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に。

 ちゃぷり。ぴちゃり。

 地下鉄の使われなくなった線路には、ところどころ水溜りができている。歩くたびに水音が鳴った。少年は、少女から譲り受けた懐中電灯で道中を照らしながら、一歩一歩着実に進んでいく。

 外の陽の光は、もはや一つも届いておらず、ふたりの視界は、ぼんやりと揺らめく懐中電灯の頼りない灯のみとなってしまった。電池が切れてしまえば、一巻の終わり。一切の視界を奪われてしまう。


「この先が、本当に街の外に繋がっているなら――」

「方向はどちらでも、ただまっすぐに進めばいい」


 地下鉄の道のりは、単純明快だった。

 もともと郊外の居住区だったセントレナ。付近の地下鉄線も分岐などは一切ない。どちらか片側が塞がれているなんてことを考えない限りは、歩き続ければ出られることは確実だった。

 懐中電灯に照らし出された視界の中で、少年の瞳は爛々とした輝きを取り戻しつつあった。足取りも少しずつ早くなっていく。

 こんな悪い冗談みたいな街から、外に出ることができれば、もう怯えながら過ごすだけの日々もおさらばだ。少年の頭の中は、この街を出た先のことでいっぱいになっていた。


「ま、待って……、ちょっと休憩しない?」


 あまりにも先を急ぐあまり、ふたりの距離が離れてしまっていた。懐中電灯の明かりで見える範囲からも外れてしまって、少女の姿は闇に溶けてしまっている。


「ご、ごめんなさい……」


「真っ暗……、怖くなかった?」

「うーうん、あたしは慣れているから。あと半分くらいかな……」


 荒くなった息を整えながら、少女はその場に座り込んだ。少年もその場にしゃがみ込んで懐中電灯を地面に置いて、ちょうど自分たちを照らす方向に置いた。


「……、立ち止まってくれるなんて優しいね」

「お姉ちゃんは、出口を教えてくれたから」


「そっか――」


「ぼく、お姉ちゃんに会うまでは、死にたかったんだ」

「えっ?」


「だって、みんな怯えてばかりで。ぼくは外に出してもらえなかったし。ずっと生きていても、同じことの繰り返しだったんだ。だから死んでやろうと思って、――」


 少年が、年齢にそぐわないようなことを言うので、少女はまごついた。


「でも……死神に会った途端、ものすごく怖くなった。死にたいなんて、そんな勇気、ぼくにはなかったんだ。でも、この街から出られるって分かった今は、すごく生きたい」


 こんな街に押し込められたら誰だってこうなってしまうのか。この少年は、どこか自分と似ている。そう感じた少女は、優しげで、でもどこか悲しみに染まったような視線を少年に投げかけるのだった。



「……。私も似ているかも知れない。私も死にたかったから」

「えっ……」



 思ってもみない内容の言葉が聞こえて、思わず少女の顔を見る。目と目が合ってしまって、慌てて明後日の方向に目を反らす。


「何で目ぇ反らすのよ」

「う、うん……」


「君と同じ理由だよ。私が死にたかったのは。みんな濁った眼をして、生きることを忘れてしまっていたし、私もそれに飲まれて忘れていたんだと思う」


「今のうちに言っておくね。私に付き合ってくれてありがとう」


「まだ気が早いよっ。一緒にこの街を出るんだろっ!? お礼はそれからだっ!」


 飛び跳ねるように勢いよく立ち上がり、少女の方に向かってにかっと笑いかけた。その笑顔が鏡に映るようにして、少女もにっこりと笑みを浮かべる。


「いいね、それ! そんな人生、生きたくなってきたっ!」


 差し伸べられた手を少女は握りしめた。

 ふたりは再び一本の懐中電灯の灯を頼りに、暗く湿った地下鉄の線路を辿っていく。今度は離れないようにと握りしめた手のひらだったが、差し伸べた少年側が耐えられなくなった。


「あ、あの……、お姉ちゃん。ずっと手繋いだままなんですか」


 すると悪戯っぽい少女の性格に火が点いた。さらにがっちりと、振りほどけないくらいに少年の手を握りしめて来たのだ。


「手を差し伸べてきたのは君だろ? じゃあ、私から離さない限り、拒否権は君にはないなー」


 めちゃくちゃな理屈だ。たじたじになりながらも、つないだ手を無理やり解くわけにもいかず。変な汗が掌の皮膚から湧き出るのを感じる。だんまりと口をつぐんだままで少年は、あまりにもの決まり悪さにどうにかなってしまいそうだった。


