♯ 01 銀髪のインタープリター
春の麗らかな日差しの下、見渡す限りの草原を一筋の風が駆け抜けた。
それに撫でられた草が一斉にさざめき、奔る風の後を小気味良い音をたてながら追いかける。
その上空では、透けるほど高く晴れた蒼に、白雲が輪郭の曖昧な影を草原の緑に落としながらのんびりと進んでいく。
そんな穏やかな景色の中、そこに半ば(なか)溶け込むように存在するヴェロニカとソニアの姿があった。
「うぁ―…」
歩き始めて一時間弱、黙々と歩いていた二人のうち、背の高い青年、ヴェロニカが唐突に空を仰ぎ、開いた口から意味を成さない言葉を出して立ちどまる。
それに間髪入れず、隣を歩いていたソニアの溜め息が漏れた。大仰に肩を落として、腰まで伸ばした黒髪をなびかせながら振り返る。
「ちょっと、やめてよそれ。気が抜けるでしょ」
「だってさぁ。その地図本当にあってる?」
情けない、と眉根を寄せられながら、ヴェロニカは本日何度目かの言葉を口にする。
それを聞いての彼女の反応は、またもや小さな溜め息だった。
「この心配性。依頼主から直で送られて来たんだから大丈夫だってば、……多分」
手に持つ地図を振りながら空笑いして語尾を濁らせ、彼女は逸らした視線を長身へと向ける。
「それにヴェロニカ、草原入る前に木に道訊いてたじゃない」
「そうだけど……言ってたよりも随分広いんだもん。全然見えてこないし」
今にもへたり込みそうな彼の様子を、ソニアは横目で盗み見る。
スラリと高い背に、使い古した大き目のツナギ。背中にはリュックをひとつ背負っている。あまり外見を気にしないその青年の性分を示すように、頭の後ろでひとつに括った特徴的な灰色の髪からは、短すぎて纏めきれなかったものが多く風に遊ばれている。色素の薄いそれが、陽光に透けてわずかに煌めいた。
「ねぇ、その髪さぁ」
「………ん―?」
呼ばれてふり返る瞳も、髪と同じ淡い色。
後頭部と反対に、長いままの前髪をピンでとめていた。
「また適当に切ったでしょ」
「え、うん。いいでしょこれ」
指摘されてニコリと笑むと、嬉しそうに摘まんでみせる。
「良くない、バラバラすぎる。仕事終わったら切ってあげるね。約束」
「え――なんで、いいよこのままで」
自慢げに弧を描いていた口元が、ソニアの一言でへの字に曲がる。
「そのせいで依頼来なくなったら知らないんだから」
「…………気に入ってるのに」
「なに?」
「何でもないよ……もぅ。あっ」
頭を両腕で覆って隠すようにしていたヴェロニカが、急に声を上げて足を止めた。
愚痴っていたソニアもそれを見て隣に並ぶ。
「見える、ソニア?」
「ええ、見えるわ」
そうヴェロニカが呟く先、二人が視線を上げた彼方、遥かに続く蒼空と草原の間に小さな村が見えていた。
∮
「いや、悪かったな。もっとちゃんとした地図を渡せばよかった」
二人の話を聞いた中年の男が肩を揺すって豪快に笑う。
テーブルを挟んだ向かい側で、ヴェロニカとソニアは苦笑気味に顔を見合わせた。
二人が依頼主に会ったのは半刻ほど前。白茶に統一された民家の土壁が美しいこの村に到着し、村の入り口で出迎えを受けて、そのまま彼の家へ招かれた。
家の壁と同様に、この村ではすべてが土づくりらしく、家の中に置かれた備え付きの調度品はすべて白茶色で統一されている。
窓から見える緑と空の蒼が、まるで白茶の額に切り取られたように収まって、そのコントラストが一層鮮やかで美しかった。
「自己紹介が遅れました。私が今回、依頼受者のソニアです。で、こっちが〝インタープリター〟のヴェロニカ」
ソニアの紹介に合わせて、隣の席で灰色の頭が下がる。
男が笑った。二人の顔を順に見てから、興味深げな視線をヴェロニカに向ける。
「カリスだ、宜しくな。…それにしても、若いインタープリターがいると噂で聞いていたが、本当だったんだな。驚いた」
インタープリターとは樹木を中心とした植物全般の専門家兼医療を施す者の事である。
予想以上だ、と苦笑するカリスの言葉を受けて、ソニアは小さく笑むと自分の事のように誇らしげな顔をした。
「実力は保証します」
彼が驚くのも無理はない、ヴェロニカは今年で十七になったばかり。
もとより、インタープリターとして活動するためには、植物と意思の疎通が行える〝グラスプ(理解者)〟であることが前提となる。
グラスプは、人と人が話をするように植物と会話が出来る人物のことを指すが、彼らの能力は遺伝的に持ち合わせているものがほとんどで、人口的にもそう多くはない。
