一言一句聞き逃さない為に静かな所で電話に出るのが筋って訳。
いつもの監視位置であるこっちの窓が見える斜向かいのアパートに入る。
『どうした?』
「うん、今朝は助けてくれてありがとう」
『いや、俺の本職ってそっちだから……』
「そんでさ、あいつからメールの着信があってね。ちょっと殺人予告な訳。今そっちに転送するよ」
『あいつって……本物のストーカーの方か!?』
そう聞こえたけど、一旦電話を切って、メールボックス内にある件のメールをオジサンに転送する。短い内容だから、すぐに折り返しの電話が来た。
「ヤバいでしょ?」
『ああ、新聞やテレビは抑えたから、あいつが情報を持っているとすれば、あの車両内に居たということだな。ちょっとそのまま待っていてくれ、会社に電話して、痴漢男の身柄を拘束させるから』
警察の人ってね、警察署を会社って呼ぶんだよ。まあ、給料を貰っている国営の会社なんだけどさ。ドラマとかで『署に連絡して指示を仰げ』みたいなことを言うけど、あれは視聴者の混乱を防ぐ為なんだと思う。
あたしの尻を触ったばかりに、あの背広男は警察署に泊まりだ。更に、狙われなくても良い命まで狙われちゃうんだから、リスクの高い痴漢行為だったね。
『あいつが今、何処に居るか知っているか?』
「ううん。知らないよ。ウチが被害者で、引っ越す必要が無いから、強制的にあいつを引っ越させたんじゃない? 一応怖いからあいつの引っ越し先を教えてくれるように頼んだら、個人情報の流出はあってはいけないって、そっちの偉い人があたしに注意したじゃん? まさか行方不明とか言わないよね?」
『……それがな。このひと月程、あいつの家も監視しているんだが、外出した形跡も戻った形跡も確認されていないと報告を受けていたんだ』
「ちょっと! そんな危ないことがあるんなら、先に言ってくれても良いでしょ? あいつを野放しにしていると、ウチの両親も狙われる可能性が出て来るんじゃない? あいつの恨みはウチの一家全員と、警察に向いているんでしょ?」
6年前、今はマンションになっているけど、我が家の隣にはもう一軒家が建っていたんだ。
そこに住んでいた少年が、まだ小学生だったあたしを、強姦しようとしたバカな中学生。それがこのメールを寄越したバカね。
名前は二什師剣。
バカ剣は、この辺りでは有名な不良少年でね。小学校を卒業する前から、殺人以外の悪いことは殆ど全てやっていたと言われる男。その剣があたしの何を気に入ったのかは知らないけど、小学校の帰り道で待ち伏せして、誰も近寄らない廃屋の中に連れ込んだんだよ。
その時、たまたま近くに住んでいたオジサンが、コンビニ帰りに通り掛らなかったら、あたしは貞操を奪われていたんだよね。貞操だけならまだしも、命を奪われた可能性も否定出来ないから、怖いんだよ。
剣はその事件で流石に捕まり、宮野家の周囲に近付くことを禁じられ、未遂だったから監視付きで釈放されたんだ。
中学に入学して、記念に携帯を買って貰ったんだけど、その携帯に最初にメールをくれたのが剣。それから剣はずっとあたしのストーカーをしているんだよ。オジサンと他の監視係の人が警護してくれているけど、時々現れては、悪さをして消えるんだ。
基本的にあたしを自分の物だと思っていて、周囲に近付く男を片っ端から懲らしめたりするだけなんだけど、やり方が汚いというか、気持ち悪いというか、残忍なんだよ。
『まあ、だから、俺も含めて君の警護に数人充てていた。勿論ご両親にも警護は極秘で付けている。メールアドレスはいつから変えてないんだ?』
「それは約束通り、ひと月に一度は変えているけど、今月は受験もあるから、まだ変えてなかったよ。それにしても、あいつはどうやってあたしのメルアド調べているの?」
『俺の職業であれば簡単だがな。君の同級生やクラス担任、副担任、学校関係者、携帯電話の会社内に内偵捜査もしているんだが、君の情報を漏らした形跡は無い。奴はかなり裏の世界にも通じているようだから、その辺りから情報を買っているんだと思う』
「オジサンと同じで、あいつもストーカー兼監視役みたいな物だから、強姦さえされなければ、良い奴なのにね……」
『女の子が冗談でもそんな言葉を使ってはいかん。それと、俺はストーカーじゃねぇ』
オジサンは結構口調が荒い。これは元々で、ウチの父と追いかけっこをしていた頃から変わらないらしいよ。
『とにかく、受験が終わった後は暫く外出を控えてくれ。今朝あの地下鉄に奴が乗っていたんだとしても、それに気付けなかったのは俺だからな。君に責任はないが、迂闊に奴と接触するような冒険心は禁物だぞ?』
「あっ! そうかっ! 明日は面接じゃん!? 早く寝なくちゃっ」
『……君は本当に受験生か?』
そんな批判は聞き流し、電話を切る。
両親に今朝の憤慨振りを話していたから、お風呂にも入ってないよ。札幌は寒いから、シャワーのみで済ませるなんて考えは浮かばないし、朝は一分でも寝ていたいのが心情。
こうして、意味があるのかないのか判らない悩みを抱えつつ、あたしの中三の冬が終わる。
春、と言っても、北海道の春だから、もちろん桜なんて咲いてない。
高校に受かったので、通うルートを選択した。
選択肢は、地下鉄からバス乗り継ぎ。電車から徒歩。直通バス。自転車の4つ。
あたしは、冬と悪天候の日は直通バスにし、基本は自転車通学する事にする。
ちなみに、札幌の人に電車って言うとね、基本的にほぼ全員が市電を思い浮かべるか、自転車と聞き違えてくれるよ。電車の場合は『JR』か『国鉄』と言わないと通じない場合があるから注意してね。JRはバスがあるからややこしいんじゃない? と思った人、何でも略すことばかり考えていないで、ちゃんとJRバスって言おう。バスも一種類減ったけど、JRバス、中央バス、定鐡バスの三種類プラスエトセトラがあるからね。まあ、そんな微妙な情報は要らないか。
入学して一週間くらい経つけど、その後、剣からのメールは無い。ちなみに着信拒否設定しても、剣の携帯は誰にでも繋がる不思議な携帯なんだよ。だから、あたしは月に一度メールアドレスを変えるけど、剣のアドレスは変わらない。返信して、もうメールを寄越さないでとお願いしても、剣は都合良くしか受け取らないから『俺のサワは、俺に興味があるから返信して来る。これは俺への愛情の裏返しだ』としか思わないみたいだよ。気持ち悪いよね。
でも、剣ってそういう奴。
あたしの尻を触って捕まった背広男は、余罪追及の取り調べ中に舌を噛み、救急車で搬送されている途中に救急車が横転事故。死ななかったものの、半身不随になり、地下鉄に一人で乗れる体ではなくなったんだそうだ。オジサンがそう教えてくれた。
その横転事故の際、救急車の前に突然飛び出した自転車の少年は、その場から立ち去っているとも聞いた。軽く殺人未遂の気もするけど、その少年の顔を誰も覚えていない。ぶっ殺すとか言っておきながら、生き地獄を見せるというのは、剣らしいやり方だけど、この辺が気持ち悪いんだよ。
大体、剣はもう成人しているから、少年ではない筈なんだけどね。
剣絡みの事件の場合は、結構オジサンは口が軽い。剣絡みイコールあたし絡みになるからだよ。自己防衛の為の情報は案外簡単に教えてくれるんだ。
五月の連休明けから、北海道なのに梅雨みたいに雨が降り続いた。
流石にじめじめとかはしないけど、折角入学時に買って貰った、なかなか性能の良いマウンテンバイクに乗れない日々が続き、直通バスで通学していたんだ。
今日はちょっと晴れ間があり、下校は歩く事にした。混んでいる地下鉄も嫌いだけど、バスもあんまり好きじゃなくてね。
結構家までは距離があるけど、最近運動不足だから、たまには歩きも良いと思っていたんだ。
電車の通る高架下の道に差し掛かった時、ポケットの携帯が鳴っている事に気付く、取り出して開いて見ると、オジサンからのメールだった。
『危ない二』
「なんだこりゃ? オジサン頭がおかしくなったんじゃない? 二って何? 一は何時だったの?」
そんな独り言を呟きながら歩いていると、車が急発進して来るのが見えた。歩道に乗り上げて、減速もしないで突っ込んで来る車がね。この場所を歩いているのはあたし一人だ。
「何!?」
どう考えても、その車があたしを撥ねようとしているのが判ってしまう。ブレーキとアクセルを間違えたとかいう問題には見えない。だって、運転している男の顔が笑っているんだよ。
間一髪、車道に身を投げ出して避ける。
起き上がると、車がUターンしているのが見える。やっぱり狙いはあたしか。しかし、中学時代の自由研究が思想犯扱いされたにしても、轢き殺される理由はないでしょ?
剣なら、こんなややこしいことはせずに、直接押し倒しに来る筈だし、運転しているのは、どう見ても大人の男だよ。顔を隠さずに轢こうとしているってことは、目撃者なんてお構いなしの変態か、確実にあたしを轢き殺して、逃げる自信があるかのどっちかかな。
偶然にしては出来過ぎたシチュエーション。あたしが一人で下校しているのを待ち伏せたとさえ思える。
今朝が雨で、今は晴れているから、人混みを避けたいあたしが一人で帰るのを知っていての犯行。剣が裏で糸を引いているんだろうか。
それにしたって、剣があたしを殺す依頼をする理由は何?
そんなことを考えている間に、車は突進して来る。
あたしと車の間に上から人が降って来た。上には電車の高架があるんだよ。あたしが襲われているのはその真下。降って来た人物が車の前に立ちはだかる。
ドカン!
そりゃそうだよ。この運転手がまともな人間である筈もなく、その人を撥ねた。
「クっ……ハっ……」
その人物は剣だった。
あたしの代わりに車に撥ねられ、吹き飛ばされる剣を抱き止め、横に飛ぶ事であたしは無傷だ。剣の当たり方が良かったのか、車は一度減速したから、時間が出来たんだ。
「ちょっと! あんた何してるのよ!?」
「サ……ワ。お前は……俺の物だ。誰にも渡さねぇ……誰にも殺させねぇ。誰にも……」
「あたしは物じゃない! コラ! ツッコミの最中に気絶すんな!!」
歩道横の土手にあるくぼみに寝転がる形になって、難を逃れたけど、通り過ぎた車がUターンしている。
やる気満々だ。
バンパーとボンネットに剣が当たった凹みを作り、フロントガラス半分にヒビが入っても、執拗にあたしを狙っている。
剣より性質が悪い。
「園ちゃんと下校時間がずれていて正解だったよ」
そう言いながら、剣をその場に残し、走り出す。
この車の狙いがあたしなら、剣は部外者。顔を見られたから口封じなんて考えは、運転している男には無い筈。結構派手に当たったから、死んだと勘違いしてくれたことを祈る。
車対人、しかも、かなりの異常さを感じる鬼畜の運転する七人乗りくらいのでっかい車と、高校生になったばかりの女の子との戦い。これは戦いではなく、一方的な虐殺だよ。
手に持ったままだった携帯を、走りながらかける。こういう時こそ警察官の出番でしょ。いつも100メートル以内に居るくせに、今日はなんで居ないのさ。
『……』
電話には出たみたいだけど、何も喋らないオジサンは珍しい。
「オジサン!? ちょっと!! 緊急事態だよ!?」
携帯に向かって怒鳴る。
真後ろに車の気配がしたので、体を回転させ、歩道側に逃げる。
剣が直撃した場所は避けたけど、ドアミラーに背中を強打。
痛い筈。
車は急停車、そしてUターン。土手を登って逃げれば良いのかも知れないけど、ちょっと急斜面過ぎる。失敗して転びでもすれば、簡単に轢かれる。背負っていたリュックのお陰で、動けない程のダメージは受けていないけど、全力での活動にも限界がある。
『どう……した?』
なんか虫の息みたいに、掠れたオジサンの声が聞こえた。
「どうしたじゃないよ! ストーカーどころか、殺人犯に追い掛け回されているみたいなんだ! スタントレーシングチームも真っ青の運転技術で、あたしを撥ねて殺そうとしているんだよ!? どうして来てくれないのさ!?」
『スマン……そいつと思われる……車に……轢かれた。応援を呼んだが……少し掛ると思う。犯人は剣ではないのか?』
「剣は車の免許持ってないよ!! ついでにあたしを守ろうとして、剣も轢かれた!!」
『くっ……俺より傍に居るとは……あいつもなかなかやるじゃないか……』
「そんなことに感心している場合か!? ウワっ!?」
歩道との境にあるガードレールを吹き飛ばしながら、車が迫って来ていた。
避ける時に右手を強打し、携帯が飛ばされる。
手首の骨が、多分折れた。
「あんたは闘牛士か!?」
少しずつ弱らせるという意味で、この鬼畜は闘牛士に近い性格だろう。
やっていることとしては、避けているあたしが闘牛士で、向こうが牛の筈なんだけど、弱っているのはあたしの方だ。
などと考えている間に、またターンして来た。援軍を呼ぶ為の武器である携帯は、歩道に転がっているけど、それを拾いに行く余裕はない。運転している男は興奮して何か叫んでいる。
気持ち悪い奴。自分で戦うにしても、右手は折れて動かないし、武器も無い。
こいつは車で人を撥ね、車内に連れ込み裸に剥き、なんか怪我人にエロいことをしてから、どっかの廃工場の敷地に素っ裸で捨てて行くとかいう変態の手口を使っている。
数年前にそんな事件があったのを新聞で読んだ覚えがある。
被害者は確か死んだと聞いた。
同一人物とは思わないが、こいつはその手法を模倣している。
顔は好みがあるだろうけど、こいつは貧乳でノッポ、髪はショートで、一見女装した男子生徒みたいな女子高生を限定で狙っているのか。こいつの好みに当て嵌まる自分が恨めしい。どうしてこんなのに狙われるかな? 少々自己嫌悪だよ。
土手は両翼で100メートル以上ある、車がターンしている間に駆け抜けることは、あたしが陸上選手であったとしても無理。
下校時にこの道を選択したあたしがバカだった。自転車で通る時は一瞬だけど、徒歩の場合はそうも行かないもんね。両側が急な土手であることに気付いて、さっさと抜ければ大きな通りに出るから、いくらでも逃げることも助けを呼ぶ術も、民家に逃げ込むことも出来たのに。
自分の間抜けさに腹が立つ。
そして、こんな時に限って、他の車も人も通らない。他人に頼って勝利を得ることも不可能。
「自身を武器にする以外に道はなし、されど、自分は武器になれるような人間ではない」
口に出しながら、車の突進を避ける。
最初に轢かれた方がマシだったと錯覚するくらい怖い。
車はターンする時間も惜しいのか、今度はバックで突っ込んで来る。避けたけど、ガードレールの残骸に足を引っ掛けて転ぶ。ソックスに血が滲む。ガードレールの残骸は立派な凶器だ。
でも、これを持ち上げ投げ付ける怪力は流石に持ってない。
運転席の鬼畜がニヤリと笑い、舌舐めずりしやがった。血を見て興奮というか、転んだ時に足が開いて中が見えて興奮した感じ。
どうもあたしはしゃがんだり、尻もちを着いたりする時に、股を開く癖があるんだよな。だからスカートは嫌いだ。
割と温厚で通しているあたしも、この屑男の表情にちょっとキレた。
「そうかい、そうかい。そんな顔するのかい。このド下手クソ!! あたしは此処だ!! 撥ねてみやがれ!!」
そう言って道路の真ん中に立ってやる。
過剰防衛とは言わせない。この野郎、ぶっ殺す。
突進して来る車を避け、すぐに振り向き、車と同じ方向に走る。車はターンする為に減速中。
あたしの狙いは車のドア。この鬼畜がどんなに運転上手でも、ハンドル操作は両手で行っている。ドアの集中ロックは運転席側のドアに付いているんだろうけど、そこに手を伸ばす暇はないだろ?
