2-2
新しい建物特有のきついニオイが鼻についた。玄関先は段差が全くなく、少し傾斜をつけている。うちの病院といっしょだ。どうしてだろう。
「あら、グロリアちゃん。もう来てくれたのかい」
車イスに乗った白い髪のおばあさんがこっちに気付いて玄関にやってくる。おばあさんは慣れた手つきで車イスをきこきこ走らせてくる。
「こんにちは、ミサエさーん!」
グロリアは両手を元気よく振り上げる。自分のおばあさんに
「みさえさーん」っていうのは変だと思うのだけど。
「今日は早いんだねぇ。せっかく玄関で待ち伏せしようと思ってたのに」
「みんなに早く会いたくって」
「うれしいこと言ってくれるねぇ」
祖母と孫の会話とは思えなかった。
グロリアは車イスの後ろに回ると、取っ手を握って車イスを押して上がっていく。
そうか。段差がないのは車イスのためだったんだ。しかも、傾斜があまりないから車イスを押して上がるのも苦にならない。
ちゃんと考えてるんだなぁ。あ、これがバリアフリーっていうのかな。
グロリアはおばあさんと会話を弾ませながら先に進んでいく。 逃げるなら今がチャンスかもしれない。
僕は気付かれないようにそぉうとUターンする。そして、足音をたてないように一歩一歩ゆっくり歩いていく。たかが二メートルくらいの玄関がとてつもなく長く感じた。
出口まで後一歩というところで、
「カツヒコー、早く来ないとお昼食べれなくなっちゃうよー」
僕を呼ぶグロリアの声。
がくっ。
僕は肩を落として再度Uターンすると、グロリアの後を追う。 後からよく考えてみれば、そのまま逃げようと思えば逃げることだってできていたはずなのに、どうして逃げなかったんだろうか。
老人ホームの中はベージュを基調としていた。壁には風景画とか動物の写真とか、とにかく心を和ませるものが多く飾られていた。オブジェや観葉植物も所々に置かれている。腰ぐらいの位置には手摺りがついている。老人ホームってずいぶん陰気臭いイメージが強かったけど、これじゃあまるで芸能人のお宅ご拝見を見ているみたいなものだ。お金を掛けてるといった印象を受けた。 キレイで設備がよければ人は集まってくるっていう考えなんだろうなぁ。ここの経営者も母さんと同じだ、きっと。人を人とも思わないでお金儲けの道具としか見ていない。
「グロリアちゃん、今日は何を食べるかねぇ」
「うーん、今日はオムライス食べたいなぁ」
「よし、今日は洋食屋に行ってみるとするかい」
そんな話をしながら裏口のほうから出ていく。外に連れ出したりしてもいいのかな。
ホームの裏側には別棟があった。それはどう見てもレストランだった。その横には和食屋やラーメン屋まである。表からだとホームに隠れて全然見えなかった。
グロリアは車イスを押してレストランに入っていく。やはりここも段差はなく、車イスの出入りが見易いようにしてある。
中に入ると十席ほどの席はもう満席だった。お客はおじいさんやおばあさん・・・たぶん老人ホームの人たちばかりだった。
「おー、グロリアちゃん」
「こんにちはー、ゲンさん」
みんながグロリアに話し掛ける。
「わしらぁもう食べたからここへ座りなさい」
おじいさんたちが席を譲ってくれる。
「ありがとう、ゲンさん」
「なんのなんの。それよりも後で遊戯室へ必ず来ておくれよ。待っとるからのぅ」
「うん」
「もうヘタな演奏は聞き飽きたよ」
車イスのまま席についたおばあさんが毒舌する。
「芸術のわからん人には聞いてもらいたくないもんじゃな」
別のおじいさんが負けずと言い返す。
「そういうことは腕を上げてから言ってもらいたいもんだよ」
「口の減らん人じゃよ」
「ゲンさんたちの負けー」
ふおっふおっと笑いながらおじいさんたちはレストランを出ていった。
「ミサエさんに口で適う人はいないんだよー」
「これ、余計なことを言うんじゃないよ」
「はーい」
ちょっと口はきついけど、母さんのきつさとはまたちがった。逆に親近感を持ってしまう。
「ところで、ぼうやはグロリアちゃんのぼういふれんどかい?」 ぼうやはあんまりだ。しかも、ボーイフレンドだなんてとんでもない。
「あ、いえ……」
「やだぁ、もうミサエさんったらー」
否定しかけたところへ、グロリアが割り込んできた。きゃっきゃっと笑うだけで否定も肯定もしなかった。僕としてははっきりと否定しておきたかったんだけど。
僕はテーブルの上にあったメニュー表に目をやる。品目はやはり普通のレストランとちがって少ない。
「え?」
思わず声を出してしまった。値段が書いてある。ってことは、お金がいるってことだよね。老人ホームの中にあるからてっきり無料だと思っていたのに。普通のレストランに比べたら安いのは安いみたいだけど。お金を持ってない僕がここで食べれるわけないじゃないか。
「安心して。ミサエさんのおごりだから」
グロリアは僕の思っていたことがわかったのか軽くウインクしてみせる。
おごりって言われて素直に「はい」と言えるわけがなかった。食べた後に無銭飲食でつかまるのはいやだ。もうあんな怖い思いはしたくない。
僕が黙っていると、グロリアは厨房へ行き、
「オムライス三つね」
と、勝手に注文する。
「ちょっと、そんな勝手に」
「嫌いだった?」
「そういう問題じゃなくて」
「おいしいのよ、ここの料理。きっとカツヒコも大好きになるから」
プラスチック製のコップに水を入れてきて、グロリアはあっけらかんと言う。
もう逃げられない状態に僕は追い込まれていた。




