4-1
「グロリア?」
僕は二〇八号室へ顔を出した。病室には誰もいない。みんなベランダのほうに出ていた。
空を見ている。
「ねぇ、お姉ちゃんはどこに行っちゃったのかな?」
僕はベランダに出て、とりあえず子供たちの中で一番年が上の女の子に聞いてみる。
「とんでちゃった」
と、空を指差す。僕はその先を見る。さすがに五時前でもまだ太陽の日差しが強い。
飛んでったって、ここ二階だし、家が周りにないから屋根に飛び移るなんて芸当ができるわけがないし。
「もうきてくれないって」
「おねえちゃんもうこないの?」
その横にいた小さい女の子が涙目で僕を見る。
「もう来ないって、おねえちゃんが言ったのかい?」
「うん。ほかにいくとこがあるからって」
グロリアの言葉を思い出し、子供たちが泣き始める。
困ったなぁ。こんな時はどうすればいいんだろう。小児科医を目指すと決めた以上は、子供たちの扱いにも慣れておかないとだめなんだろうなぁ。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんはまたみんなの所にも来てくれるよ」 子供だましなうそしか思いつかなかった。きっとこれは僕の願望でもあったんだと思う。けど、子供たちは僕の言ったことを素直に信じて喜んでいた。
グロリア、本当に天使だったんだろうか?
グロリアがいるような気がして、僕はあの公園に行ってみた。もう時間も時間なので、遊んでいる子供たちはいない。
誰もいない公園。
「やっぱりいない」
僕は最後の望みを断ち切られたような気がして、がっくりと肩を落としてベンチに座った。グロリアと初めて言葉を交わしたこのベンチに。
幻だったんだろうか。いや、そんなことない。僕はしっかりと覚えている。
グロリアの顔、声。
そして、その温もりを。
もう一度会いたい。会ってお礼だけでも言いたかった。今日ここでグロリアに会わなかったら。今の僕は存在していない。母さんたちとうまくいったのも全部グロリアのおかげなんだ。宗教の勧誘とかって疑ってた自分が恥ずかしい。
最後の悪あがきと知りながら、僕はここでグロリアを待った。会いに来てくれるような気がして。
だんだん陽は沈んでいき、外灯に灯が燈る。それでも僕はグロリアを待った。
ふいに肩を叩かれ、僕は弾けるように立ち上がった。
「グロリ……ア」
じゃなかった。
「と、友成くん……?」
今朝と変わらぬ出立ちの友成くんが僕の前に立っていた。僕は顔が硬張っていくのを感じた。
コンビニでの万引きを僕のせいにして逃げた友成くん。できれば文句のひとつでも言ってやりたかったけど、僕は彼の右手を見て驚愕した。
友成くんの右手に握られている血のついた包丁。よく見れば服の所々に血がついている。
「ど、どうしよう。俺おふくろ刺しちまった」
顔面蒼白になってガクガクと震えだす友成くん。服についた血はその時の返り血だろう。
「助けてくれよ、筒井」
「お、落ち着いてよ、友成くん。いったいどうしてこんなことになったんだよ?」
「おふくろが勉強しろ勉強しろってあんまりうるさいんでカッとなって。気が付いたらおふくろが血だらけになって倒れてて。俺怖くなって逃げてきたんだ」
泣き縋る友成くん。
僕も一歩間違えばこうなっていたかもしれない。グロリアに出会わなければ。
こういう時はどうすれば……。やっぱり警察に。
「とにかく警察に行こうよ。そんな格好で歩いてればすぐに誰かが通報しちゃうから」
「お前それでも友達かよっ!」
差し伸べた僕の手を友成くんは振り払う。ガクガク震えながら両手で包丁を構える。
「友成くん?」
「なぁ、俺たち友達だろう? 筒井が刺したってことにしてくれよ。おふくろが俺を殴ろうとしたから助けようとして包丁で刺したってことでさ。正当防衛だよ」
友成くんの目は正気を失っていた。
「まだ十五才だし、名前だってバレやしない。もしも少年院に行くことになったってすぐに戻ってこれるよ」
「できないよ、そんなこと」
震える声で僕は言う。本当の友達ならこんなことはしないと思うんだ。
「そうかい、わかったよ! やっぱりお前も他の連中と同じなんだな」
友成くんは目を剥き出してくる。
刺されるかもしれない。
僕は怖くって動くことも助けを呼ぶこともできなかった。
何が友成くんをここまで追い込ませてしまったんだろう。出会った頃のおとなしかった友成くんの面影はどこにも見当らない。 ここにいる友成くんはまるで悪魔のようだった。
悪魔……。
そういえば、グロリアが言ってた。悪魔は純粋な人の心を変えていく、って。
僕は友成くんの背後に黒い影を見たような気がした。
「筒井、死んでくれ。俺のためにさ。後はうまくやっておくからさ」
友成くんが包丁を構えて僕に突進してくる。
いやだっ!
僕はまだ死にたくない。やりたいことがいっぱいあるんだ。
すべてがスローモーションに見えた。
僕に向かってくる友成くん。
僕の前に現われたグロリア。
そして、友成くんの包丁は僕にではなく、グロリアの胸に突き刺さった。