ついでに注意しとくが、ドアのロックは運転する際掛けるのが常識だ。教習所で習わなかったか?
母は教習所で教官のバイトをしているから、それくらいは知っている。子供が悪戯してドアを開け放ち、車外に放り出される事故があってから、新聞とかでも結構騒いで書き立てていただろう?
お前の家は新聞も取ってないのか!?
そう思いながら、助手席後ろのドアに手を掛ける。ドアロックは掛っていなかった。
スライド式のドアを開け放ち、驚く男の背後に飛び掛かる。
「捕まえたぞバカ野郎!!」
叫びながら、運転席側のシートベルトを左手で引っ張る。こいつはシートベルトもしてない。
ついでに、車内が酒臭いぞ。
伸ばしたベルトをこの野郎の首に巻き付ける。
我ながら器用な左手。
シートに男を括り付け、車内に転がっていた中身の入ったビール缶で頭をぶん殴り、シートの背もたれを右足で蹴りまくる。
少し大人しくなったので、上着のポケットに手を突っ込み、財布か何かを引き出す。運転免許証でもあれば、こいつを逃がしても追い掛けられる。対策はオジサンにやらせれば良い。
そっちが本職なんだからね。
しかし、引き抜いた物が手帳だった。
それも、オジサンに見せられたことのある物と同じ手帳。
それは警察手帳。
なんという不祥事。警官が酔っぱらって車を運転した揚句、女子高生を撥ねていかがわしいことをしようとしたなんて、新聞一面物じゃないか。
パン!
乾いた音が車内に響く。
あたしの頬を何か熱い物が掠めたんだ。ルームミラーで確認すると、頬に火傷と出血。振り返ると天井に穴。
「こいつ、発砲しやがった!!」
左手で首に巻かれたベルトを押さえ、右手に拳銃を持った鬼畜警官が、苦し紛れに撃ったんだ。
バカかこいつ。
当たってあたしを殺していたら、どんなに逃げても極刑免れないぞ。そこに、いつの間にか目を覚ました剣が運転席側から飛び込んで来た。
「痛ぇじゃねぇか! このクソが!!」
ドアを開けずに窓に殴り掛かる。窓を突き破りガラス片を飛ばしながら、剣の拳が鬼畜警官の顔面を捉えた。素早くドアを開け、もう一発左手で殴る。こいつ左利きだっけ? そう思っていると、右手は拳銃を抑え付けていた。なんで剣はこの鬼畜が銃を持っているって知っているの?
「サワ!! 無事か!?」
「ああ、一応生きてるよ。右手首骨折と、右足首に裂傷、左頬に火傷かな。あ、今車に飛び付いた時に左手の爪が欠けた。とりあえずそいつが大人しくしているなら、説明が欲しいね」
のびた鬼畜警官を警察手帳で指しながら、剣を睨んだ。あたしの名前を呼ぶ奴は本当にロクな奴が居ない。まあ、両親は別だけど。
「悪ぃ。こいつ俺の知り合いなんだわ。簡単に言うと、悪徳警官」
「成程。それは頼もしい味方だった訳だ」
あたしのメルアドを剣に売り渡していた本人ってことね。道理でオジサンが頑張って調べても、出て来ない訳だよ。内部に犯行者が居たのでは、情報は筒抜けだもんね。
「俺がお前を真剣に追い掛けているのに興味を持っちまったんだ。発唆のオッサンはそれに気付いて、駆けつけようとしたんだが、こいつに轢かれちまった」
この道に差し掛かった時のメールがそれか。『危ない二』は、『危ない逃げろ』の、文字不足、誤変換送信だったんだ。オジサンも有能なんだか無能なんだか、よく解らない人だな。
「殺される所だったよ。その前にレイプされる所だったのかな?」
「ああ、こいつは数年前に起きた事件の担当をしていて、自分も興味を持っちまったバカ野郎だ。手法を真似て、あちこちで女子高生を撥ねていたんだが、まだ死人は出てねぇから、ニュースとして流れてなかったんだ」
「注意喚起のビラでも撒きなさいよ。市民に情報を隠して、何か得る物でもあるの?」
「前回のこの手の事件で犯人を挙げたのもこいつだったんで、捜査を任されていたんだよ。犯人自身が捜査しているんだから、そんなことする訳ねぇし、捕まる訳がねぇよな」
「成程ね。それであんたは、何の為に出て来たの?」
「……助ける為にカッコよく登場したら、撥ねられたんだよ」
バカ過ぎる。
「まあいいや。お前が無事みたいだから、俺はまた消えるぜ」
「待ちなさいよ。あんたに言っておくことがあるんだ」
「どうせ、二度と現れんな系のことだろ? そいつは無理だぜ。なにせ俺は本物のストーカーだからな」
「バカ。そんなことをしていても、あたしはあんたに靡かないって、どうしてわかんないかな? その無駄な労力を発電にでも使いなさいよ。家一軒くらいなら発電出来そうだ」
「ハハっ。俺をなめんなよ? ビル一個くらいなら余裕で発電してやらぁ」
「そうじゃない。あんたに言っておくことは別のこと! 大事な話だからよく聞いて欲しい」
「あ? そうか、だが手短に頼むぜ。俺もアバラ折れてるみてぇだし、闇医者でも営業時間があるんでな」
剣はそう言いながら、助手席に腰を下ろした。悪徳警官から拳銃を取り上げて懐に仕舞ったのを見逃さなかったが、あたしの持ち物を奪われた訳でもないから、そこは流す。
剣がその拳銃であたしを脅すことは考えなかった。こいつは刃物も使わない。己の肉体のみで堂々と悪事を働く男なんだよ。そこだけは信頼しても良い。
「剣。あんたはあたしに好きな人が出来たら、殺すの?」
「……殺さねぇよ。こう見えても、俺は人を殺したこともねぇし、殺したいと思ったこともねぇ。ただ、お前は俺の物だと思っているのも事実だから、その野郎をぶん殴りには行く……好きな奴が出来たのか?」
「多分ね。あんたに襲われてから、あたしはずっと男性恐怖症だし、今もあんたと面と向かって話せるのが不思議なくらいだけど、あたしが幸せになろうとするのを邪魔するなら、この場でこいつの共犯に仕立て上げ、あんたを殺しておこうかと思っているんだ」
「……成程、それは利口なお前らしい考え方ではあるな。犯罪被害者が加害者に変わっても、情状酌量の余地があることまで計算済みか? お前がそこまでして思う男ってのは誰だよ? 俺が認める奴なら、ぶん殴りにも行かねぇし、お前のことを見守るだけの、本当のストーカー道を極めても良いぜ?」
あたしが口にした名前を聞いて、剣は暫く驚きの表情をしたけど、素の顔に戻って、肩をすくめた。
「そいつはかなわねぇな。お前にそんな趣味があるとは知らなかったよ。まあ、暫くは大人しくしていてやるよ。殴りにも行かねぇ。まあ、そうだな。困ったことがあったら、これを使え」
そう承諾してから、あたしに携帯を投げて寄越す。
「俺への直通以外には掛らねぇ携帯だ。安心しろ、GPS機能とかもカットしてあるから、それでお前の居場所を探るような真似はしねぇよ。通話ボタンを押せば俺への直通、メールの場合も俺のアドレス以外には送れねぇ。防犯ブザーだと思え。それを押せば、俺はお前が何処に居ても、30分以内に駆け付ける。それから、30年は持つ特別な電池だから、充電はしなくても大丈夫だ」
こういう所は潔くて、良い奴に見えるんだけどね。
しかし、30年も充電なしで使える充電池って、どんな裏商品だよ。
「ありがとう。貰っておくよ。今日のお礼もまだだったね。わざわざ車に撥ねられに出て来てくれたんだから」
「……それは出来れば誰にも喋んなよ。カッコ悪ぃ」
そう言って、目覚めそうな悪徳警官をもう一度殴り、深い眠りを与えてから、剣は車を降りた。
ポケットからタバコを取り出して火を付け、煙をバンバン吐きながら、去って行く。
その頃になって、オジサンの同僚警官たちがパトカーで現場に駆け付けた。
「サワさん!! 大丈夫!?」
オジサンのパートナーの大戸さんだ。男性恐怖症のあたしの為に、別の課であるにも関わらず来てくれた有能な警官。運転席でのびている悪徳変態警官とは比べられないくらい出来たお姉さんだよ。あたしは手に持っていた警察手帳を大戸さんに渡し、事情を説明してから、ぶっ倒れた。所謂、緊張の糸が切れたんだね。
それから数日間、新聞の紙面を悪徳警官の名前が踊っていたけど、あたしはもちろん、剣の名前も伏せられていた。剣が悪徳警官の拳銃を奪ったまま逃走していることは、暫くしてから匿名の宅急便で警察署に届けられたので、あまり問題にされなかった。それよりも、警察内部でこんな不祥事が起きたことの方が、ニュースとして大きかったんだね。
更に数日後には、オジサンの勤務する警察署の署長、副署長があたしの所に詫びに来たし、その翌日には、中央の警察署長と一緒に、もっと偉い人までウチに来て両親に頭を下げて行った。被害者の自宅前、つまりはあたしのウチを嗅ぎつけたと思われる報道カメラマンたちは、手井根のおじさんを含む父の昔の仲間が総出で文字通り蹴散らしてくれた。
あたしの見舞いには、生徒を代表して園ちゃんが来てくれた。
他にも名前だけは聞いたことのある生徒会長だの、校長、教頭、担任、副担任も見舞いを希望したそうだけど、両親が丁重に断った。
あたしはギプスを右手首に付けられ、腕を釣った状態で退院し、自宅療養している。痛みに関しての神経がド級に鈍いので、今の所痛みに苦しむことはない。両親に最もショックを与えたのは顔の傷。手当が早かったから完全に消えるそうだけど、16歳の一人娘が、部屋で悶々として過ごす姿を見ているのは、辛いんだと思う。剣に襲われた時も、病室に引き篭もっていたから、それを思い出させちゃうんだろうね。
思春期真っ盛りの女の子が、彼氏も作らずに部屋に籠っているのを心配しているのかも知れない。だけど、実は顔の傷はどうでも良かったんだ。そりゃあ、少しは気にしたけど、消えるって聞いたし、問題とは思ってない。どちらかと言うと、この右手首だね。ちょっと複雑に骨が割れたのと、ただでさえ鈍い神経を傷付けたから、元通りに動かない可能性があるんだ。今から左利きに変える練習をするのは辛い、と言うか、面倒なんだよ。
上半身だけ起こしてベッドに座るあたしの横に、園ちゃんが座っている。なんだか判らないけど、偉く真剣な表情で、あたしを見つめているんだよ。
その目が泣きはらしたみたいに赤い。
今回の事件の一報を聞いてから、随分泣いたとはメールで報告してもらっていたけど、本当に泣いていたのは驚きだった。だって、園ちゃんの責任って何? 一緒に登下校をしなかった為にあたしが襲われたって考えは、ちょっと理解出来ないよ。
相手は車に乗った変態鬼畜警官なんだから、園ちゃんが居ても居なくても、襲って来たんだろうし、あの場に園ちゃんが居たら、確実にあたしより先に轢かれてくれただろうしね。
カッコつけの剣が無様に撥ねられるのは見せてあげたかったけどさ。
「宮ちゃん。ごめんね。もっと早くにお見舞いに来たかったんだけど、警察の人がまだ駄目だって言うから、遅くなっちゃった」
「ああ、それはオジサンにも聞いたから、別に気にしてないし、殆ど暴力的な腰の低さで被害者に取材しようとする新聞記者とか、ウチの前から中継入れようとして、正面のマンション借りたテレビ局とかに比べれば、園ちゃんは入院中もメールで授業ノートとか送ってくれたし、感謝してるよ?」
そう言うと園ちゃんは俯いて、もじもじした。可愛い。
ちなみに、変態鬼畜警官に轢かれたオジサンは、あたしの入院した病室の隣の病室に入院していたんだよ。剣もそうだったみたいだけど、アバラが折れたんだって。大戸さんを始めとする婦警10人に守られている病室に、誰も近付けなかったのは当たり前だね。
なんでこんな大袈裟な警備になったかと言うと、世間には発表されなかったけど、剣が鬼畜警官の拳銃を持って逃げたからなんだよ。剣があたしを殺しに来る理由は無いと思うんだけどさ。まあ、別の病棟に同じく強制的に入院させられた鬼畜警官にも、警備が付いていたから、狙われていると判断出来るのはそっちかな。鬼畜警官の方が軽傷で先に退院して、警察署に送られたけど、そっちの方が警備は厳重だったもんね。
