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 追いつかれたらどうしようという恐怖に怯えながら、振り返ることなく僕は走った。

 ただただ走った。何度も足をもつらせて転ぶ度に、僕は立ち上がり走った。  

 足は重く、もう息をするのも苦しかった。

 止まりたい。楽になりたい。

 でも、止まれば追いつかれて捕まってしまう。それだけはいやだ。だって、僕は何も悪いことはしていないんだから。

 どれくらい走ったんだろうか。ずいぶん走った気がする。

「あ!」

 また僕の足はもつれてしまい、不様に転倒してしまった。今度はもう起き上がることはできなかった。

 足音は聞こえない。追っては来てないみたいだ。

 僕はあおむけになったまましばらく動けなかった。汗がどーっと吹き出る。爆発寸前の心臓を落ち着かせるためにゆっくりと深呼吸を繰り返す。夏の日差しが僕の体をジリジリと焼いている。アスファルトが熱い。何だかサンマにでもなった気分だ。僕は太陽の光の強さから顔を両腕で隠した。

 周りには人はいないのか、誰も声を掛けてこない。まぁ、いたとしても声を掛けてくる人なんかいるわけないと思うけど。そのほうが助かる。

 やっと呼吸が落ち着いてきた僕は半身を起して周りを見ると、見慣れた近所の公園があった。どうやら家の近くまで帰ってきてたらしい。単純に考えても五キロは走ったはずだ。体育では満足に百メートル走も完走できなかった僕があれだけの距離を全力で走っただなんて。何度も転んだりはしたけれど。こういうのを 『火事場のクソ力』っていうのかな。

 僕はゆっくりと立ち上がると、重くなった足を引きずりながら公園に入った。膝がガクガク笑っている。

 僕は水を求めて、中央にある水飲み場へ行く。蛇口を勢い良くひねって水を飲む。その後に顔を洗う。ポロシャツは汗でびっしょりで気持ち悪かったけどぬぐわけにもいかず、僕は我慢した。

 僕は一番手近にある木製のベンチに座った。        

 一息ついたとたん、僕はあの恐怖を思い出した。

 顔を覚えられてしまっただろうか。もしも学校がばれて通報されていたらどうしよう。もう隣町には行けない。いつまたあの店員さんに会うかわからない。

 僕の中でどんどんと不安が広がっていく。

 震えが止まらない。

 それにしても。

「友成くん、どうしてあんなうそを……」

 無理にでも止めなかった僕も悪かったのかもしれないけど、やったのは友成くんの意志だ。それを僕に罪をきせようとするなんて。

「友達だと思ってたのに」

 初めてできた友達だった。それなのに裏切られるなんて。友達ってこんなに薄っぺらいものなんだろうか。

 友達っていったい何なんだろう。いっしょに勉強したり遊んだりするだけの存在なのかな。

 僕にはわからなくなってきた。母さんがみんなのことをライバルだと思えと言ってたのはあながちうそじゃなかったのかもしれない。

 自分のために生きるなんて思ってたけど、何だか面倒臭くなってきた。もうどうでもいいや。

 僕はすっかり人生を投げ出していた。

「ねえ、どこか痛いの?」

 どこかずれたイントネーションで女の人が話し掛けてきた。

 僕は顔を上げた。

「!」

 例の彼女が僕の目の前に立っていた。

「どこか痛いの?」

 彼女は中腰のまま僕に顔を近付け、もう一度聞いてくる。

 僕の心臓は違う意味でまた爆発寸前となった。

 鼓動が、脈打つ速度が速くなっていく。血が一気に頭のてっぺんまで昇っていく。

 まだいたんだ、彼女。不覚にも全然気付かなかった。午前中はこの公園は子供たちは来ないこと知ってたから安心しきってたのに。

 僕はベンチの中央から左端へ慌てて移動する。すると、彼女は空いた僕の右側へちょこんと座る。

「さっき転んだでしょう。大丈夫?」

 見られてたんだ。僕が転んだ時から。

「だ、大丈夫です」

 僕は恥ずかしくて彼女の顔をまともに見ることができなくてうつむいたまま答えた。

「そう、よかったね」

 彼女は明るい声で言う。

 初めて聞いた彼女の声。イメージしてたよりもちょっと甲高いけど、キレイな声だ。イントネーションが変だけど、はっきりと日本語を話している。

 せっかく彼女のほうから話し掛けてきてくれたというのに、僕は何を話したらいいのかわからなくてただ黙ってうつむいていただけだった。視界に入ってくるのは、彼女の足元だけだった。素足にスニーカーを履いている。