「緊張してる? 私の手で?」

「ち、違うっ」


「私もね、誰かの手を握れるとか考えたことなかったから。とっても嬉しくて――ねえ、だんまりもつまらないから話していいかな?」

「い、いいけど……」


「好きな本とか、漫画は?」


 ふたりの会話は、無難な話題から始まった。


「いろいろだよ。外に出てはいけないとお母さんとお父さんに言われていたから、退屈すぎてなんでも読んでしまった」


「特に好きなものとかないの?」

「……どれを読んでも、自分よりとんでもなく大きな世界に思えて、……よく分からない」


「どれが好きだとか、それよりも自分が生きている世界が余計につまらなく思えて、ずっと戻りたくなくなる。たとえ、そこで怪獣があばれ回っていようが……」

「でも、私たちを襲う怪物なら、ここにだっているじゃない?」

「そうだけど――」


「私は、平和な学園作品が好きかな。自分と同じ年頃の少年少女が、微分積分で悩んでいるようなやつ」

「びぶんせきぶん?」


「そ! とっても難しくて、ちっともわからないから、怖いんだって。羨ましいなあ――、私もそんな平和なものに怯えていたい」

「じゃあ、ここから出た先にそんなものがあるといいね」


 ふたりはもう一度、約束を交わしあった。この街からふたりで出ようと。手をつないだ少年の背中越しの声。それが自分を信じているということが。


 少女には、たまらなく嬉しくて、悲しかった。

 



 ――あれから、しばらく歩いたころだった。ちょうど休憩したところから、距離を二倍にしたくらいで。地下鉄の線路の上を数時間ほど歩いたぐらいのところ。急に、少女の足取りが重たくなって、少年は後ろに足を引っ張られる。そして立ち止まってしまった。


「どうしたの? お姉ちゃん」

「……」


 振り返って、ライトを当てると、少女の顔を俯けて小刻みに肩を揺らしていた。


「お姉ちゃん……?」

「もう少しだけ、ここで休まない?」


「……疲れちゃった? でも、もう少しだよね?」


 声に心配の色が混じっている。少年の心は純真だった。


「ごめんなさい。もう少しだけ、生きたかったんだけど――、ありがとう。私を信じてくれて」


 少女は少年と目を合わさずに、乱暴に握っていた手を振りほどいて、懐中電灯を奪い、少しだけ走って、これから向かおうとしている先に向けて光を放った。


「見て。……私は、君にひどいことをしたの」


 光に照らし出されたのは、崖だった。深淵。底が真っ黒に塗りつぶされていて、何も見えなくなっている。対岸はとても飛び越えられるような距離にはない。地下鉄は隣町に繋がる道半ばで分断されていたのだ。


「ど、どういうことだよ……。これ……は……」


「……私はね、生きたいと思っていたの。でもこの街から出ることはどうやっても叶わなくて。――最初にこの崖を見て絶望したのは私なんだ。それから奇妙な癖が私についてしまった」


「……この崖を見たことを忘れて、地下鉄の入り口からここまでを何度も行き来する。私の人生は、君と同じ。生きていても楽しくなかった。でも、この崖の存在を忘れて、自分を騙しているうちは、楽しかった。自分がやっと、生きている気がして」


 少女の背後で、小石が深淵に吸い込まれていった。少女はそれに習うように、ずるりずるりと後ずさりをしていく。少年は、目の前でつらつらと語られる残酷すぎる真実に圧倒されるしかなく、目を見開いて立ち尽くすことしかできない。


「でも、孤独だったわ。たったひとりで自分を騙し続けることなんて。そのうちそれも持たなくなって、道中で我に返ってたまらなく空しくなった。それでも私は、こんな生き方しか知らなくて、何度も生まれて、ここで何度も死んだの……」


「ごめんなさい。君をこんな最低なひとり遊びに付き合わせてしまった。でも楽しかった、初めてのひとりじゃない人生だったから」


 いよいよ崖に堕ちる一歩手前まで、少女は来てしまった。そこで全てを受け入れるかのように、目をつむり両腕を大きく広げた。吹きあげられる風にさらわれて、長い黒髪と着古したワンピースがそよいでいた。