あたしが退院した時は、オジサンと大戸さんが二人で護衛してくれただけだった。園ちゃんがあたしの家に来たのは、それから10日経って、剣が匿名で拳銃を警察署に送り付けたのが判明してからだ。お陰でこっちは二週間も学校を休んでいるんだよ。相変わらず剣は迷惑なストーカーだ。それにしても、剣はどうして、使いもしない拳銃を奪って行ったんだろうね。
なんて考えていたら、園ちゃんが突然立ち上がって、あたしに飛び付いて来た。
「? 園ちゃん?」
痛みは感じないけど、一応怪我人なんで、押し倒すとか止めて欲しい。
右手は釣っているし、火事場のクソ力で器用に動いた左手も、こんな場合は動かない。園ちゃんがあたしを襲う暴漢では無いことが判っているからだ。
「宮ちゃん! 心配したんだよ!?」
「ああ、それは判るけど、押し倒して抱きつく程のことでもないよ?」
「ううん!! 一大事だった!! 大好きな宮ちゃんが、怪我をしたのは、一大事だよ!?」
おっとりが売りな筈の園ちゃんが、興奮している。もちろん、園ちゃんが密かにあたしのことを想っていることも知っているし、頭がものすごく良いのに、あたしと同じ高校を受験した理由が、それなのも知っているよ。あたしのファーストキスが、剣に押し倒される前の小学二年の時で、相手が園ちゃんだったのももちろん覚えているよ。
「園ちゃん。落ち着いてよ。逃げないから、何処にも行かないから……!」
なんとか振り解こうとしたんだけど、怪我人のあたしは力が入らない。
ついでに、抗議の声を上げようとする口を、園ちゃんの唇で塞がれちゃった。あたしは確かに男性恐怖症だけど、女性愛好者でもないんだって。
そのまま、されるがままに愛撫されたけど、痛み同様に超ド級に鈍いあたしの神経は、特に何も感じない。やっと口が離れた。園ちゃんってば、妙に積極的。
「だって、警備も厳しくて、会えなくて、寂しくて……学校に宮ちゃんが居ないって、どんなに苦しいか、判る? 風邪で休んだとか、寝坊して遅刻したとかじゃなくて、事件に巻き込まれて怪我までした宮ちゃんが心配で、心配で、全然眠れなかった」
「そっか、それはゴメンね。このままここで少し寝て行って。あたしはどこにも行かないから。でも、エッチなことはしないで。あたしが押し倒されることにものすごい不快感を持っていることは知っているでしょ? 園ちゃんのあたしへの想いは嬉しいけど、男でも女でも、この感じは変わらないんだよ」
ちょっと冷たい言い方になったけど、本当のことだから。
剣に押し倒されて、精神的に付加が掛ったのが原因で、あたしは普通の感覚を持ち合わせない人になってしまったのね。このド級に鈍い痛覚と、変な考えしか生まない精神は、全て剣に押し倒されたことに起因している。それまでは割と普通の女の子だった筈なんだけどね。だからと言って、剣を本気で恨んだりもしていない。迷惑な奴だけど、嫌いって程でもないんだよ。
こう言うのもどうかと思うけど、剣も幼馴染なんだよ。
「じゃあ、胸に手を載せても良い?」
積極的だね。園ちゃんに惚れられた男が居たら、この普段とのギャップに苦しむかも。待てよ、逆に燃えるのかな。
「判ったけど、揉まないでね」
「うん……」
本当にあたしの胸に手を載せて、眠っちゃった。メガネくらい外しなさいと思ったんだけど、腕枕に左腕を使っちゃっているから、まったくもって動けない。そう言えば、園ちゃんのメガネを外した顔って見たことないな。知り合った頃から既にメガネっ娘だったし。
しかし、こんな所に両親でも入って来られると不味いよね。また余計な悩みが増えちゃうじゃん。まあ、幼馴染の女の子同士が一緒に寝ているのは、微笑ましいくらいに思ってくれると有難いかな。
それにしても可愛い寝顔だな。
あたしが男だったら、こっちにストーカーするんだけど、剣の奴は一体あたしの何が良いんだろう?
「それはあれだな」
数日後、自宅療養中のあたしの部屋に、オジサンが来た。
オジサンの方が怪我の程度が酷く、あたしの退院に付き添った後、また病院に逆戻りしていたんだよ。やっと退院して来たという報告と、この数日間の出来事を聞きに来たんだ。剣があたしのどこが良いのかって話になり、オジサンが喋り始めた所。
「あいつの所業のお陰で、君はちょっと普通ではなくなってしまった」
「まあね。手首が変な方向に曲がっているから、痛いんだろうな。とか思う人間は普通ではないね」
「原因を作ったのはあいつだ。そして、あいつは悪人だが、悪人なりの正義を持っている」
「つまり、責任感?」
「俺の頭ではそうとしか考えられない。君の体質や精神状態をそんなにしてしまった責任を取ろうという行動に思える。あいつはそれを愛情だと思い込んでいる節もあるな。君が渡された携帯電話は、あいつが言った通りの機能しか持っていない。厳密には通信法違反だが、その一台の携帯で損をする企業は訴訟代の方が高くつくだろうから、咎めはないな。その手の携帯電話は、某地域の政治犯や某独裁国家の独裁者が持っているという噂は聞いていたが、実物が北海道にあるとは思わなかった。意識を取り戻したバカ警官も、そのことに付いては知らなかったみたいだな……いや、そのバカを上司と思って捜査の中から除外していた俺もバカだった。君を危険な目に遭わせない為の俺たちなのに、警察官失格も良い所だ」
「それでも、オジサンからのメールが無ければ、あたしは何の注意もせずに、最初の突進で轢かれていたよ。手首だけじゃ済まなかったかもね」
やっと動くようになって来た右手を振って見せる。オジサンは真面目なんだよね。
「昼間から酒を飲んで酩酊した揚句、レンタカーで人を撥ねて、車に引きずり込もうなんて考えを、よく持った物だ。更に反撃を喰らって、苦し紛れに発砲するなんて奴が、俺の上司だったと思うと、腹が立つ」
「それで? 剣は見つかったの?」
「いや、行方不明だ。それこそGPS携帯を持っているから、追跡は可能かと思ったんだが、あいつも悪の天才だからな。同じ種類の携帯電話をネットカフェでばら撒いて、その中に紛れて逃げたよ。ああ、それと、君にはこういう情報を隠すのは良くないと判断したから、上に申請して、受理されたから話しているってことは忘れんでくれ」
「うん。それは大丈夫。あたしは口が堅いからね。それにしても、剣の奴があたしにそんな責任を感じているようには見えないけどね」
「まあ、あいつの中の正義と責任感だからな。普通とか常識とかいう言葉で計れる感覚ではないんだろうよ。それに君は、悪の才能にも恵まれているからな」
「中学の時の自由研究の話?」
「ああ、あれは国が違えば、国家反逆罪とか、そんな名前の法律で裁かれ、服役物の論文だよ。君の頭の中がどうなっているかは、推測の域を出ないが、少なくとも頭の固い保守派には見せられん代物だ。君は俺たちが監視しているのを無意味と思うかも知れんが、それなりに君が狙われる理由もあるということだ。現在も取り調べ中のバカ警官も、裏が無いか、黒幕が居ないか調べているくらいだからな」
そんな危険なレポートを書いたつもりも無いんだけどね。
手首の骨折だけで歩けない訳じゃないのに、随分優しい対応だと思ったんだけど、そういう裏事情みたいなものがあるから、あたしは一カ月近く学校を休まされている訳だ。
なんか、踏み入れてはいけない方向に進んでしまった気もするね。それを少しでも面白がっているあたしは、やっぱり変なんだろう。実際自宅に居て、ボーっとして過ごしているだけなのに、奇妙なくらい気持ちが昂ぶっているんだよね。今が夏休みなら、自由研究に没頭出来そうだよ。冬休みに完全に行き詰った『完璧な密室殺人の行い方。その二』の続きが、すらすら書けそう。
「……そう楽しそうにするな」
「え? あたしそんな楽しそうにしてた?」
「ああ、俺たちは職務とはいえ、真剣に君の心配をしているんだ。狙われる心配をして震えるならまだしも、楽しそうにされちゃあ、困るんだよ」
「うーん。ちょっと自覚が足りないのかな?」
「そういう意味では、君はお父さんの昔のヤンチャさと、お母さんの冷静さを両方受け継いでいると言わざるを得んが、下手をすると命に関わる事だから、そこはもう少し真剣に考えてくれ」
オジサンは脅しなんてことは言わない。
だから、あたしの命が狙われるような状況まで想定して動いてくれているんだろう。まあ、それにしてはこの前の鬼畜警官の件ではポカをやったとしか思えないけどね。
「ところで、オジサン。話は戻るけど、あたしはこうしてベッドの上に寝ているだけで、襲いたくなるような美人かね?」
「俺に剣の趣味を聞いているのか?」
「ううん。オジサンの趣味の範囲を聞いているんだよ。普通の男の人から見たあたしという意味だよ」
「俺の趣味が良いとか普通とかは判断し兼ねるが、君は充分魅力的な女の子だ。外見的に少々男の子っぽい所もあるので、同性からもモテると推測する」
流石に良く見ている。
先日の園ちゃんとの会話までは知られていないだろうけど、確かに女の子からも告白されるんだよね。まあ、面倒だから全て断っているけどさ。
「そう言えば、オジサンの家族って話、聞いたことないね」
「年齢的には孫が居てもおかしくはないんだろうが、俺には家族も親戚も居らんよ。両親は既に他界しているし、妻と呼べる人間とは死別している。病弱な妻との間に子供は作れなかった。年の離れた兄が一人居たが、中央の警備に駆り出され、テロリストの攻撃から要人を守って殉職したよ。5年程前、大戸が公私共にパートナーになることを申し出てくれたが、断った」
「なんで? 大戸さん、良い人じゃない? 美人だしさ」
「……それは認めるが、大戸は有能だからな。危険な任務に就くことも多い。俺は基本的には鑑識課だが、あいつは特別捜査班だから、家で大戸の心配をして、気が気でない俺を想像出来なかったんだ。君が思う以上に警察は危険な仕事が多い」
「と、言うことは、あたしを監視する為に借りているあのアパートに本当に住んでいるの?」
「いや、あれは仕事部屋だ。君を監視しながら鑑識の仕事もちゃんとしているんだぜ? 現場から採取した指紋とか、足跡の復元とかな。自宅は一応発寒に家を買ってはあるが、たまに帰って掃除するくらいだ」
「そんな重要な証拠とか、外に持ち出しても良いの?」
「もちろん、特別に許可を貰っているさ。あのアパートの一室は、看板こそ掲げられないが、立派な鑑識課の別室という扱いを受けているんでな」
「無駄な経費なんじゃない?」
「まさか。無駄ではないぞ? 君の監視と鑑識の仕事を両立させる為の策だ」
「仕事熱心だね」
「まあな。だから俺が君の監視役なんだと思うぜ?」
こんなにオジサンのことを聞くのは初めてだ。結構謎の多いオジサンだったんだよね。父がヤンチャ坊主だった頃は『鬼』とか呼ばれていたみたいなんだけど、あたしが出会った時はそんな感じしなかったし、制服着ているのは見たことないし、私服刑事なのかと思ったら、鑑識だし、予想を覆す人なんだよ。
「一人で居るのって、寂しくない?」
「……まあ、慣れだな。妻を失った時は流石に自棄を起こしたが、今では懐かしい思い出の一部に過ぎん。私生活は一人かも知れんが、あのアパートは鑑識課別室だからな、人の出入りも多いんだ、寂しがっている暇もねぇよ」
大人だな。
あたしは一人っ子だけど、一人で居るのが結構嫌い、多過ぎるのも嫌いなんだよね。
つまり我儘なんだよ。
オジサンがこんな話をしたのは、これが最初で最後だった。翌日からは、普段のストーカー兼監視係になって、視界に入る場所には殆ど現れないというスタンスを貫き、あたしがピンチになると何処からともなく現れる、正義の味方的な存在に戻った。
剣の行方は結局掴めず、うやむやなまま、夏休みが近付いている。
