3-2
じゅんくんの病室は向かい側の二〇五号室だった。
「宮城純、くんか」
プレートには純くんの名前しか書かれていなかった。ようはひとり部屋みたいなものだ。
僕はノックして中に入った。
「何だよ。何か文句でも言いにきたのかよ?」
ずいぶんと攻撃的な口ぶりだった。苦手かも。
「あ、いや、その」
子供相手に僕は何を戸惑っているんだろう。とはいっても、何を話せばいいのか僕にはわからなかった。
ただひとつだけ確かめてみたかった。
「その、さっきは本当に見えなかったの?」
「何がだよ?」
「だから、その、グロリアの羽根が……」
「見えたに決まってんだろう」
「へ?」
「にーちゃん目医者行ったほうがいいぞ」
「じゃあ、さっきはどうして見えないって?」
「なんとなく、だよ」
あっけらかんと言う純くん。そう言われてしまったらもう何も聞けない。
けど、やっぱりあれは見間違いなんかじゃなかったんだ。
「用がないんなら、にーちゃんもう出てってくれよ。練習のじゃまになっから」
純くんはベッドの下からサッカーボールを取り出すと、膝へ胸へ頭へと巧みにボールを弾ませる。えっと、リフティングっていうんだっけ。
へぇー、器用なんだなぁ。
小五の時にやってれば、僕もこれぐらいはできてたかもしれない。
「何だよ。にーちゃんもやりたいのかよ?」
子供の目でもすぐにわかるくらいに、そういった顔をしていたんだろうなぁ。
「でも、僕やったことないんだ」
「一度も? 体育の時間とかでやったことないのかよ?」
「見学してるほうが多かったんだ」
「かっこ悪いな、にーちゃん」
事実だけに返す言葉がない。
「純くんうまいんだね」
「ったり前だろう。これでもオレは少年サッカーチームのエースストライカーだぜ」
純くんは頭の上のボールを弾かせて、僕のほうへ向ける。
僕はそれを両手で受け取った。
「何やってんだよ。サッカーは手を使っちゃいけないことくらい知ってんだろう」
「あ、ごめん」
「そういう時は胸で受けるんだよ、胸で」
僕は純くんにボールを手渡す。
「ずいぶんと元気がいいんだね」
「すぐにでも退院したいのに、あのババアがまだだめだって言いやがるんだ」
ババアって、きっと母さんのことだろうな。
「オレはどこも悪くないって言ってんだけどさー。早くサッカーがやりたいよ」
「サッカーがそんなに好きなの?」
「まぁな。オレの夢はプロのサッカー選手になってワールドカップに出場して日本を優勝させることなんだ」
この時の純くんはすっごくまぶしく見えた。夢ってこんなにも人を輝かせるものなんだろうか。
生意気でかわいくない子だと思ってたけど、話していくうちにだんだん純くんは僕にいろんなことを話始める。
「このことは内緒だからな。言うとすぐみんなバカにして笑いやがる」
「そんな……バカにするなんて」
うらやましいくらいだよ。
「にーちゃんの夢は何だ?」
「僕の?」
「そうだよ。オレだけしゃべったら不公平じゃんかよ」
「僕の夢は……」
答えることができなかった。だって、今の僕には夢なんかないんだから。
「もしかして、ないのか?」
「い、今考えてる最中なんだよ」
「早く決めたほうがいいぜー。夢のない人生なんてつまんねぇーぞ」
子供に諭されている。情けない。
でも、純くんってしっかりしてるなぁ。最初はとげとげした子かと思ってたけど、けっこういい子だ。
−−コンコン。
ドアをノックする音がした。
「純くん?」
この声は……母さんだ。
どうしよう。まだ会いたくないよ。
「何してんだよ、にーちゃん」
僕は思わずベッドの下に潜り込んだ。
「ごめん。僕がここにいるの黙ってて」
ドアが開くと、僕からは足先だけが見えた。こっちに歩いてくる。
「純くん調子はどう?」
回診かぁ。でも、母さんひとりってのは変だな。
「絶好調だよ。だから早く退院させてくれよ。もうすぐ地区予選が始まるんだからさー」
「今日お母さんは?」
「仕事だよ」
子供が入院しているっていうのに、母親は仕事か。どこも同じなんだなぁ。
「夕方には来るんじゃないかな」
「そうなの。じゃあまたその頃に来るわね。それと、サッカーは禁止よ。早く退院したかったら安静にしてなさい」
それだけ言って母さんは出ていった。
僕はベッドの下から出る。
「にーちゃんも医者が嫌いなのか?」
「そんなとこかな」
僕は純くんの横に座った。
「純くんはひとりでいて淋しくないの?」
「とーちゃんもかーちゃんも生きていくために一生懸命働いてるんだぜ。さみしいなんて言ってたらバチが当たるぜ」
その言葉を聞いて僕を少なからずもショックを受けた。僕よりも年下の子がこんなこと考えてるなんて。僕は両親のことをそんな風に思ったことなんてなかった。
今まで悩んでいたのはいったい何だったんだろうか。だんだんバカバカしく思えてきた。
「子供だって自立しなきゃなんないんだぜ」
「すごいんだね、純くんって」
「にーちゃんが子供なだけだよ」
「………」
負けた。しっかりしてるよ、純くんは。尊敬に値するよ。
「それよかさ、にーちゃんオレの練習につき合ってくれよ」
「でも、サッカーは禁止だって母さんが」
僕は慌てて口を押さえた。けど、もう手遅れだ。しっかり聞かれている。
「にーちゃん、あのババアの子供なのか? ははーん。病院にずっといるからかまってもらえなくっていじけてんだなぁ」
子供のくせにどうしてそう人生悟ったようなことを言うかな。最近の子はませてるというかしっかりしているというか。中三にしてもう年寄りの気分だ。
「そんなんじゃないよ」
「いいっていいって。気にすんなよ。みんな一度は通る道なんだからさ」
すっかり年上気取りである。
「ほら、にーちゃん。早くボール投げてくれよ。ヘディングの練習すっからさ」
純くんが僕にボールを渡す。いいのかなぁ。
僕と純くんは病室のギリギリまで端と端に離れる。僕は純くんに言われた通りに頭のほうに向けてボールを投げる。それを純くんが頭で受けて僕に弾き返す。
それの繰り返しだった。
しばらくして、純くんの呼吸がだんだん乱れてきていることに僕は気付いた。
「純くん、少し休もうか」
「まだまだいけるよ」
と言った瞬間。
純くんは膝をついた。
「純くんっ?」
僕は慌てて駆け寄る。
「へーきだって。ちょっと胸がドキドキしてるだけだよ。いつものことだから、すぐ治るって」
「いつも?」
「そうだよ。サッカーやってる時とか」
もしかして純くんの病気って。
心臓病?
だとしたら、純くんの夢はどうなる?
サッカー選手になってワールドカップに出場して日本を優勝させるっていう夢は。
母さんは純くんの夢を知っているんだろうか。
知りたい。純くんの病気のことを。
「純くん、ちょっと待ってて」
僕は病室を出た。




