アゲイン、again
流れ続ける涙は、拭っても溢れ出てくる。止めるすべはない。ただ溢れ出てそのままだ。
心が痛くて、傷ついて泣いている訳ではないのに。少年は暗い部屋の中で一人、泣き笑いの笑みをこぼした。
少年が気付いたのは中学二年生の三学期ぐらいだろうか。もう次から三年生としての自覚を持たなければならない時期に、彼は気付いてしまったのだ。気付いてはならない、そう思えるほど不可解な現実で、とても泣き出したくなった。
泣き虫は卒業したはずなのに。彼は唇を強くかみしめた。
少年は昔から周りの男子に比べると涙腺が滅法にゆるかった。緩すぎる、という表現の方が正しいほどすぐ泣く少年だった。少年、東屋希逸はついでに言うととても女顔に近い容姿をしていた。少年らしい顔立ちなのだろうか、それにしては女の子みたいな容姿だなあ、と毎回クラスの男子たちに言われていた。
中性的な容姿。中学に上がってからはそういう表現になってきた。黒の学生服は最初のころ似合っていなくて、家族にも笑われたという記憶がある。しかし慣れというものはすごいものだと感じのだった。誰も違和感を覚えないほどに、彼の制服姿に慣れてしまったのだ。それはいいことなのか悪いことなのか、彼には分りもしないがいいことなのだろう。
中学二年生はとても浮いていた日常だった。受験に追われない時期であり、学校にもう慣れた時期だからだ。素行の悪い生徒はいるが、彼にはどうでもいいことだ。関係ない。そう思えばとても楽だった。楽だったが、連帯責任としてとばっちりを受けたことだけは嫌だった。
三学期、冬休みと正月ボケが重なりかなり浮いていた。誰もがそうだった。
登校日から数週間、テストが終わって気が楽になった時があった。その次の日、同じ日付だった。なぜだろうと不思議に思ったが、書き忘れだろうと思って口に出さなかった。
ただ、その日も同じ行動をとっている生徒が多数存在していることだけが気がかりだったが。
次の日、また同じ日だった。テレビのニュースも昨日と同じ。――彼にとっては、同じだったのだ。そこで気づいてしまった。自分はこの日を繰り返しているのだと。
思わず口元を抑えて涙がこぼれた。嗚咽を漏らして泣き続ける彼を不審に思ったのか母が駆けつけてきた。ああ、これだけは違う。まさか、違う行動を起こせば次に進めるってこと? 思考をぐるぐる回して考える。涙は止まらない。心配した母は彼を休ませることにしたようだ。その日彼は布団に戻って眠りについた。
――目が覚めたら朝だった。それもまた同じ日だとは思いもしないだろう。少年は苛立ち気に毛布を強く握りしめ、声を絞り出す。自然と流れてくる涙は、もう知らない。
「なん、で、なんでっ!なんで俺だけっ!」
理不尽だ。何かをしたわけでもないし、何かをしようとしたわけでもない。ただまた同じ日常を、何の変哲もない平和な日常を過ごしたかっただけなのに。なんで、こんな、繰り返して試すようなことを。
――試す?