夏休みに入ってからの一週間、あたしは怪我で休んだ分の補修講義に出る為学校に通った。
折角入った部活は、右手首の機能が微妙に戻らず、結局辞めることになってしまった。
高校生に自由研究はないらしいと知ったのは、補修が終わった次の日、園ちゃんに聞いたからだ。園ちゃんは相変わらずクラス委員で、部活はしていない。
にも関わらず、あたしの補修が終わるまで図書室で時間を潰して一緒に帰ってくれる。あたしが登校出来るようになってから、園ちゃんはあたしに付きっきりだ。迷惑とは思わないけど、自転車漕ぐのが遅いんだよね。
園ちゃんがあたしにくっついている理由は、あたしに気があるからなんだけど、オジサンから一人での登下校をなるべく避けるように言われたからでもある。
前みたいに車で襲われた場合でも、一人が逃げて助けを呼べるからなんだそうだ。園ちゃんの逃げ足で助けを呼びに行けるかは疑問だけど、他に適任が思い付かなかった。報告した時はオジサンも苦笑いだったよ。
補修が終わって一日休養し、園ちゃんとプールに行くことにした。園ちゃんの夏休みの目標が『25メートル泳げるようになる』だったからね。あんまりそういう学校は無いのかも知れないけど、あたしと園ちゃんが通った小中学校には、水泳って授業が無かったんだよ。雪の降る札幌でデラックスなビニールハウスみたいなプールを維持するのは結構大変でね。予算削減と共に廃止した学校が結構あって、あたしたちの通った学校もそうだったみたいなんだ。
それを考えずにプール授業のある高校に入学したあたしたちがバカだったんだけど、園ちゃんは頑張り屋さんでもあるので、あたしにコーチを頼んだ訳。
ちなみにあたしは父に小さい頃川に突き落とされて泳げるようになった。今考えると幼児虐待だった気もする。
ああ、札幌の地図持ってる人は広げて見てみれば判ると思うけど、札幌って街は海に一つも面してないんだよ。そう見えても、そこは小樽か石狩なんだよね。
だから、海好きの両親でも持っていない限り、好んで海に泳ぎに行く習慣がない。少なくとも園ちゃんの家族はそういう人たちだったんだよ。海にも行かないから、プールにも通う癖が無いみたい。園ちゃんは水着も持ってなかったもの。
札幌唯一の屋外プールに遊びに行く気分だったんだけど、オジサンからクレームが付いた。
警備がし辛いってね。
オジサンに泳ぎの腕前を聞いたら『鑑識の仕事で浜に上がった水死体を見に行って以来、海には近付いてもいねぇ』と言われた。つまりは泳げないってことね。
まあ、真面目に泳ぎの練習をするなら、コースロープの張ってある屋内プールの方が良いか。
園ちゃんは流れるプールに浮いているだけで、25メートル進んだとか言いかねないうっかりさんでもあるからね。
父の勤めるスポーツジムにもプールはあるんだけど、なんとなく父の働いている場所に行きたくない年頃なんだよ。それに夏休みだから、少し遠出もしたかった。オジサンはそれにもクレームを付けて来たけど、それは無視。
警備上の事じゃなく、面倒ってのは無視でしょ。
園ちゃんと二人で自転車に乗って、ウチらとは別の区にあるプールに行く。札幌って街はバカみたいに広くてね、隣接している区外に行くのって、珍しいことなの。そりゃあ部活とかしていれば、遠征とか練習試合とかで行くけどさ。あたしも園ちゃんも帰宅組だからね。今日は園ちゃんの体力を考慮して、隣の区民体育館にあるプールに来た。ついでに言うと、そのプールの割引チケットを手井根のおじさんに貰ったんだよ。
楽しそうに自転車を漕ぐ後ろから、オジサンと大戸さんが車で付いて来ている。
「こんな水着で良かったのかな?」
園ちゃんの水着姿は、予想通り可愛い。泳ぐ練習に来た水着には見えないね。ワンピースでフリルまで付いているよ。
荷物の中身を見たら、浮き輪まで持参しているし、遊ぶ気満々じゃないか。まあ、普段海とか行かない家に住んでいる園ちゃんに、自分で準備しろというのが間違えなんだね。
「まあ、水に入った時に透けなければ良いんじゃない? 今度水着を買う時はあたしも付き合うよ。白の水着は気を付けないとね」
「そうなんだ? 知らなかったよ」
まあ、この時期外じゃなく、屋内のプールに来ている人間の大半は、園ちゃんと似た理由で来ているから、誰もそんなこと気にしないかも知れないけどね。
一応プールの全体を見回す。こいつが怪しいなんて思い始めたら、キリがないけどさ。
そこのお父さん、娘の成長記念写真のつもりかも知れないけど、ちょっとレンズの角度を間違えると、いきなり逮捕されるよ。プールにカメラ持って来るな。
そっちのお母さん、じゃあ携帯のカメラならオッケーみたいな顔して堂々と写すな。
まあ、殆どが親子連れだな。
あたしと園ちゃんが結構浮いてる。
あ、オジサンと大戸さんが登場。
うわ、もっと浮いてるよ、特にオジサン。大戸さんの真っ赤なビキニ上下も今時浮いているけど、オジサンのハーフパンツみたいなのは、昨日買ったばかりなのがバレバレだよ。
しかし、大戸さんも40代の割にベストスタイル保っているな。警察に置いておくのがもったいないくらい、ボン、キュ、ボン。これじゃあたしがオッサンみたいだ。
オジサンはあの色気の塊みたいな大戸さんを振ったのか、良い度胸しているね。
プールは浅い所と深い所に別れている。浅い方はもちろん子供用で、両親と一緒に来ている子供たちの遊び場と化し、深い方は危険なので、親たちはそこに子供が行かないように注意して見ているので、比較的空いている。
真ん中のレーンは上級者のお爺ちゃんが一人で占領し、その隣二つは水泳教室らしい大人たちが先生に息継ぎの仕方を習っている。一瞬そこに園ちゃんを紛れさせようかと思ったけど、コーチを引き受けておいて丸投げはイカン。
結局端っこに追いやられた。
真ん中の方が水の流れが穏やかで初心者向きなんだけどな。
人間の起こした不規則な波ってのは、初心者には結構脅威だったりするんだよ。
園ちゃんは足が付かなくて、あっぷあっぷしている。あたしより頭ひとつくらい身長低いからな。最初は手を引いてあげる。園ちゃんのバタ足は効率が悪いから、殆ど前に進まない。
萌え要素とかいうなら話は別だが、これで25メートル泳げるようになるには、日が暮れても無理だと判断。
手を放す。
もちろん園ちゃんはバランスを失い、バタバタ暴れながら溺れモードに入った。そういう意味であたしはサディストだね。必死に顔を水から出そうともがく園ちゃんを可愛いとか思っちゃった。
後ろに回り込んで抱きつく。これは愛情表現ではなく、水に馴れさせる為のあたしのスパルタ教育。両肩を掴んで一緒に水中に没する。溺れている人間をおとなしくさせる方法として、昔父に習った。
溺れている人間は必死だから、前から近付くと抱きついて来て、救助しに行った人間を巻き込むことがあるのね。だから、後ろから抱きついて一回沈める、すると無意識に溺れている人間は抵抗を止めるんだよ。万人に通じる方法かは知らないけどさ。少なくとも園ちゃんには効果覿面。
しかし、この娘はプールに入る時もメガネを外さないんだね。
大人しくなったので、背中を押して仰向けに浮かせる、あたしは潜ったまま。腰に手を充てて、サッカーのスローイングみたいに前方に放つ。力の抜けた園ちゃんはその勢いで前に進んだ。力が抜ければ人間って浮くらしいからね。やり方が正しいかは知らないけど、川に突き落とされるよりは安全だと思うよ。
「浮いた! 宮ちゃん、浮いたよ!?」
ほら、喋る余裕まで出来たじゃん。
次は手の動かし方と足の動かし方を徹底的に叩き込む。あたしの教え方って息継ぎは二の次なの。クロールでも平泳ぎでも、タイムを競う訳じゃない水泳授業なら、浮かんで前にさえ進んでいればオッケーだからね、限界だと思ったら、立つんじゃなくて、背泳ぎにチェンジすりゃ良いんだよ。無理に顔だけ出そうとするから、うまく息継ぎ出来ないんだとあたしは思っている。1時間程で園ちゃんは前に進むことと、全身を半回転させて息継ぎする方法を覚えた。
「教え方が上手いな」
プールサイドで心配そうに見ていたオジサンと大戸さんが感心している。
これでもスポーツインストラクターの娘なんだけどな。
「凄い、泳げるようになったぁ!」
園ちゃん、鼻水。
午前中に園ちゃんを泳げるようにしたので、午後からは思い切り遊ぶ。
オジサンはプールサイド1メートル以内に入らないけど、大戸さんは一緒に遊んでくれた。
ビーチボールは無いから、浮き輪を投げて、先に取った人の勝ちとか、そんな遊びね。
しかし、大戸さんも園ちゃんも胸デカイな。
「あれ? 宮野と丸山高じゃん?」
遊び疲れてプールサイドに上がって休んでいると、そんな声が聞こえた。
振り返ると、手井根おじさんと一緒に小僧が一人こっちに向かって来ていた。息子のヒガシだ。年は一個上。こいつも幼馴染の一人に数えられる。高校生にもなって父親同伴かよ。手井根おじさんと違って、あんまりヤンチャな感じのしない、今時のもやしっ子だ。
プールに来るのに携帯ゲーム機を持って来るな。沈めるぞ。
手井根おじさんの幸せそうな家庭で、このヒガシがちょっとネックになっている。高校入学と同時に『世の中の縮図が見えた』とか言って、部屋に引き篭もり、現在は休学中。
手井根おじさんは、ヒガシをなんとか外に出そうと奮闘する毎日を送っているんだよ。今日このプールに連れて来るのも苦労しただろうね。あたしをエサにして、釣ったに違いない。おじさんは、あたしとヒガシをくっつけたい派なの。今時親が子供の恋愛事情に口出すなって、許嫁とか流行んないよ。
まあ、当人であるヒガシは、あたしがプールに居る、イコール園ちゃんも一緒という彼なりの方程式を立てて来たと思われる。おじさんがどう思っていても、ヒガシは園ちゃんに片思いなんだよ。
ヒガシも幼馴染なんだけど、園ちゃんがレズビアンだって知らない。
あたしと二人きりにでもならない限り、仲の良い幼馴染で全てを通しているから、気付かない物なんだね。ちょっと観察していれば、気付きそうな物だけどね。
世の中の縮図が見えたが聞いて呆れる。内側にばかり目を向けているから、傷つくのを恐れるから、ヒガシはいつまでも子供にしか見えないんだよね。まあ、手井根おじさんには悪いけど、だからあたしはヒガシがあまり好きじゃない。
そういう意味では、園ちゃんも視野が狭い。あたし一筋だからね。しかし、それが同性にされるのと、異性にされるのじゃ、感覚も違うんだよ。
ヒガシは園ちゃんを普通の女の子に戻すチャンスが何度もあったのにしなかった。つまり告白しなかった。その意気地の無さがあたしを苛々させ、結果あたしはヒガシを好きにはなれない。バキンバキンの筋肉野郎なおじさんやウチの父に似ていなくても、根性見せれば少しは好きになれたかも知れないんだけどさ。剣は飄々としているけど、根性だけは半端じゃなく持っているから、襲うとかじゃなく、普通に告白されていれば、あたしも普通の感覚のままで、付き合っていたのにね。
あたしの周りは残念な男ばっかりだよ。
頑張り屋さんという意味では、園ちゃんが一番まともに思える。園ちゃんが男だったら、あたしは簡単に付き合ったと思うよ。
まあ、剣に襲われておかしくなる前だったらって話だけど。
そう言えば、剣はこの場に居ないね。オジサンと大戸さんが居るからかも知れないけど、あれから一度も会ってない。今頃何処に居るのやら。まあ、姿を消す天才だから、案外近くに居る可能性も否定出来ないけどね。
そんな感じで園ちゃんを泳げるようにしたことに満足したあたしは、残念がる手井根おじさんとヒガシを残して帰ることにした。ヒガシが根性見せて後を付いてくるかと思ったんだけど、なんか萎んだ風船みたくなって、泳ぎもせずおじさんと一緒に帰ったと後で聞いた。
