金魚
ホラーにならなかった産物
赤い金魚が金魚鉢の中でゆらゆらと泳いでいる。それを眺めるのが好きだ。何も考えなくていい、ひらひらと揺れる尾びれが羽のように見えて、この子のようになりたいと思った。何も考えずに泳いでいたい、何も考えずに生きていたい。それが無駄なことだってわかっている、知っている。だから私は今日も金魚を眺める。誰かが私を呼んでいるような気がした。
『ここはまるで鳥かごみたいだね』彼が苦しそうにそうこぼした。私はその時、鳥かごよりもここは水槽だよ、と言って覚えがある。人間である私にとって水は息ができない。ここは呼吸がしずらい場所だ。彼は悲しそうに笑って『そうだね』といった気がした。あまり覚えていない。私は彼の笑い顔さえ忘れてしまった。泣き顔が脳裏に浮かぶ。あの時どうして彼は泣いていたんだっけ。それさえも思い出せない。きっと大切な記憶のはずなんだろうけど。
彼はまるで猫のような人だった。私に姿を見せてくれる日もあるし、部屋にずっと引きこもっている日もある。最近は部屋に引きこもってしまって、もう数週間も彼の姿を見ていない。彼は好奇心が旺盛で、新しいものによく挑戦していた。からだあを動かせるうちになんでもしていたいのだと言っていたっけ。その時の彼はキラキラしていて、まぶしかった。私も彼のようにいろいろなことに挑戦してみようとしたけど、面倒になって結局やらなかった。彼は有言実行を体現したような人間だった。
彼は美しい人だった。外にあまり出れないからか白く透き通った肌に、つややかな黒い髪。闇をそのまま閉じ込めたような黒い眼は、考えていることが見透かされているようで苦手だった。けれど、楽しんでいるときに目がキラキラと輝いている様を見て、夜空に星屑を散らばせていたかのように思えてきれいだったのだ。それだけは鮮明に覚えている。彼の目は、私を魅了していたのかもしれない。それでもよかった。彼が私を見てくれているという事実があるだけでも、私は嬉しかった。
彼は鮮やかな色がよく似合う。特に赤色が彼の肌と相まって綺麗に映える。夜空に似た黒と鮮やかな赤は何よりも美しい組み合わせだと私は思う。彼に戯れに赤いネイルを塗ってみたことで私はそれに気付いた。きっと彼は赤い口紅も、赤い着物も、赤いかんざしも、きっと誰よりも似合っているだろう。髪が短かったから簪はさせなかったから、私のわがままで赤い着物を着てもらったことがあった。彼は苦笑して、似合っていないだろうと言っていたが、私は彼をこの世に存在しているのか不安になるほど美しいものだと思ってしまった。
まるで赤い金魚だ。尾びれの長い、美しい金魚だ。家の中を水槽だと感じている私にとってその姿の彼は赤い金魚だと思った。決して水槽の中から出ることのできない、可哀そうな愛玩動物。人間の娯楽のために、人間が観賞するためだけに水槽に入れられ育てられる。その檻の中で、死ぬまでずっと。
彼にはそう思わせるほどの美しさがあった。そう思わせるほどのはかなさがあった。
彼は病気を患っていた。医者には掛かっていない。彼の両親は、私の両親は彼をこの家の中で殺してしまおうと思っているのだ。美しいまま、永遠にその姿を保ったまま、美しい庭園のある、この家の中で。彼の母親だけは反対していた。でも私の両親と私と彼の祖父母が許さなかった。美しいものをめでて傍に置いておきたいという感情。この家の血を引く人間にはそう思ってしまうのだろうか。実際この家の血を引いていない彼の母親も、彼と同じくらい美しい女性で、ほとんどこの家に軟禁されているような状態だ。彼女は人魚のようだった。
私はこの家側の人間の思考を持っていたのだろう。彼に会った時にその鱗片が顔を出していたのだ。
私の目の前で金魚が泳いでいる。赤い金魚と黒い金魚。彼のことを順々に思い出していけば彼の顔も、表情も全て鮮明に思い出せる。彼は今、部屋に閉じ込められている。ずっと一人だから心配だ。
私は金魚鉢から離れて自分の部屋に戻る。綺麗に整えられた庭園は、家の人間が守ろうとした美しさの一つだ。赤い一輪の花がさみしく咲いている。何の花だろうか。後で調べてみよう。
障子を開けて、入る。かたんと、閉める音鳴らすと部屋の空気が何て冷たいのだろうと思った。きっと金魚たち魚はこんな冷たい水の中を泳いでいるんだろう。冷たい水の中で、なぜあんなにもきれいなまま泳いで生きていけるのだろう。
自室に置いてもらった大きな冷凍庫の扉を開ける。
「ねえ、聞いてくれる?」