「…あ、あはは…そっか、そっか」
俺は試されているのだと。そう無理やり納得した。納得せざるおえない状況だと、今誰しもそう思うだろう。彼もそうなのだ。そうしなければ進めないのだ。
まるで止まったまま時を刻まない時計や、動かない歯車のようだと。ならば自分はそれを動かすネジになろう。比喩表現としてはとても申し分ないと思われる、彼にとってはだが。
(まずは状況判断だ。学校へ行って、)
違う行動でもとってみようか。関わったことにはなるべく関わらないように行動してみようか。これもまた一つの実験だ。行動しなければ、何一つ変わらないのだから。
「おはよー希逸!」
「おはよう」
仲のいい男子が挨拶をしてくる。いつものように返す。何かが変わったとか、何かを変えようとは一切しない。彼も、その周りも。しかし彼だけは動く。関わらないように、静かに、一人でなるべくいるように努める。
――正解はわからない。何が正解で、先へ進めるのかわからないまま、彼は関わらない生活をした。
「希逸、学校終わったら空いてる?」
「あー…ごめん、空いてない」
「そっか…じゃあいい!また明日!」
これもこの日と同じ光景。うんざりとした気持ちになりながら、彼は息を吐いて家へと向かった。整理をしなければならない。
紙に書いたことは進まない限りリセットされ続けるだろう。真っ白な紙に書いたものは、眠った後、何も残らない。ああ、ひどくむなしい。
(では、何に記録を残せばいいのか。…覚えることは難しいな)
記憶力はあまりいい方ではない。暗記問題はできるぐらいだが、考えていたことは忘れやすい体質だ。だから覚えようと努めても意味がない。それを知っているから、彼は行わない。今日一日のことを必死に思い出そうとする。
「…じゃあ、何をすればいいんだろう?…あいつの言葉に、空いてるっていえばいいのかな」
仲のいい男子。幼なじみに近い関係で、暇さえあれば一緒にいた記憶さえある人物だ。
あの時の会話に賛同しとけば、変わったのではないかと思う。何を話されるのかは知らないが、聞いてみる価値は――やってみる価値はありそうだ。
よしっ。気合を入れて呟き、布団の中にもぐりこんだ。進むかもしれない、進まないかもしれない。可能性はある。関わらないことで進む可能性もあるのだ。心の中で希望を抱く。忘れないように心に刻み付けるように。自分一人だけがこんな思いをすることに対して理不尽だと思うのだ。自分がそう思っていなくても、いいのかもしれない。
深い微睡みの中に入る。希望が消滅していくのを、少なからず彼は感じていた。
彼は見落としているのだ。まず、幼なじみの少年に対してだ。少年、今崎章に関わることは正解だ。ただ今崎から告げられる言葉にどういう返答をすればよいか、ということになる。
彼は気付かない。どうしても繰り返されるのだと。なぜ繰り返されているのかを、彼は知らない、知ってはならない。――だが、知らなければならないのだ。彼にとって、必要のことになるのだから。
次の今日を迎える。何回目だろう。彼は考えたがすぐにやめた。意味はない、考えたって意味はないだけだ。
同じニュース、同じ会話、同じ日付。何も変哲のない日常が繰り返される。吐き気さえする光景だ。だが慣れなければならない。いつだって、何度だって繰り返されるはずだから。
学校へ向かう。何も変わらない。会話だって、他人の行動だって変らない。苛立ちがこみあげてくる前に、吐き気がする。ああ、泣きたいなあ。ぐっと握り拳に爪を立てる。痛い。耐えなければならなかった。彼には何も残されていない、誰も味方がいない。ずっと一人でいなければならないのだ。それがどれだけ孤独で、辛いことなのか、彼はここ数回目でやっとわかった。一人でやらなければならない。
教室への扉を開ける。なぜかやけに重く感じる。いつも通りのはずなのに。気持ちの問題だろうか。
「おはよー希逸!」
「おはよう」
変わらない会話。苦笑を浮かべる。変わらないことは、次になっていないということだ。悲しくなるが、顔には出さない、出せない。いつも通りに過ごさなければならない。
そしてもうすぐ、今崎が彼に話しかけてくる。――ほら、彼に駆け寄ってきた。
「希逸、学校終わったら空いてる?」
来た。彼は内心でほくそ笑む。この問いに、肯定を返せばいいのだ。