軟弱な奴。
家まで自転車で帰り、オジサンはいつものアパートに戻り、大戸さんは別の仕事でその場から消え、園ちゃんはあたしの部屋に寄って行った。
夏休みの宿題を片付ける為ね。
二人で分担して、ノートを回し、全ての宿題を夜までに片付けた。
基礎体力があたしより低い園ちゃんが寝むそうになったので、あたしのベッドを貸す。水泳は全身運動だから、疲れたんだね。二人きりになると妙に積極的な園ちゃんだけど、今日はそんなこともないかな。階下に降りて居間に行ったけど、両親は帰って来ていない。二人ともこの時期は忙しいんだよ。園ちゃんじゃないけど、夏休み中に泳げるようになりたい生徒さんと、夏休み中に免許を取りたい学生が大挙して押し寄せるらしいからね。毎年のことだから、馴れているけどね。適当に晩御飯を作って食べる。園ちゃんの分を作って部屋に戻ると、起き上がっていた。
「宮ちゃ~ん。何処に行ってたのぉ?」
なんで泣きそうな声出しているのさ。
「園ちゃんのご飯作って来ただけだよ。今日は運動もしたし、頭も回転させたから、お腹減ったでしょ?」
その間に園ちゃんの家に電話して、今日はウチに泊まって貰うことにしたと伝えた。向かいのアパートにオジサンが待機しているけど、家に一人で居る事も禁止事項なんだよ。そういうことに園ちゃんの両親は理解があるので、簡単に承諾してくれた。
食べ終わって、暫くまったりとしていると、園ちゃんがすり寄って来た。
肘に胸が当たる。積極モードの園ちゃんだ。困る。
はぐらかそうとしたんだけど、諦めない園ちゃん。あたしの体をペタペタ触る。プールで結構接触が多かったから、今日はないと思ったんだけど、ひと眠りして元気になったみたいだ。
「触るのは構わないけど、園ちゃんの思うようにはなれないよ? キスはフレンチまでね、裸になるのは駄目。胸とお尻は良いけど、前は触らないでくれる? 積極的な園ちゃんは好きだけど、それに応えられない自分の神経の鈍さって、ちょっと凹むんだよ」
この前みたいに押し倒されるのは論外なので、先に条件を出して承諾させた。しばらくベッドの中で戯れる。あたしはマグロで、園ちゃんは狼。体中にキスされた。神経を閉ざしてしまっているのが申し訳ないくらい、丁寧に愛撫してくれた。
流石に午後九時を過ぎ、両親が帰って来たので、止めてくれたけど、暫く収まりそうにないので、居間に食器を持って行きつつ退避。食器を洗って部屋に戻ると、疲れた園ちゃんはまた先に寝ていた。園ちゃんの寝顔を見ながら思うことは、こんな平和な一日が続けば良いのにってこと。
翌日、大戸さんが昨日家の前で別れた後、別件の仕事中に撃たれたのを知った。幸い命に別条はないって聞いて安心したけど、平和って続かないね。
「殺さない殺し屋?」
昨日遊んでくれた大戸さんが心配で、病院に行ったけど、流石に別件なので追い返された。
自転車を押して歩いていると、オジサンが後ろから現れた。
隣に並んで歩くことは殆ど無いんだけど、園ちゃんはまだあたしの部屋で寝ているから、一人で来ちゃったんだよ。
「正確には、標的以外は絶対に殺さない殺し屋だ。そいつが北海道に現れたという情報を掴んだんでな、内偵調査をしていたんだが、大戸が接触しようとしていた情報屋が標的だったんだ。情報屋はズドンズドンと二発、頭を撃ち抜かれて即死、大戸は右肩と左足を撃ち抜かれた。奇麗に筋肉と骨を逸らして撃ち抜く技術なんて、普通の日本人は持ってねぇし、拳銃を持っている人間を相手に、そんな余裕をかます奴はいねぇ」
警官が拳銃を所持しているのは理解出来るけど、撃ち合いなんて映画の中でしか見たことないから、想像出来なかった。
「大戸は社内でも指折りの狙撃手だし、早撃ちも得意だ。オリンピックの射撃競技の国内選考にも残ったからな。まあ、実戦と競技は別物と言われればそこまでなんだが、大戸に一発も反撃させずに、四発撃った奴は、化け物だぜ。まあ、君には関係ない話だった。忘れてくれ」
あたしを家まで送り届けて、オジサンはアパートに引き返して行く。心なし背中が丸まっているね。仲間が撃たれたこと以上に、私的感情がオジサンの頭の中を渦巻いているのが判った。結婚は断ったけど、大戸さんのこと、嫌いじゃないんじゃん。
部屋に戻ると、今更起きた園ちゃんに、また抱きつかれた。心配し過ぎ。
しかし、標的以外殺さない殺し屋か、この前の鬼畜警官がそんなレベルの人間じゃなくて良かった。そんなのに襲われたら、絶対生き残れないよ。
そう考えてから、なんであたしがそんなのに狙われるのかと思い、自意識過剰だと自分の頭を殴っておいたんだけど、この時もう少し真剣に考えておけば、あんな目に遭わずに済んだんだよ。
今年の札幌は暑かったんだ。そりゃあ、本州に比べれば『何言ってんの?』ってレベルだけどね。札幌で毎日夏日なんて有り得ない。ついでに、札幌って街は、陽が沈むと涼しくなるイメージがあるんだけど、夜中でも暑い。異常気象だね。
泳げるようになった園ちゃんははしゃいじゃって、何度もプールに誘われた。最後に海にキャンプにも行った。勿論両親も一緒だったけどね。
焚き火の前で園ちゃんと座って話し込んでいたら、どこからともなく変な男が二人現れ、多分ナンパしようとしたみたいなんだけど、烈火の如く怒った父に、ボコボコにされてしまったので、話を聞いてあげられなかった。娘の事になるとすぐ熱くなるんだから、こんなんじゃ、あたしに彼氏が出来ても、紹介は出来ないね。
ヒガシも来ている筈なんだけど、テントに籠ってゲーム中、ヒガシの世の中の縮図とやらは、ゲームの中にあるらしい。その内園ちゃんを諦めて、ゲームの中の美少女と結婚するとか言い出しそうで、手井根おじさんは困り顔だよ。
大戸さんは入院中なので、他の人とオジサンは組んで、オッサン4人組でキャンプに来ている不自然な感じ。まあ、この場所で監視されていることに気付いてないのはヒガシと他のキャンプ客だから、問題視もされないけどね。
「そろそろ夏もおわりだねぇ」
花火を片付けながら、園ちゃんが星空を見上げた。
「うん、今度は冬にスキーでもする?」
「あはは、宮ちゃんは気が早いねぇ」
皆が居る時の園ちゃんは、おっとりしたいつものメガネっ娘。変に盛り上がるのはあたしの部屋でだけだ。この夏だけで何回園ちゃんにキスされただろう。スキーの話を振っておいてなんだけど、一緒に何処かのロッジにでも泊まったら、もっと色々されちゃいそうだよ。
「ニセコに良いロッジがあるから、頼んでおいてやるよ」
気の早さでは負けない手井根おじさんが、安請け合いしてくれる。
警備の面倒さをオジサンに叱られそうだね。
ゴールデンウィーク後の変態鬼畜警官事件以来、たいした事件は起きていない。大戸さんが撃たれたのは結構衝撃だったけどさ。少なくともあたしの身には起きていないって話。
「ご歓談中に失礼する」
闇の中から突然オジサンが現れて、一同がギョッとする。
「どうしたんだい?」
一番早く立ち直った父がオジサンと何やら話し込む。
「はぁっ!? 何でそんなことになるんだ!?」
父が声を荒げた。
あたしたちが振り向くと、何でもないと言って手を振る。びっくりしてあたしに抱き付いたままの園ちゃん。
あたしは父から視線を逸らして、周囲の闇を見渡した。
参ったな、家族同伴の時に何か起きたことは無いんだけど、オジサンの表情からすると、何かあるんだ。次に手井根のおじさんが呼ばれ、父に何か耳打ちされ、ヒガシの籠るテントに向かった。残されたあたしと園ちゃんの所にオジサンと父が戻って来て、火を囲んで座る。
「サワ。警戒した感じで周囲を見渡すな。園ちゃんは俺と車に来てくれ」
「何?」
「説明はオッサンにしてもらえ」
そう言って園ちゃんを父が連れて行ってしまう。
火を挟んで、オジサンと向かい合った。
「大戸を撃った殺し屋の目的について、今連絡が来た」
オジサンは海に来ているのに私服で、上着の中に右手を入れたままで喋る。
胸ポケットに手を入れているというより、脇の下辺りに手を入れている。鑑識課でも警官なら、誰でも持っていて当たり前の物に手を伸ばしているんだね。
オジサンが鑑識に移る前、鬼と呼ばれた警官で、父たちと追いかけっこをしていたのは前にも言ったけど、どうして移動になったかは言ってなかったね。簡単に言うと、人を撃ったからなの。
これは父に聞いた話だから、本当かどうかは知らない。
「その殺し屋の目的が、あたしだったという話なの?」
「ああ、よく判ったな。話が早い」
「なんとなくそんな気もしていたんだけどね。関係無いってオジサンが言うから、忘れていたんだよ」
「スマン。奴に殺された情報屋のパソコンの解析に手間が掛った。奴の依頼者を昨日成田空港で捕えたのも、大きな要因のひとつだそうだ」
「成田?」
「ああ、君のレポートに興味を持った何処かの国の独裁者だよ。昨日極秘で日本に入国しようとした所で、捕まった。偽造パスポートだったんでな。そいつの持っていた偽の千歳行きのチケットから、奴の狙いを割り出したのと、情報屋のパソコンの解析が同時だった」
「ちょっと待って。『領土問題を解決しない人に読んで欲しい、元島民の言葉と、その地からシベリアに連れて行かれた人たちの言葉』、『北海道で迫害され続ける先住民族の言葉集』、『総力取材、ニホンザリガニを探せ。消えて行く日本固有種の衰退の現実』、『冬眠しなくなった羆、知床の冬を歩く』、『完璧な密室殺人の行い方。その一と二』の何処にそんな命を狙われなきゃならないことがあるの?」
「そうだな。俺もそう思うよ。しかし、最初の一つは日本が被害者で、シベリアに連れて行ったソ連が加害者という論調だろ? 次は日本が単一民族国家だと思っている人間にとっては、触れられたくない部分だ。日本ザリガニを絶滅に追いやったのも、戦時中食料に苦慮した国の政策に端を発する。熊が冬眠しなくなったのも、人間が乱開発したお陰だ。密室殺人に関しては、まだ途中という感じだったから、関係無いとは思うがな。中学生が書いた論文でも、読んで何かの怒りに火が付くバカで、国家権力の中枢に居るバカも存在するって話らしいぜ」
「そんなことで、殺し屋を差し向ける? 中学生の悪戯書きみたいなものじゃない!?」
「ああ、だからバカバカしいんだが、その独裁バカの依頼した殺し屋が実に真面目な奴で、代金は前払い。標的は君の論文を密かに持ち出して、外国語に翻訳したバカと、その情報を持っていた情報屋、それに文章その物を書いた君だ」
「情報屋さんとやらが殺されたのは聞いたけど、その翻訳した迷惑な奴は?」
「殺される前に逃亡を図ったんだが、着いた先の空港で殺されている。腕前は前に大戸が撃たれた時に述べた通りだ。警察署に逃げ込んでも、入って来るらしい」
「そんな、乱暴な。じゃあ何処に逃げたり隠れたりするのよ?」
「……君のお父さんには断ったが、こちらから攻めるしか手は無い。逃げても追って来るなら、攻めて戦う以外に方法がない」
「それって、囮捜査じゃん。あたしはただの高校生だよ? その殺し屋の前に立たせて、警察で狙撃でもしてくれるの? 大体囮捜査は日本で禁止されているんじゃないの?」
「冷たい言い方なのは詫びるが、遊び半分で書いた論文が殺し屋を呼んでしまった。既に二人の犠牲者が出ている。独裁バカが振り上げた拳の下ろす先を君に指定しただけだ。俺たちは全力で守る。それだけだ」
愕然とするあたしの腕を掴んで、オジサンは立ち上がる。
周りにはオジサンの仲間三人が固めてくれているけど、こんなに開けた場所だと危険なのは、素人のあたしにもわかるよ。先に園ちゃんや父を車に行かせた理由は、巻き込まない為だとも理解出来る。
でも、でもだよ?
北海道の田舎に住んでいる中学生が書いた夏休みの暇つぶしに、そんな殺し屋とか絡ませるって、どういうこと?