 千載一遇のチャンスだというのに。

 単純だな、僕は。ついさっき友成くんに裏切られて投げやりになってたのに、彼女と話ができただけでこんなにも感情が高ぶるなんて。こんなもんなのかな、人間の感情なんて。

 彼女はどこへ行くわけでもなく、僕の隣にずっと座っている。僕の体は緊張のあまりカチカチに硬くなっていた。中学の受験の時でさえこんなに緊張したことはなかったのに。

「私、グロリア。君は?」

「つ、筒井克彦です」

 緊張して思いっきり声が上ずっていた。顔は今も上げることはできない。けど赤くなってるのわかっちゃうだろうなぁ。

 意識すればするほど顔が熱くなっていくのがわかる。

「ねえ、カツヒコは神様を信じてる?」

 それはあまりにも唐突で意外な質問だった。この僕にそういうことを聞いてくるなんて。

 もしかして彼女は怪しい宗教集団の勧誘者? かわいい顔してそうやって男の人を入信させてるのかもしれない。

 僕は再び友成くんの裏切りを思い出した。友達だと思っていた彼に裏切られたんだ。さっき言葉を交わしたばかりの彼女が信用できるはずがない。好きだと言っても、僕は彼女の名前以外は何も知らないんだ。外見にだまされているのかもしれない。

 僕の心の中で疑心暗鬼が広がっていく。

「悪いんですけど、僕はそういう非現実的なモノは信じてないんです」

 僕はその場を離れようとして立ち上がった。けど、まだ膝が笑っていて、どすんとベンチに腰を落とす。

 カッコ悪い。

「どうして?」

 彼女は僕が立ち上がったことには何も触れずに聞いてくる。どうしてって聞かれると答えに困る。

「うちにはサンタクロースが来たことないから」

 考えた挙げ句に出た答えがこれだった。今時小学生でも言わないようなセリフを真顔で言っている自分が情けなかった。

 バカにされると思ったのに、グロリアは笑わなかった。

「そんなことないよ。きっとカツヒコがわかんなかっただけ」

「………」

「サンタクロースは天使と同じで神様の使いなの。いつだってみんなの近くにいるよ。そして、悪魔は……」

「そんなことがどうして言い切れるんで」

 僕は言葉を切った。顔を上げると、目の前に真剣な表情の彼女の顔があった。吸い込まれそうな大きな瞳に、僕はこれ以上言い続けることができなかった。

 その時の僕はすごく間の抜けた顔をしていたんだと思う。だって、グロリアは僕の顔を見てくすっと笑ったから。

「知ってた? 人間も大昔は天使だったんだよ。人間はね、喜怒哀楽っていう感情を持ってしまったから神様に地上へ落とされちゃったの。つまり堕天使になっちゃったってこと」

「はぁ〜」

 僕はぼう然としながらグロリアの話を聞いた。

「だけど、私は人間が大好き」

「僕は嫌いだ」

 うれしそうに話すグロリアに水を差すようで申し訳なかったけど、僕は続けた。

「人間は弱くてずる賢くて、平気でうそついたりして人を裏切るんだ。そして、人に無理矢理自分の考えを押しつけて思い通りにさせようとする。何が天使なもんか。人間なんてみんな悪魔なんだよ!」

 感情が高ぶってきたのか、僕の声は次第に大きくなっていた。どうして僕はこんなことを話してるんだろう。グロリアの言葉にうまく乗せられてしまったんだろうか。

「カツヒコの言う通りかもしれない。でも、人間は悪魔じゃないよ。悪魔はもっともっと狡猾で残酷。純粋な人の心を変えていくの。だから私は守りたいの。ミカエル様のようにみんなの心を」

「ミカエル?」

 ミカエルって確か大天使の名前のはず。となると、やっぱりグロリアはクリスチャンか何かだ。でないと普通の人はそういうこと言わないよ。

「でも、私って落ちこぼれだからなかなかみんなの役に立つことできなくって」

 グロリアは少し淋しそうに言う。

 だめだだめだ。ここで同情なんかしたらグロリアの思うツボ。これ以上は話をしていられない。もう膝も笑ってないし、今度はちゃんと立てれる。

 僕は用心しながらゆっくりと立ち上がった。

 よし、大丈夫だ。 

 と。

 ぐゅるるるるるるるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。

 それは僕のお腹の虫だった。

 カッコ悪すぎる。



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