3-1
「カツヒコー」
しばらくしてグロリアが僕を追ってきた。けど、僕は歩みを止めなかった。
「待ってったらー」
追いついたグロリアに後ろから抱きつかれる。女の人に抱きつかれるのは初めてだった僕の脳みそは爆発した。ただでさえ熱い体がますます熱を帯びて、汗が吹き出る。
「もうひどいよ。勝手に帰っちゃうなんて」
「あ……はなれ……て」
満足にしゃべることもできなかった。
「え、何?」
「はなれて!」
やっとはっきり言えると、グロリアはパッとはなれた。
た、助かったぁ。
「急に帰っちゃうからミサエさんたち心配してたよ」
僕の脳は今すぐに答えを言える状態ではなかった。
「カツヒコ、どうしたの? 顔が赤い」
グロリアは心配して僕の額に手を当てる。治まりかけていた熱がまた上がっていく。
「熱あるみたい。大丈夫?」
大丈夫なわけがない。
「あ、あの園長さん何か言ってた?」
「カツヒコは用を思い出したから先に帰ったって」
「そう」
僕はホッとしていた。
「用ってなぁに?」
「そ、それは……」
実際には用などあるわけがないのだから答えようがなかった。
「忘れちゃった」
そう言うしかなかった。
「だったら私につき合って」
「つき合って、って……?」
「だって用事忘れちゃったんでしょう」
すたすたと歩いて十字路でそのまま直進しようとしていた僕の体を、グロリアは強引に左へ向ける。家の方向だった。
「どうして僕がいっしょに行かなくちゃならないんだよ? どうしてそうやって僕にかまうんだよ?」
「いっしょにいたいっていうのは理由にならない?」
それって、どういう意味? 怖くて僕にはそれ以上聞くことができなかった。
結局、僕はまたグロリアに引き込まれてしまっていた。
「ここって……」
僕はあ然とした。
いやな方向へ進んでいるとは思っていたけど、まさか本当にうちの病院に来るなんて。
今度はお見舞いかぁ。グロリアってボランティア活動してる人なのかな。ずっとここにはいられないようなことを園長さんに言ってたみたいだけど。いや、宗教の教えを広めているという説も考えられる。まだ疑いが晴れたわけではない。
「カツヒコ、こっちこっち」
グロリアが正面玄関の前で手招きする。それだけは勘弁してほしい。今日は午後から休診だけど、正面から入ったら父さんたちに見つかる可能性は高い。
僕はグロリアの手を引いて裏口へ回る。
「へぇ。こっちにも入り口があったのね。いつもベランダから入るから気付かなかった」
「ベランダ?」
ベランダって、一階にはベランダはないはずなんだけど。どこかと勘違いしてるのかな。僕はそのことにあまり気にも止めず、西側の階段で上がっていく。グロリアが用があるのは二階の小児科病棟だった。三階と四階が内科病棟になっている。各階の部屋数は八つ。西側に四人部屋が三つ。東側にふたり部屋が三つとひとり部屋が二つある。
グロリアは階段を上がってすぐの二〇八号室に入っていく。
ドアの横には四人の名前を書いたプレートがある。
「やっほー、みんなぁ。おりこうさんにしてたかなぁー?」
「あ、おねえちゃん」
「おねえちゃんだー」
子供たちが一斉にグロリアに飛びついてくる。しかも、ひとりやふたりではない。七、八人はいる。ここって四人部屋じゃなかったっけ。
「ちゃんとお昼寝はしたかなー?」
「はーい!」
子供たちは幼稚園児か小学低学年生ぐらいばかりだった。
「おねえちゃん、きょうはどうしておそとをとんできてくれなかったの?」
「ねぇ、どうしてー?」
「きれいなはねをみせてよー」
子供たちがグロリアにせがむ。
外を飛んでくる?
きれいな羽根?
この子たちは何を言ってるんだろう。
「はいはい」
僕はその光景をぼーっと見ていた。子供たちも僕には無関心といった感じだ。
ばさっ。
グロリアの背中から何か白いものがふわりと広がったように見えた。
あれは。
天使の翼……?
「うわぁー」
子供たちは感激の声を上げて、それに見惚れていた。
うそだ。これは夢なんだ。現実であるはずがない。
グロリアが本物の天使だなんて……。
ありえるはずがないんだ。そんなことあるはずが。
「何だよ。翼なんて見えないじゃんかよ」
静まり返った病室内に水を差す声。
みんなは声の主に注目する。窓際のベッドにいた男の子に。小学五、六年生くらいかな。よく陽に焼けていて元気そのものって感じでとても病人には見えなかった。
「お前らが天使天使っていうから来てやったの。何だよ、でまかせか」
小学生らしからぬ生意気な口調だった。
「あの子は?」
「じゅんくんだよ」
グロリアの問いにひとりの女の子が答える。
「きのうきたの。おねえちゃんがきたときはずっとけんさしてたんだよ」
「してたんだよ」
「お前ら余計なこと言ってんじゃねぇよ」
新入りの割には年のせいか一番えらそうにしているなぁ。何かサル山のボスって感じになってるよ。
「こんにちは、ジュンくん。私はグロリア。よろしくね」
グロリアはじゅんくんのほうへ歩いていく。
「別によろしくされるつまりはないよ」
じゅんくんはすたすたと病室を出ていった。今時の子っていうのかなぁ。中三でこんなにも年の差を感じるなんて。
「ねえねえ、おねえちゃん。きょうもいろんなおはなしきかせてよー」
「きかせてよー」
追いかけようとしたグロリアの手を子供たちが引っ張る。
「カツヒコ」
そんな目で見ないでほしい。言いたいことは何となくわかる。
「ジュンくんの所へ行ってあげて」
やっぱり。短時間だけど、少しだけグロリアの性格がわかってきた。
「僕が?」
「やっぱり男の子は男の子同士のほうがいいんじゃないかなーって」
どうして僕なんだよ。子供の相手なんかしたことないのに。
「わかったよ」
グロリアの背中から翼はもう消えていた。
錯覚?
僕は子供たちといっしょに幻影を見ていたんだろうか?