足早にオジサンの車に向かう。ドアを開け頭を低くして後部座席に乗ろうとした時、なんか乾いた音がした。
「ぐっ!!」
あたしの後ろに居たオジサンの仲間が腕を抑えて蹲る。
「乗れ!!」
他の二人に車に押し込められた。その間にまた一人。撃たれた。
「発唆! 出せ!!」
オジサンにそう叫んだ一人も、直後に足を撃たれた。
簡易駐車場にオジサンの仲間三人を転がしたままで、車はドアも閉めずに急発進した。
「オジサン!?」
「黙って頭を下げていろ!! 前にも言ったが、あの殺し屋は標的以外殺さない。あいつらは殺されないから安心して、自分のことを考えれば良い!!」
「うわわわっ!?」
運転しているオジサンの背もたれとヘッドレストに着弾した。
「チっ!! なんて狙撃能力だ。暗視スコープも無しに拳銃で狙撃する人間なんて、この世の物とも思えねぇ!! クソっ、車両課の奴! これは防弾ガラスです。だと!? 軽く貫通してるじゃねぇか!!」
あたしは流石にミラー越しでも相手を確認する勇気が無い。
ただ、恐怖の為なのか、少し落ち着いて頭を働かせる事が出来た。キャーキャー騒ぐだけのヒステリー女よりはマシって程度だけどね。
「オジサン、大きな道路に出たら、一回停めて」
「?」
「相手の顔は見た? って言うか、顔写真とか無いの?」
「奴はいつも覆面をしているから、その顔を知る者は居ない。今は暗闇で銃口が光るのが見えただけで、顔どころか、体も見えなかった……大戸の話によると、奴は覆面をしているが、髪の毛は見えていたそうだから、栗色の髪だというのは知っている。俺の持つ情報はそれくらいだ」
「そう……彼はあの浜まで徒歩? それとも何か乗り物に乗って来たと考える?」
「奴は外国人で、レンタカーを借りるには不向きだな。盗んだか……そう言えば駐車場に君のお父さんが昔乗っていたような仕様に近い単車が一台停まっていた」
「移動手段はバイクね。そんな集団暴走目的のバイクが一台で停まっているのはおかしいもんね。それなら派手な装飾とか付けていたでしょ? すぐに特徴を思い出して、持ち主と、もっと詳細なデータを調べさせて。ちなみにそのバイクが追って来る様子は?」
やっぱり怖くて振り向けないあたしは、オジサンに後ろの確認をさせた。
「ああ、追って来ない」
「じゃあ、車をそこの歩道に寄せて停めて。出来ればその街灯の下が良い」
「なんだ?」
疑問符を付けた表情をされたけど、説明は後だと言って、車を停めてもらう。
後部座席を這うようにして、ドアを開ける。
「おい! 降りるのは危険だ!」
「いいから、オジサンはバイクの照会と後ろからバイクが走って来ないか確認していて。あたしの悪い脳が動き始めたから、絶対勝つから」
そう言い後部座席のドアを開けたままで這って車外に出る。大体の見当は付けてあったから、すぐに目的の物は発見出来た。
それを持って足早に助手席に乗る。
「おい、助手席は危険だぞ?」
「この車が防弾じゃないなら同じだよ。それに、後部座席と運転席では喋り難い。車出して」
「ああ、何を探していたんだ?」
オジサンが車を発進させる。
「これだよ」
手に持ったカタツムリくらいの大きさの物を見せた。
オジサンは横目でそれを見て、呆れる。
「発信機かよ」
「うん、さっきの一連の流れでおかしかったのは、暗殺者がタイヤを狙わなかったことで、それが引っ掛かっていたんだよ。停まる意志をドライバーが持っていない車を停めるには、エンジンを壊すか、タイヤをパンクさせてバランスを崩すのが定石でしょ? でも暗殺者はオジサンに向かって撃った。あたしは後部座席に転がっていたから、狙ったのはオジサンだった筈」
「悪い脳とはよく言った物だ」
「うん、自分でも呆れているよ。天才暗殺者の気持ちになって物事を考えるなんてね。大戸さんもオジサンの仲間三人も、死なない程度に撃つ技術を持っていて、標的以外を殺さないことを信条にしている暗殺者なんてなったことが無いし、なりたいとも思わないけど、そこから考えられることとして、彼はあたしの移動場所を把握出来る何かを持っているってこと、それがこの発信機。完璧主義でもあると考えて、ウチの父の車や手井根おじさんの車にも同じく発信機を付けていると思われる。大戸さんが撃たれてから10日も間が空いているのは、完璧主義だからなのね。あたしの行動範囲を把握し、普段行かない場所に出向く今日を狙った。でも、標的以外の人間が多くて、完全に陽が沈んで、闇になるのを待っていたんだと思う。悪人の考えを作りだすこの脳を嫌悪もするけど、今は役に立っている?」
「ああ、奴の行動が読めれば、対策も立てられるからな」
「先手を打つ為の発信機と行動観察に精を出している間に、成田に独裁バカが来て、捕まった。オジサンに連絡が来たのは偶然だけど、あと数分遅ければ、あたしはさっきの焚き火の所で頭を撃ち抜かれて即死だったね。オジサンたちに囲まれて、車に乗る寸前まで銃撃しなかったのは、少しでも護衛を減らす為だね。あとは発信機を辿って来れば、あたしの傍にはオジサンしか居ないから、四人の護衛を一度に倒すより楽でしょ?」
「その通りだ」
「そこまでは悪人の考えで、ここからはあたしの考えね。この発信機を使って奴をおびき出すってのはどう?」
「危険だぞ?」
「戦うしかないって言ったのは、オジサンだよ?」
「まあ、そうだが……君の言うことの裏付けが取れた」
言い掛けたオジサンがルームミラーを見ている。
つまり、バイクが追って来たのね。
でも、彼はまだあたしが発信機を見つけたことまでは知らない。
「正当防衛と称して、あのバイクを撥ね飛ばすのもアリだとは思うけど?」
「向こうが本人か確認する術がない。『ヘルメットを被っている真面目な暴走族が、一人でツーリング中』それがたまたま俺たちの後ろを走っているのかも知れん」
「彼が撃って来るまでは、反撃できないって話ね?」
「そうだ。それが日本の警察官の限界だ」
「じゃあ、飛ばして一旦振り切るのがベストかな?」
「ああ、そうさせてもらおう。そんな楽しそうにするなよ」
「ありゃ、また悪人モードだったか。応援の狙撃手とかの到着はいつになりそう?」
「……逃げている方向が悪い。これじゃ札幌から離れているからな」
「あたし、道には詳しくないんだけど、これってどこ方面?」
「石狩から当別に抜ける間くらいだ。このまま進めば、五時間後くらいには稚内まで到達出来るな。道を外れて札幌方面に転進しても良いが、狭い農道とかになるから、街灯も少ない。さっきの狙撃でナビが壊れたから、行き止まりの道にでも入ると対処出来ん。Uターンして進路を札幌に向けても良いが、奴の腕が確かなら、すれ違いざまに狙撃される可能性が高い」
目を瞑って頭の中を整理する。
「まあ、取り敢えず振り切ろう。向こうは発信機を見れば位置がわかるんだから、無理して追っては来ないでしょ?」
「ああ、奴の出身国が何処かは知らんが、右側通行に馴れている国の出身なら、戸惑っているかも知れんしな。今の所追い抜きに入る様子もない」
「じゃあ、飛ばして。警察官だってことは一旦忘れて!」
「ああ、了解。でもこの車は覆面パトカーだからな、後で怒られるくらいはするだろう」
「それは一緒にあたしも謝るよ」
たまにある信号を無視し、速度も勿論法定速度の三倍くらい出し、後方からバイクの姿が消えるまで、その暴走行為は続いた。
そして、こういう映画ならお決まりの、田舎のラブホテルに車を停める。
考えて見れば、あたしは着替えてなかったんだよ。
昼間海で遊んで、そのまま花火していて、ちょっと冷えて来たからパーカーを着ただけの姿だったんだよね。こりゃ不倫カップルよりも怪しいや。
「こういう所って来たことないんだけど、此処って無人?」
「ああ、そうらしいな。自動清算機で支払いするシステムらしい」
後部座席から荷物を持って、入ってみる。
うは、あたしの部屋より広いよ。
急いで持って来た鞄を開けると、園ちゃんの荷物だった。結構おそろいの鞄とか買うんだよね。取り違えちゃったようだ。
まあ、緊急事態だから仕方ない。園ちゃんの服と下着を借りよう。
「オジサン、大丈夫だったの?」
ドアの前に張り付いているオジサンに声を掛ける。
ヘッドレストに当たった銃弾が逸れたのは確認済みだけど、背もたれに当たった銃弾が何処に行ったのか確認していなかったの。それがオジサンの背中に当たっていたんだよ、ジャケットに穴が二つ空いていたからね。
「ああ、防弾ベスト様々だ。まあ、結構痛かったけどな。ジャケットは私服だから、後で請求せねばならんな」
取り敢えずシャワーを浴び、ベタベタなまんまだった髪の毛を洗う。ホテル備え付けのシャンプーは返って髪がごわごわになったので、園ちゃんの私物を借用、オジサンじゃないけど、後で買って返そう。バスタオルで素早く体を拭き、下着を付ける。
「……前から言おうと思っていたんだけど、園ちゃん、胸育ち過ぎ」
ブラがまったく合わない。仕方なく水着の上を洗い、頑張って絞って水を切って、ドライヤーで無理矢理生乾きにして着用。スポーツブラっぽく見えなくもないか。上着を羽織、下はあたしの趣味とは程遠いスカート。Gパンかハーフパンツが良かったんだけど、この際仕方ない。
下着や水着でウロウロするよりはマシだよね。靴のサイズが同じで助かったよ。
浴室から出て行っても、オジサンはドアに張り付いたままだった。
「オジサン、空いたけど、シャワーくらい浴びたら?」
「……緊張感の無い人間だな、君は」
「仕方ないよ。そういう精神しか持ってないんだから。それにラブホテルって初めて入ったから、色々興味津々なんだよね。この冷蔵庫の飲み物ってタダなの?」
「……水のペットボトルは無料、後は有料だと書いてある。酒は飲むなよ?」
「いくら無神経でも、警察官の前で堂々と未成年が飲酒なんてしないよ」
頭の中では、悪人モードのあたしが、逃げ込んだ無人ホテルの攻略法を模索中。善人モード? のあたしが攻略法を破る防御法を模索中。
「オジサン、見張るならバイクだけじゃなく、トラックとかも見ていてね」
「何故だ?」
「此処まで来るのに7台のトラックと、普通乗用を4台抜いたから。それに途中に大きな中古車屋さんがあったし、レンタカー屋さんも見た。ガソリンスタンドはこの時間帯閉まっているから、そこで車を奪ったりはしていないと思うけど、車両強盗と車両窃盗の両方の情報くらいは携帯で聞けるんじゃないの? いつまでも盗難照会したバイクに乗っている程、相手はバカじゃないかも知れないって話」
無料の水を冷蔵庫から貰って飲む。
アイスは有料なんだ。何故冷凍食品まであるんだろう?
「成程、それを照会するのは車の無線じゃないと無理だな。普通の携帯電話では、情報が漏れるから、特殊無線でないと……」
相変わらず堅いな。
そう思いながら、水着のポケットに無理矢理挟んでいた携帯を出す。自分の携帯は鞄に入れたけど、このバカ携帯は肌身離さず持っていろって言われたからね。防水加工も完璧なのか確認する為に、水に入れてみたりしていたんだよ。
「……剣への直通携帯か」
「まさか本当に、こっちから電話するとは思わなかったけどね。緊急事態につき、使用許可を貰いたいんだけど?」
「ああ、良いだろう」
呆れた顔でオジサンは許可してくれる。さて、バカ剣はどんな近くに居るのかな。
『おう、今起きた所だが、案外近くで良かったぜ』
「札幌に潜伏していたんじゃないのかよ?」
『ああ、日本海側の漁村を転々とな。今車に乗ったから、あと15分でそっちに着くわ。1時間以内に片付けないと、警察の増援も来ちまうし、俺も捕まる側だからな。お前に手を出そうなんてバカ野郎をぶん殴って、逃げる時間も計算しねぇとならねぇ』
「あんたはあの暗殺者のことをどれくらい知っているの?」
『え? そりゃあ、普通に会話するくらいの友達だが』
「悪人」
『ははっ、そうだぜ。俺は悪人。悪人だから普通に考えられない極悪人の行動も予想出来る。情報屋のオッサンが殺されたくらいで、標的がお前だと気付いたんでよ。先の先を読んで、お前たちが逃げて来る方向まで計算し、ついでにお前が逃げ込みそうな場所も見当付けておいたんだわ。ラブホテルに一人ってことはないだろうから、一緒に警官が居るよな? 間違えて撃たれるとシャレになんねぇから、警官の人数くらいは教えろよ』
「発唆のオジサンとあたしの二人だよ」
『マジかよ? よく逃げ切れたなぁ。あいつは結構レベル高い殺し屋なんだぜ?』
「GPS切っているのに、どうしてあんたはあたしの居場所が判るんだ?」
『そいつは、職業上の秘密ってことにしといてくれや』
「あんた、働いているの?」
『言葉のアヤだよ』
「来た!!」
オジサンがドアを少し開けて、外の様子を窺っていたんだけど、ドアの横にある窓から、どう見ても大型のトラックと思われるライトが、あたしにも確認出来た。
「剣、来ちゃったみたいだよ」
『あと5分持たせろ。最悪オッサンを盾にしてでもな』
「大きなトラックだよ。あんなので突っ込んで来られたら、こんなプレハブみたいなホテルなんて、踏み潰されちゃうよ」
『いや、それは無いだろう。奴は冷静に標的を見極めて殺す殺し屋だからな。オッサンに銃撃戦でもさせておけ。あと3分で着く』
オジサンは拳銃を手に持っているけど、構える素振りはない。トラックが駐車場に停まるのを見ているだけだ。
父に聞いた話の続きとしては、犯人なのか一般人なのかは知らないけど、とにかく一度撃ってしまい、それ以来拳銃を構えられないんだと聞いている。事務方とも言える鑑識課に途中で移った理由ね。だから、剣が言うような銃撃戦はまったく期待出来ない。
トラックから降りて来た暗殺者は、ヘルメットをしたままだった。もう此処で撃ってもオッケーなんだよ。トラックの運転手でヘルメット被って運転している人間なんて聞いたことないもん。疑いようもなく犯人でしょ。
「あたしが死んで、犯人は生け捕りって寸法?」
オジサンの隣に行って、確認する。
オジサンの笑顔が引き攣った。
「スマン。お父さんから聞いているかも知れんが……」
言葉の途中でキスしてやった。
そう言えば剣ともしたことないな。男とは初めてだ。
「なっ?」
「まあ、援護に期待はしないから、少なくとも捕まえなさいよ?」
そう言って、オジサンの制止を振り切ってドアを蹴る。そして窓に頭から突っ込んで、外に飛び出した。ドアはフェイントだよ。暗殺者はヘルメットで少々視界が狭い筈。一旦ドアに視線を集中したから、一秒は稼いだでしょ。
地面を転がって、車の陰に隠れる。
転がりながら石を数個左手で拾った。オジサンから拳銃を奪おうかとも思ったんだけどね。
背にした車の下の隙間から、銃弾が飛んで来たらしく、お尻の辺りで小石が弾ける。この暗がりで、そこまで狙うか。
暗殺者との距離は10メートルちょっとかな。20で計算。このスカートで走って、奴の懐に入り込む、或いは背後に回る時間だよ。
「動くな!!」
オジサンが拳銃を奴に向けてくれた。
いくら有能な暗殺者でも、あたしの護衛が撃てないことまでは知らないから、ナイス援護。奴の目がそっちに向き、ついでに銃口も向いた。
死なないでよ、オジサン。
銃声がして、オジサンの拳銃が宙を舞う。あたしにとってはそれが合図で、よーいドンだ。
「こっちだ! コラ!!」
暗殺者に近付くのは不可能と判断、オジサンの居る方向とは逆に向かって走る。
拳銃をこっちに向ける気配。遮蔽物はホテルの看板と防風林代わりのポプラの木くらいしか無い。まあ、無いよりはマシ。そこにヘッドスライディング。
園ちゃん、服も買って返すよ。
頭の上を銃弾が通り過ぎた。転がって、太い木の幹の裏に退避。
オジサンは撃たれたみたいで、蹲っているけど、生きていることは確認。
「どうした? 当たんねぇぞ、暗殺者!! それでも一流のつもりか!?」
口に出してから、そう言えばこいつに日本語通じるのかな、とか思った。それでもあたしの声には反応しているから、聞こえてはいるんでしょ。こっちを向いた。
剣、そろそろ3分だって。早い所来なさいよ。
心で念じても、まだ現れない。まったく、役に立たないストーカーだね。
カツン!