「空いてるよ。どうしたの?」
「えっと、聞いてほしいことがあって…学校では言えないんだ」
「わかった」
会話が、変わった。それだけのことなのに歓喜した。嬉しい、うれしい。自分が行動を起こせば変われるのだと知った。
しかしそれは束の間の幸せ。いつも通りに戻って行ったのだ。彼は顔を覆った。見たくない、現実を見たくない。やめてくれと叫びそうになった。誰も知らないのに、叫べるはずがない。もともと、そんな勇気もないくせに。東屋希逸はここであきらめたくなった。
でも、今崎章との会話が現実を否定してくれている。変えれるのだと、変われるのだと言っている。ありがとう、そう小さく呟いた。
否定してばかりではいけないな。彼は顔を上げた。現実的主義者ではないが、非現実主義者でもない。どちらかと言えば現実的の方が好ましい。だから、この繰り返されるものは非現実染みている。まるで――そう、自分を否定されているようだ。自分だけが繰り返されているという現実が、自分を否定している。
「…大丈夫、これは第一歩なんだ。大丈夫、大丈夫…」
自己暗示をかける。不安が残っている。いやだ、このままは。早く、早く先に進みたい。
彼は自分の肩を抱いて俯いた。少しだけ、嫌な予感もした。
学校が終わり、下校。登下校の道を今崎と歩いている東屋は、朝のことを聞いた。何なのか。彼は早く知りたかった。知らなければならなかった。思わず握り拳を作る。
「で、話って何?」
急かす。焦りを見せずに、無感情に口を開く。今崎は立ち止り、不自然に周りを見渡す。何があるのか、聞かれてはならないことなのか。首を傾げて彼を見る。意を決したように、今崎は言葉を発した。
「好きだ」
「………え?」
予想外の言葉。予想できるものでもなかった。彼と今崎は同性で、友人で。口を開けたまま、彼は固まった。絶句。何もかける言葉が思いつかない。
今崎は俯いて、静かに微笑した。
「こんな話でごめんな?でも伝えたかったんだ。伝えないと壊れそうで…」
この関係が、だろうか。彼は深呼吸をして冷静に分析する。推測はしたものの、何を恐れているのかがわからない。いつも笑っているはずなのに、彼はいつも笑っているはずなのに。
東屋は息をのむ。これは、現実だと。
「…章は、何を恐れているの?何が壊れてしまうの?」
「……俺、」
何かを紡ごうとして、やめた。そしてすがるような視線を東屋に向ける。答えを待っているのだ。この答えで何かが変わるのだろうか。そう深く考えてしまったが、内心で頭を振る。これの答えは、本心を口にしよう。
東屋は自身の制服の裾をつかんで静かに口を開いた。
「ごめん。俺は、友達として君が好きだよ」
これだけは譲れない。変えられないのだ。そう言って東屋は笑った。これでいいのだ。彼は背を向けて歩いていく。
彼は今崎の顔を見ていなかった。悲しそうに、嬉しそうに歪んだ顔は、彼の視界には入らなかった。だから気付かなかった。彼は――
「きいち、だいすきだよ」
背後から振り下ろされる刃に、気付きはしなかった。
目が覚めれば同じ日の朝。彼は顔を覆い、涙を流した。これはダメだ、どうやっても答えを見つけられない。見つけれるはずがない。ここであきらめてしまおうか。
「…ここで、物語は終わりだよ」
そう言ってまた彼は深い眠りに落ちた。
**
今崎章は狂った笑い声をあげながら包丁を振り下ろす。彼の、両親を何度も何度も振り下ろす。暗い明かりをつけてない部屋に、血肉が吹き飛び、返り血を浴びていく。瞳孔を開き、笑う、嗤う。笑って刺す。
ぐちゃぐちゃとした不快な音をたてて、彼は笑った。光をともさない暗い目が細められる。
「ああ、きいちぃ…ダメじゃないか、違う答えを出しちゃあ」
母親の首と体を切り離し、今崎は言った。手についた血をなめとり、立ち上がる。
自分と希逸は絶対に一緒にならなければならない。彼には自分が必要だ。そう今崎は信じている、妄信している。だから、正しい答えを出さないといけないんだよ。
ここは地獄だ。そう言ってまた包丁を母親の腹に向かって振り下ろす。汚い。そう呟いた。そして天井を見る。そして、脳内に彼が、東屋希逸が浮かんだとき、彼に笑みが浮かんだ。
「もう一度、始めようか」
コンテニューしようか。