そのため、グラスプの無い者の中には経験でもってそれを習得する者もいるが、それは本当に一握りだ。何故ならいくら努力をしても確実に得られるとは限らない上、グラスプになったとしてもインタープリターとして名乗るには程遠い。その資格を得るには、その上さらに土壌や病理、気象や地理など、自然界において多種多様な知識を得ていなくてならない。血の滲む様な努力を重ね、正に森羅万象に通じる知識を習得して、経験を積み初めて一人前として名乗ることが出来た。
逆に、その膨大な知識を得ていても、グラスプの力を持たない者がいる。その様な者は植物の中でも高度な専門性を求められる樹木医として活動をしている。ただ彼らが行えるのは、あくまで樹木や草類の生理的な問題解決のみ。
インタープリターはその知識にグラスプとしての力が加味されるため、植物の精神面にも向き合える数少ない専門家として希少な存在だった。
そして樹木医になるために必要とされる膨大な知識を得るために費やされる時間が長いことから、インタープリターも一様に平均年齢が高い。
そんな中で、ヴェロニカの十七歳は本当に破格なのだ。
ただ――
ソニアはふと視線を移す。
「………ヴェロニカ、何してるの」
「え……、あっ、ごめん!」
依頼主を目の前にして、いつの間にか席を立っていた彼が、二人の視線を受けて顔を上げた。
「呼ばれて話ししてたら、つい夢中になって。綺麗に咲いてますね、この子」
「おぅ、ありがとな」
部屋の隅に置かれた鉢に向かって楽しげに話をしていたのを、ソニアの声に気付いて、あたふたしながら戻ってくる。
「………もぅ」
才能が有るのも、腕が良いのも、ちゃんと認めているのだ。
凄い存在であることも理解している。
――ただ一つ、その極度に植物馬鹿な部分を除いて。
会話が出来るのだから、人並み以上に思い入れるのは理解できるし、彼のそんな処をソニアも気に入っている。だが、依頼主同席の場においても声が掛かれば植物が第一。いくら言っても治らないその性格が、仕事となると少々悩みの種だった。
重く溜め息をついたソニアに向かって謝るヴェロニカ。その2人の様子を黙って見ていたカリスがまた大声を出して笑いだすと、その声に灰色の瞳が視線を移した。
「…すみません」
「いやいや、気にしないさ。そういうのは職業病だ。それがインタープリターの特権でもあるしな」
言われてほっとした顔になり、同時に今度は苦く笑いを浮かべる。
「すみません。…それだけが取り柄で」
「その唯一の『取り柄』に、コッチは迷惑掛けられてるけどね」
「ごめんってば。……じ、じゃあ、これ以上怒られる前に本題に入ろう」
そう言って傍らに置いてあったリュックを引き寄せると、ヴェロニカは中から依頼書を取り出した。一度自分で目を通してから、その場の全員に見えるように紙を反す。
切り替えの早い彼の行動を合図に、ソニアも彼へ目を向けた。
全員の視線が集まったのを確認して、ヴェロニカは口を開く。
「今回の依頼、僕が責任をもってお受けします」
ようやく訪れた本来の目的に話が変わる。
「なんですが、戴いた依頼内容を読ませてもらったら限り〝囀り桜〟の名前が書かれいたのみで詳細が書かれてませんでした。具体的にはどういう問題が?」
「それがな…」
正面からまっすぐに向けられる灰色の双眸に、カリスは弛めていた表情を引き締め、困ったように腕を組んだ。
彼の寄りかかった椅子が体重を受けてギシリと鳴るのが、妙に大きく部屋にいる全員の耳に届く。
「…咲かないんだ」
「咲かない。花が、この季節になってですか?」
「あぁ」
小さな間を作った後で、眉間にしわを寄せて彼は言う。
「この村に昔からある唯一の桜でな、俺がガキの頃からある結構大きなやつだ。元々遅咲きの桜だったんだが、この時期になって今年は一輪も咲かない。もう四月も終わろうかって時分だ。さすがにおかしいだろうっていう事になって、今回俺が村を代表して依頼した」
カリスの言にヴェロニカは首を傾げた。
その表情は、つい先程まで叱られていた彼とは思えない程、真摯なものへと変わっている。
「その樹はどこにあるんですか?」
「この家の裏側だ、見に行くか?」
季節で言えばまだ春でも、囀り桜の見頃は通常三月下旬。遅咲きである事を差し引いても、これは明らかに遅れている。
カリスの言葉に、はい、とヴェロニカは頷いた。
「是非、陽のあるうちに」
「それじゃあ、案内しよう」
「ありがとうございます。行こうソニア」
「うん」
依頼書を仕舞いながら、柔らかく人好きのする笑みを浮かべ、ヴェロニカが立ち上がる。
手早く髪を縛り直して気合いを入れると、彼は傍らのリュックを引き寄せて背負った。