「さあ、今なら後悔なく死ねる気がする」


「――何やってるの? はやく私を崖の底に突き落してよ。よくも騙したな、この野郎って」


 少年は拳を握りしめ、がたがたと震わせた。


(きっとその拳は、殴りかかって私を谷底へと葬る。――それも中々にいい、死に方だわ。私は死にたい。だけど、あんな気持ち悪い怪物に襲われて死ぬのは嫌。だから、私は、私の望むやり方で、人生を終わらせたい)


 そして、ついに少年は、少女に向かって飛びかかり、その肩口を抱き寄せてぽっかりと口を開ける崖とは真逆の方向へと押し倒した。当惑する少女の四肢を抑えつけ、動きを奪う。


「……ズルい、ズルいよっ!」


「ぼくはお姉ちゃんに騙されて、お姉ちゃんを突き落したって、またぼくはひとりじゃないかっ! なんでぼくが、嘘でも希望をくれた人を殺さなきゃいけないんだ! そんなことして、ぼくはまたひとりになって、怯えて暮らすのかよ! そんなの、悲しすぎるじゃないか! ひとりで勝手に納得して死のうとするなんて、ズルすぎるよ!」


 当惑する少女の胸元に、温かい少年の涙の滴が落ちた。それに呼応するように、少女も赤子のように声を上げてむせび泣くのだった。


「そ、そんなこと言わないでよっ。また……、また、死にたくなくなったじゃない! もっと生きたくなってしまったじゃないっ!」


 今度は少女が、少年の腕を手繰り寄せるようにして、引きよせてそのままぎゅうっときつく抱きしめる。体温と鼓動と匂いと。そのそれぞれを確かめるようにして。少女は少年の肩に顎をくっつけて、すりすりと。まるで子犬のようだ。


 ふと、ふたりの身体に挟まれたトランジスタラジオが、かちりと音を鳴らした。どうやら、電源ボタンが押されてしまったらしい。破れたスピーカーからノイズが流れ始める。地下鉄のトンネルの奥深くまで、届くような電波はない。ざっざざっざと砂嵐のノイズ音が流れるのみだ。


 だが、それはやがて転調を迎えた。

 電子音のようなものが混ざり始めて、ぴー、きゅいーんだとか、ぶつりぶつりだとか。不協和音のような戦慄を奏でていて、出鱈目なタイミングで入る電子音。不気味だ。その音は、絶えず大きくなり続けている。


 ガガ。ザッザ。ピー、キュイーン、ザアザ、ザッザ……。


 ザザザ、ピー。ギュインギュイン。パー、ザザザ、ジー、ガガ……。


 時々地下鉄のトンネルの中に響く、ぴちょん、ぴちょんという水音と相まって不気味だ。ノイズとそれに混ざる電子音は、まるで何かがこちらに近づいて来るのを知らせるように、その大きさを増していった。


「な、なに……?」


 ふたりは当惑の色を隠せない。周りは、闇のベールに包まれて、懐中電灯に照らされたわずかな範囲しか確認ができない。その視界の悪さが、ふたりの心臓をまさぐるのだった。

 やがて、地響きと。コンクリートが崩れ落ちる音と。べちゃりべちゃりと湿った足音。冗談のような悪夢は、ぼんやりとした灯の中でうごめいていた。


 血染めの包帯に包まれた身体。

 不整脈のように、不安定な拍動を続ける、剥き出しの心臓。下半身に付いた、粘液を垂らす唇。筋肉組織が丸裸になってしまった四肢は、おびただしい量の血を滴らせて、死肉をぐしゃりべちゃりと音を立てて崩れさせながら、身体を支えている。


 のそりのそりとこちらに近づき、悲鳴のような呻き声を上げる。

 べちゃりべちゃり。ぐしゃりぐしゃり。


 明るい部屋の中でそいつに出会ったときも、身がすくんだものだが、ぼんやりとした円錐状に照らされた範囲しか見えない地下の鬱屈した世界で遭遇したそれは、まざまざとその奇怪さをふたりに見せつけるのであった。


 まるで、その怪物自身が、死の象徴であるかのように。


 ふたりは、抱き寄せあっていた互いの身体をほどき、うわごとを呟きながら後ずさりをする。しかし、ふたりの背後には、底の見えない深淵がぽっかと口を開けている。もう、余裕は残されていない。けれど腰が抜けてしまっている。


 真っ暗な閉塞された世界で、死神と会う。その状況が、ふたりの精神力を大きく削いでいた。


 動かない! 身体が動かない!