木の幹から恐る恐る顔を出すと、ホテルの裏側の出入り口付近に、人影を見つける。今の音は暗殺者のヘルメットに石が当たった音。剣はパチンコで戦うつもりか。ボウガンとかでドスドス刺して、一撃で殺してくれるのかと思っていたよ。そう言えば人は殺したことないとか言ってたっけ。
暗殺者が剣の方に振り返った瞬間に、正規の出入り口から、車が一台突入して来る。剣が車に乗って来るって、なんかおかしいと思ったんだよ。あんまり考えられなかったけど、剣にも仲間が居るんだ。
「仲間の二人も連れて来ねぇと、勝てねぇって」
あたしの後ろにいつの間にか剣が居た。パチンコの人も剣の仲間なんだ。
「取り敢えず間に合ったな。大丈夫だったか?」
あたしの肩に手を掛けようと伸ばして来たので、払い落す。
「ありがとう。今日の登場はなかなかカッコイイじゃん」
正面から突入した車が暗殺者を撥ねようとして、グルグル駐車場で回る。奴はあたしたちの居た部屋に飛び込んだ。部屋の前ではオジサンが蹲ったままだ。
「あの暗殺者は人質とか取るタイプ?」
「いんや。取らねぇな。オッサン何処撃たれたんだ? 結構痛そうじゃねぇか」
そんなことを言っている間に、裏口でパチンコを構えている人が撃たれた。
「ありゃ、やっぱり通じねぇな。このまま逃げても追い掛けて来るよなぁ。あいつ真面目だから。俺なら金だけ貰ってトンズラだけどな」
「あんたは何か武器を持ってないの?」
そう言うと、剣は頭を指差した。
「俺の武器は此処にある」
「……カッコイイつもりなら、はっきり言っておくよ。カッコ悪いよバカ」
「おいっ!?」
言い残して、木の幹から飛び出す。
とにかく、捕まえなきゃダメなんだよ。
剣と違って、こいつは真面目に人殺しで、逃げても逃げても、地の果てまで追ってくるタイプなんだ。ここで仕留めて、警察に引き渡さないと、今後の生活に支障が出る。
オジサンの手前でグルグル回る車に向かって、奴は発砲中。エンジンの何処かに当たったらしく、ボンネットが跳ね上がる。
まったく、映画のワンシーンみたいだよ。
落ちて来るボンネットに向かって走り、ダイレクトシュート。流石に鉄板だから足が痛い筈だ。感じないけど。
奴はその渾身のシュートも避けた。こっちに銃口を向けながら、横っ飛びしている。
あたしは構わず走る。その体勢で狙撃出来るもんならして見やがれ。
カチンっ!
「弾切れかぁっ!!」
スーパーチャンス到来とばかりに間を詰める。窓際のソファの上に倒れた奴の上に馬乗りになって、拳を振り上げた。
「次に女を暗殺する依頼を受けた場合は、断りな」
ヘルメットの上から思い切り殴る。
律儀に顎紐なんて留めているから、脱ぐに脱げない。構わず10発くらい殴って、両手で掴んで揺さぶる。痛くはないかも知れないけど、続ければ首を痛めると考えたからだ。
近くにあった電気スタンドでぶん殴り、更に花瓶で胸を殴る。
「サワ!」
「今更飛びこんで来るな! そして、あたしの下の名を呼ぶな!!」
近くに転がっていたペットボトルを剣に投げ付ける。
剣は簡単に受け止め、キャップを開けて飲んだ。
遠くにパトカーのサイレンの音が聞こえている。
「ああ、悪かったよ。あんまりやると、痛みを感じないお前のことだから、指の骨全部折れても殴り続けそうだったんでよ。止めさせる方法はお前の下の名を呼ぶことだったのさ」
「くっ」
オジサンが足を引きずりながら、部屋に入って来る。撃たれたのは足だったみたい。
暗殺者の左足首に手錠を付け、続いて右手首に掛ける。格好悪い形で暫くもがいていたが、最後に一発あたしが蹴っ飛ばすと、大人しくなった。
「オッサン、大丈夫か?」
「ああ、お前が来てくれたので助かった。拳銃を構えて出た途端に右手を撃ち抜かれ、続いて左太腿だ。真面目に死ぬかと思ったぞ。パチンコ玉飛ばした奴は大丈夫か?」
「おお、忘れてた。おおーい。ハッチ!! 生きてるかぁ!?」
まさかまた駄洒落なんじゃないでしょうね。あたしの周囲には駄洒落名前の奴しか居らんのか。
まあ、そのハッチは死んだフリだったのか、すぐに起き上がり、こちらに手を振り返している。
「ちょっと、剣。パトカーが近付いてるからずらかるよ? サワちゃ~ん。大きくなったねぇ」
「え? 琴尼おばさん!?」
さっきまで車をグルグル回転させていたのは、剣の母親である琴尼おばさんだった。
「なんだい? 剣から聞いてなかったのかい。あたしは二什師とは別れて、別の男と再婚したのよ。これでもおばさん若いからねぇ。んで、あっちのパチンコ小僧ハッチは、今の旦那の連れ子なんだよねぇ」
「うわ、母ちゃん。俺の隠れ場所一個なくなったじゃんか」
そう言えば剣のお母さんは、この辺りの出身だと聞いた覚えがある。
「あんたの隠れ家なんて一個でも減れば良いんだよ。警察の人ぉ。今回は見逃してねぇ~、って、鬼の発唆じゃないのさ!?」
「ああ、久し振りだな、エンジェルチャームの琴尼。まあ、命を救われたからな。今回はそのまま帰ってくれ。今の旦那は普通の漁師だろ? あんまり出張った真似すると、また離婚することになり兼ねんから、気を付けてな」
「おおきなお世話だよぉ~だ」
相変わらず可愛いおばさんだ。エンジェルチャームはおばさんの昔所属した暴走チームの名前ね。ちなみにウチの父の初恋の人でもある。
剣とハッチを回収して、琴尼おばさんの車は去る。ボンネットは残して行ってしまったけど、あのおばさんのことだから、上手く処理するんだろう。
「さて、五月蠅いのも去ったことだし、有能な暗殺者の顔でも拝ませて貰うか」
「オジサンの携帯で写メ撮って良い?」
「おお、撮っておけ。なんなら傷だらけの顔を世界中に配信してやれ」
あたしはちょっと明るめに振る舞った。さっきの攻防で右手の指が実は折れている。またやっちゃったのを、オジサンから隠すつもりだった。
あたしが傷付くと、オジサンが上司に怒られるからね。
まあ、このまま病院に連れて行かれるんだろうから、すぐにバレるんだけどさ。
暗殺者のヘルメットを脱がせ、覆面を取る。
「……美形だね」
「……ああ、美形だな」
日本人には真似出来ない感じの、米国俳優みたいな顔が出て来た。これだけカッコイイと、目立って仕事にならないんだね。だから覆面までして、顔を隠していたんだ。
「オジサン。そう言えばこいつの名前を聞いてないよ? まあ、偽名なんだろうけど」
「ああ、こいつの名前は、フロント・バスセンターだ」
「……また駄洒落?」
「俺も人のことは言えんからな。ノーコメントだ」
電気コードと手錠でグルグル巻きにされたフロントは、20代半ばくらいの白人男性。あたしの趣味じゃないけど、誰もが認めそうな美男子だよ。
あたしがオジサンの携帯で写メを撮っていると、ようやく増援のパトカーが来た。救急車と消防車も一緒。そして多分無人ラブホテルの経営者かなんかの車も後ろに付いて来ている。派手に壊れたからね。
オジサンと二人で少し事情を聞かれ、救急車に乗り込もうとした時、電気コードの地獄からようやく解放されたフロントが、普通に手錠をされて、連れて来られた。勿論拳銃を構えた警官に付き添われてだけどね。
「サワ・ミヤノ」
呼ばれたあたしは振り返る。
まだ殴られ足りないか、この野郎。今度はその顔再生出来ないくらい変形させてやる。
そんな表情を作って、睨む。
フロントは本当に殺し屋なのかと思える程、穏やかな表情で、手錠の掛ったままの両手をあたしの頭に乗せて、撫でた。
「ナイスファイト。ナイスジョブ」
そう言って、頭から手を放してくれる。本当に撫でられただけだった。
「まさか……」
オジサンを振り返る。オジサンは呆れ顔でフロントを見送っていた。
「多分君の感じた通りだろうな。なるべく刑務所から一生出さない方向で話を進めて貰うが、俺の力ではなんとも」
その10日後、拘置所から一人の外国人が脱走した。
通訳の女性を伴って逃げたんだってさ。そんなたらしこまれるような女の人を通訳に使うなよ。更にその三日後、病室に居るあたしの元に、看護婦が恍惚とした表情で手紙を一通運んで来た。オジサンを呼んで、開封してみる。
『サワ。愛してる』
日本語で一言だけ。誰に習ったんだ? このマゾ野郎。あたしがぶん殴り過ぎて、頭壊れたか?
「ストーカーが一人増えたんじゃないのか?」
「それって、オジサンも入ってる?」
「俺はストーカーじゃねぇって」
こうして、また一人、変なのが増えた。フロント・バスセンター、27歳。殺人依頼を唯一果たせなかった人間であるあたしに恋をしたバカ。剣と同じく、ストーカー。
剣と撃ち合いでもして、相討ちになってくれないかな。
夏休みの後半は、結局病院のベッドで過ごすことになっちゃった。まあ、中学生の時に書いた自由研究が発端だから、自業自得と言われればそこまでかね。それでも、休み中に片付いたから、今度は補修もないし、冬休みは普通に過ごせることを祈るよ。
「しかし、折角高校生になったんだから、夏休み中にアルバイトをして見たかったな」
散々オジサンの上司に怒られた後、退院。
オジサンは今回もあたしよりダメージ大で、退院にも付き合えなかった。
大戸さんもまだ入院中。
護衛と称して園ちゃんが来てくれた。護衛か?