 少年は必死に掌に力を込める。脚に力を込めて、踏ん張って立ち上がろうとする。でも動かない。まるで歩き方を知らない、いや、筋肉を動かす神経が馬鹿になってしまったようだ。びくともしない。目の前で、一歩一歩、死神が近づいてきているというのに。


 血の雨をぐしょり、ぐしょりと降らせながら。

 四肢の先についた鋭利な鉤爪のついた手を地面に食い込ませながら。

 しきりに下半身についた唇から、棘の生えた舌を出して、舌なめずりをしながら。


 そいつは近づいて来る。


 ザザザザ、ビビ。ピー、ガガガガ。


 そいつが距離を詰める度にノイズとそれに混じる奇妙なノイズが、けたたましく聴覚世界を支配する。耳にこびりつく不協和音と、腐った死肉が崩れる音。地響き。呻き声。網膜に焼き付く、赤黒くうごめく奇怪なその姿。


 嫌だ! 嫌だ! 来るなっ! 来るなっ!


 少年は眼力を込めて訴えたが、もとより眼球を持たない死神がそれを知覚するわけはなく。怯えて何もできない少年の前で――


 棘のついた舌は、少女の腹を突き刺した。



「う……そ……」


 こんなときになってようやく身体が動いた。棘のついた舌は、返しになって、少女の身体から抜かれた際に大量の血肉を肉体から、削ぎ落した。血肉は、コンクリート製の灰色の地面を真っ赤に染め上げて、ぐちょりと湿った音を立てて転がる。

 少年の目の前には、腹に大穴を開けて力なく横たわる少女の変わり果てた姿があった。 


「……、嘘だ……。嘘だ……」


 少年の頬を涙が伝う。

 自分にたったひと時、生きたいと思わせてくれた人間は、目の前で屍になった。他でもない、自分の無力さのせいで。そして、今度は自分に向けて、その凶器が振り下ろされようとしている。


 嫌だ! 嫌だ!


「こんな死に方、絶対に嫌だぁあああっ!」


 少年は、その場に転がっていた、壊れた配管の鉄パイプを握りしめて、自分に向かって伸びてくる赤黒い舌に勢いよく振り下ろした。ぎぃぁあと叫び声をあげて、死神は怯みを見せた。

 舌が引っ込んだ。少年は今度は、訳の分からない唸り声を上げて、胴体の中心部でうごめく、不安定な拍動を続ける剥き出しの心臓に殴りかかった。

 心臓は、水風船のように裂けて、赤黒い大量の血を飛び散らせた。

 

 死神は、もがき苦しみながら、やがて動きを止めた。

 鉄パイプには、死神の流した赤黒い血と肉がこびりついていた。


 崩れ落ちる死神の身体を前に、少年も身体を崩れ落ちさせる。

 コンクリート製の灰色の地面に、少女の血だまりができていたが、少年は目を背けずにはいられなかった。


「……、お姉ちゃん……ごめんなさい。あのとき、お姉ちゃんを押していれば……、う、ううう、うあああああっ」


 大声を上げて泣くその声が、地下鉄のトンネルの闇の中に響いた。

 周波数を変えて何度も何度も。



*****


「死神の街と呼ばれるセントリアですが、街には未だ死神と呼ばれる怪物が闊歩し、住民を襲っております。しかし、政府は一向に、隔離以外の対策を取ろうとはしません」


 打ち捨てられた地下鉄の入り口の階段。かろうじて電波を受信できるこの場所で、トランジスタラジオに聞き入る少年がひとり。


 少年は、変わらないニュースにため息をひとつつくと、懐中電灯と鉄パイプを手に、線路に降りて、その先の闇に溶けていく。


 その先の結末を知りながら、忘れたふりをして。

 自分を騙して生き続ける道を、少年も選んだのであった。


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