まあ、勿論オジサンの仲間で撃たれなかった人たちが、半径100メートル以内に居るんだけどさ。普通に喋れるのはオジサンと大戸さんだけなんだよ。
「宮ちゃんのお父さんに頼めば、水泳コーチのバイトとか紹介してくれるんじゃないの?」
「いや、無理。小学生の男の子とかだと、特に駄目。出来れば男が殆ど居ない職場が望ましい」
剣に押し倒されてから、普段付き合いのある男以外は本当に駄目になった。この前のフロント事件でも、車にあたしを押し込めようとして背中に触ったオジサンの仲間の触った掌の形通りに蕁麻疹みたいのが出来たくらいだからね。フロントに撫でられた頭は平気だったのに。そう言えば受験の時の痴漢に触られたのは平気だったな。父や手井根おじさんを含むその仲間たち、剣、ヒガシ、フロント、オジサンは大丈夫で、他は殆ど駄目か、ストーカーや痴漢、暗殺者に触られて平気ってのもどうだろう? 中学の時に書いた自由研究の時は、会ったのが殆どお爺さんだったから平気だったんだけどね。クラスメイトでも駄目なのが居るし、どうなってるんだろうね、この体。
「女の人だけの職場かぁ……」
園ちゃんは、いけない妄想に入ってしまった。
あたしだけにしておけば良いのに。
と言うか、そのルックスなら普通に男と付き合いなさいよ。
何の気無しに振り返ると、一斉に柱の陰や自販機の横に隠れる人たちが居る。触られなければ平気なんだけど、オジサンの仲間にも気を遣わせているな。
それから暫くは、時々剣からメールが来るのと、覚えたての日本語を文字として残さないと気が済まないらしい、フロントからの手紙以外で、問題は特に無い。
まあ、両親から学校以外に行く時は、保護者同伴という鉄則みたいな物が出来たのも、高校一年生には迷惑な話だったか。
園ちゃんの花園バイト計画も、却下された。
園ちゃんは相変わらず、あたしの部屋に来ると狼ちゃんに変身するけど、この性癖に関しては我慢の範囲内。
学校で、新学期早々にクラスメイトの男子に告白されたけど、言える範囲であたしの特徴を言い、断った。同時期に女子二名に告白されたけど、園ちゃんだけでも持て余しているので、これもお断り。その代わりと言ってはなんだけど、友達にはなった。名前はまた駄洒落系だったけどね。ひばりちゃんとすすきちゃん。敢えて苗字は発表しないよ。
前期試験が終わる頃、オジサンと大戸さんが職場復帰。父は娘を守ってくれたオジサンに感謝し、今日は二人で飲みに行った。母は夏休み中に免許を取れなかった落ちこぼれさんたちの為の特別授業で忙しく、今晩も遅い。
つまり、園ちゃんがあたしの部屋に居る。
でも、今日の園ちゃんは大人しい。いくら頑張ってもあたしを感じさせられないことに飽きたのかとも思ったんだけど、ちょっと悩みがあったみたいだ。
「昨日ね。ヒガシくんに告白されたんだ……」
「高校も行かずに、家でだらだらゲームしているだけの奴が、何を根拠に告白出来る訳? 告白イコール結婚を前提にお付き合い、とまでは言わないけど……」
ヒガシの奴、やっと男らしいことをしたな。少しだけ見直したが、結婚前提でないにしても、稼ぎは必要だろう。あたしには、愛情があればどんな苦難も乗り越えられるという考えは理解出来ない。
両親に言わせると、それはあたしが本当に人を愛したことがないからなんだそうだ。
「うん、それもあるけど……他に好きな人が居るからって、答えちゃった」
「……前にも言ったけど、その期待にあたしは応えられないよ?」
「それも判っているから、悩んでいるんだよ」
それもそうだな。園ちゃんはあたしのことが好きで、ヒガシは園ちゃんが好き。この一方通行のような恋愛感情は、高校一年生にとっては深い悩みだ。剣やフロントみたいに、好きだと表現することで満足しているバカとは違う。
「じゃあ、今のあたしの部屋での関係を清算して、ヒガシと付き合う?」
「そ、それは出来ないよ。長い年月掛けて、やっと宮ちゃんに想いを伝えて、駄目だったけど、宮ちゃんに触れる位置に居ることが出来るようになったんだよ。やっと掴んだその位置を捨てて、ヒガシくんと付き合うとか、考えられない」
狼ちゃんじゃない園ちゃんは可愛い。確かにモテる。その全てを断って、あたしを選んでくれていることには感謝もしている。
でも、あたしは園ちゃんの期待には応えられない。
園ちゃんとの友情にヒビを入れたくない。我儘だ。これはあたしの我儘だ。
園ちゃんの価値観を、なんとかあたしじゃなく、ヒガシに向けることが出来れば、あたしが一人で居ることに妥協出来れば、問題解決出来る。
「園ちゃん」
「はい?」
あたしが珍しく真剣な表情をしたので、園ちゃんは背筋を伸ばして正座した。
「あたしは園ちゃんに友情以上の感情を持てない。園ちゃんには悪いから黙っていたけど、ベッドの中での行為がストレスにもなっているってのも確かなんだ」
「……ごめんなさい」
「いや、謝らないで。これはあたしに原因がある。男性恐怖症という病気にかこつけて、自分の気持ちをはっきりさせないってことと、それなのに一人で居るのが嫌だと言うあたしの我儘だ」
「だって、それは皆知っていることだし、そこに付け込むような真似をしたのはこっちだよ」
「そうかも知れないけど、あたしはそこに甘えていたんだな。一人になっても、最後には園ちゃんが居てくれるという、あたしの甘えだ。それに、随分前から、ヒガシの気持ちは知っていた。手井根おじさんはあたしとヒガシをくっつけたかったみたいだけど、ヒガシはあたしじゃなく、いつも園ちゃんを見ていたからね。『4人』の幼馴染を不幸にし始めたのは剣かも知れないけど!」
「駄目! 宮ちゃん! それを言っては駄目!!」
激昂し掛けたあたしの両肩を園ちゃんが掴む。
「ゴメン……それは言わないから、放してオッケーだよ」
小学三年生の時に剣に襲われたことは言ったけど、その後の話が少し飛んでいたね。
あたし、園ちゃん、剣、ヒガシ、そしてもう一人の幼馴染の話ね。
その人の名は手井根虹子。ヒガシのお姉さんだよ。年は剣より一個上だった。今はヒガシがその年を追い越し、あたしと園ちゃんが追いついた。つまり故人。
事実だけ言えば、虹子姉は自殺したんだよ。
その原因は、あたしが襲われた事件だと誰もが知っている。でも、誰も剣とあたしを責めなかった。大切な娘を奪われた手井根おじさんもね。
剣に関しては、今も逃亡中だし、誰も許してなんかいないけど、あの事件の後のあたしを見れば、誰も責められなかったんだと思う。
今激昂して叫びそうになった言葉ね『あの時あたしが油断して一人で下校なんて真似をしていなければ、剣があたしを襲うことも無かったし、虹子姉が自殺することもなかった』これを叫んだ後のあたしは、発狂するくらいの勢いで自分を責めるんだよ。園ちゃんはそれを知っているから、止めてくれたんだ。
虹子姉は剣のことが好きだった。悪さばかりする剣のことをいつも庇ってくれていた、大人っぽい人だったのね。剣は今でも子供っぽいから、お似合いだと誰もが思っていたんだよ。
ただ、剣は屈折しているから、それを認めなかった。ちなみにウチの母は、琴尼おばさんの妹なんだよ。つまり本当に叔母さんなのね、だから剣は従兄なの。剣はその従妹であるあたしに想いを寄せた。屈折した想いと共に。
上手く行っていた幼馴染の仲を決定的に引き裂いたのは、虹子姉が高校に進学して、剣と離れたこと、そして、剣のストレスが限界に達したことが主な原因。
枷の外れた状態の剣が、あたしに襲い掛かったのは、悪さを虹子姉に封じられていた剣の不器用な発散方法だったのね。
オジサンのお陰で未遂に終わった事件だったけど、そのショックであたしは精神に傷を負い、痛みを感じる神経が超ド級に鈍くなった。義務教育だから留年はしなかったけど、あたしは半年以上学校を休んだんだ。
その間に、虹子姉は自殺した。あたしと剣に充てた長い手紙を残してね。
その内容をあたしは思い出せないけど、入院中の病室で、発狂したんじゃないかというくらい暴れたらしい。
そして、剣は屈折したまま、逃亡を繰り返し、ヒガシはゲーム世界に引き篭もった。
あたしがなんとか自分を保っていられるのは、園ちゃんのお陰なんだよ。その園ちゃんを突き放そうとした自分に激昂しそうになったんだね。
「問題は園ちゃんとヒガシのことなのに、あたしは自分勝手に、また暴れようとしていた。ゴメン」
「ううん、相談の仕方が悪かったんだよ。宮ちゃんのせいじゃない。それに、最近剣くんと会っても結構普通にしているみたいだから『おっかない』宮ちゃんがもう居ないんだと信じちゃっていたんだよ」
「でも、もうあたしたちも虹子姉と同い年だ。そろそろそういうのは思い出の中にしまっておけるようにならなきゃ、駄目なんだ。園ちゃん」
「はい?」
「変な汗かいちゃった。一緒にお風呂にでも入らない?」
「ホントに? 裸で? 水着なしで?」
「うん、ちょっとお風呂で語ろうや」
この夜、小学生の時以来園ちゃんと一緒にお風呂に入り、一緒に裸で抱き合って寝てみた。
ヒガシ、ごめんね。もう少し引き篭もっていて、まだあたしには園ちゃんが必要だ。あんたの大好きだったお姉さんを奪い、あんたの今好きな園ちゃんを一人占めしているあたしは、贅沢なバカだ。
そう思ってその夜は過ごしたけど、相変わらず平和は長続きしない。
翌日、早速ヒガシに呼び出された。
ヒガシは学校休学中で暇かも知れないけど、あたしは普通に学生なんだけどね。園ちゃん絡みのことだろうから、応じる。
ストーカー連中に連絡し、30分で良いから二人きりにしてくれと頼んだ。剣は少し不機嫌になったけど、承諾してくれる。
『わかった。ハッチと遊んでるわ』
フロントの電話番号は剣に聞いた。
殺せなかった標的に対して、普通に喋るフロントは気持ち悪いが、こいつはこいつで誰かとお楽しみ中らしい。本命を落とすまでは遊びまくるタイプなんだと剣に説明された。
オジサンと大戸さんはちょっと勘違いしたらしく『ごゆっくり』と言われる。
手井根おじさんが普段からあたしとヒガシをくっつけたいと言いふらして回っているからね。それでも警護の範囲が普段の100メートルから300メートルに広がっただけだったけどさ。
ヒガシがあたしを呼び出した場所は、なんとあたしが剣に襲われた廃屋だった。嫌な記憶を呼び起こす場所だけど、ヒガシに他意はないらしい。小さい頃から、ヒガシが大事な用のある場合は、この廃屋を使うのは癖みたいな物だ。ちなみに一昨日園ちゃんを呼び出したのも、此処だったそうだ。
あたしたちは、この廃屋を秘密基地と呼んでいたんだよ。剣に襲われてから、あたしと園ちゃんは来なくなったけど、ヒガシはその辺鈍いから。
「丸山高から話は聞いているよな?」
いきなり本題かよ。
流石空気を読めない引き篭もり歴、中途半端な一年生。
「ああ、あんたが告白して、園ちゃんが他に好きな人が居るから断ったって話?」
あ、露骨に凹んだ。
「あ、う……それ、だ……」
「面と向かって話難いなら、携帯で話すかい? メールでも構わないよ?」
「バカに……するな。そこまでの引き篭もりじゃ……ねぇよ」
ヒガシはそう言ってから、自分の顔を二回程グーで殴った。気合いだね。流石は手井根おじさんの息子、根性のある所もたまには見せてくれないと、園ちゃんをこれから任せる訳に行かないよ。
「俺は、格好悪いが泣きながら、昨日一日寝ないで考えた」
「ほお、それは根性あるな。見直したよ」
「茶化すな。男が好きな女のことを寝ないで考えて何が悪い?」
「ゴメン」
ちょっと引いたけど、話は進めないとね。
「俺は親父に似て鈍感だし、剣兄みたいな天才ストーカーでもねぇが、気付いたことがある」
「あたしと園ちゃんのこと?」
「ああ、お前たち二人は付き合っているのか? 丸山高の好きな人ってのは、お前のことなんじゃないのか?」
「そうね、確かに園ちゃんはあたしのことが好きだよ。でも、付き合っているってのとはちょっと違うんだよ。それに、あんたも知っての通り、あたしは精神が逝っちゃってるから、園ちゃんを幸せにするとか、考えられないんだ」
「そうか……それを確かめたかったんだ。お前は昔から同性にもモテたから、驚きはしねぇ。ゲーム世界なら、有り勝ちなシチュエーションでもある」
「ゲームと現実ごっちゃにするなよ」
「ああ、こっちが現実なのは理解している。物の例えだ、流せ」
「オッケー」
「それで、丸山高は、お前に惚れているが、お前はそうでもないんだな?」
「まあ、そうなるかな? 普通に好きだけど」
「じゃあ、俺にチャンスが無いって訳でもないんだな?」
「それはどうかな? あんたのガリガリの体を見て、園ちゃんが惚れる可能性は低いと思うけど?」
「体形は挽回出来る。俺は親父に似ているんだ。親父の昔の写真は見たことがあるだろう?」
「まあね。それは冗談としても、今のあんたに園ちゃんが惚れることは無いんじゃない? 気持ちだけ押し付けられても、女は迷惑だと思うよ。それに、園ちゃんの特殊な趣味をどうするつもり? 園ちゃんは両刀じゃなくて、真正だよ?」
「それも……考えた」
ヒガシが、プリントアウトしたと思われるコピー紙を差し出す。
そこに書かれた『手術』という文字を見て、あたしは変な汗をかいた。
「俺が女になれば良い」
「う……それはどう答えれば良いやら」
ヒガシの目が本気だった。手井根おじさんの悲しむ顔が浮かんじゃったよ。
「ばーか」
答えに窮するあたしに代わって、喋り出した奴が居た。
姿は見せないが、廃屋の壁の向こうに剣が居る。