プロローグ
その夜、東京は雪が舞っていた。
雪は、時間に縛られない人にとってとても美しく神秘的なかもしれないが、東京で普通に暮らしている人々にとっては非常にやっかいなものだ。
電車は止まる、道は大渋滞、人は転んで怪我をする。案の定この日も都内を走る電車に遅延や運転見合わせが相次いでいた。
「やっぱり、止まったか。」
地下鉄丸ノ内線の車内で、真田は心のなかでつぶやいた。新大塚にもうすぐ着く手前で電車はゆっくり止まったのだ。
「雪で徐行運転をしているため折り返し列車が遅れています。しばらくお待ち下さい」
車掌のアナウンスが流れると周りの乗客が一斉にスマホを激しくいじりだした。真田も急いで鞄からスマホを取り出す。しかしそれは、交通情報や天気予報を確認するというわけではなく、ただ時間を見たかっただけだ。
「間に合うかなぁ」と真田は若干、雪を恨みながら呟く。別に絶対行かなくてはならない用でもなかったが、つまらない約束をしてしまっていた。目的の池袋まであと一駅だというのに…。
「ああ、こんなことならやっぱり断ればよかったな…」自嘲気味に首を横に振った。一時間ほど前、マキという女性からチョコをあげるから池袋に来てと言われ、真田は断れず向かうことにしたのだ。ただマキは、彼にとって恋人や友達と言う訳でない。月に2回ほど通っているお店の女の子、俗に言うキャバ嬢だったが…。
しばらくすると電車はゆっくり動き出した。真田はホッとしてスマホを鞄にしまう。ふと、彼は電車の中をゆっくりと見渡した。この天気のせいで電車内はいつもより混み合っていて、みんな顔が疲れ切っていた。
なにか自分だけがキャバクラへ楽しみにいくようで若干申し訳にような気になったが、こちらとしても無理やり呼ばれたようなものだと自分を納得させた。いやむしろこのバレンタインディという国民的行事にキャバ嬢からしかチョコを貰えない自分はなんてかわいそうなんだろうとさえ思った。
去年まではちゃんと彼女がいて、女友達もそれなりにいて会社の女子社員の配給制チョコを全部足せば、それなりに俺はもててると自慢できる数が揃ったものだ。しかし今年38になり、結婚に対しはっきりしない真田は彼女に振られ、女友達も次々と結婚してしまい、気軽に飲みにも誘えなくなり疎遠になった。
ついに今年のバレンタインは、女子社員からの配給制チョコだけとなってしまった。さらには仕事も忙しくなり、毎週のように飲みに行っていた同僚や友達からも誘いはグンと減り、いつの間にか真田は孤独のどん底へ落ちてしまったように感じていた。そんなおり去年の年末に、ふと立ち寄ったのがマキいるキャバクラだった。はまるというほど楽しいわけではなかったが、マキの程よい適当すぎる営業にダラダラと通ってしまっている。
「池袋〜池袋〜終点です。電車が遅れましてご迷惑をおかけしました。」
聞きなれたアナウンスが流れ、乗客が我先にと降りていく。真田も負けじと人をかき分けながらホームへと出た。
丸ノ内線の先頭車両よりのホームから階段をあがり、改札をでて池袋の東口へと向かう。駅構内にも人は溢れ、東口のエスカレーター前にでるのも結構な時間がかかった。
池袋駅は新宿駅や東京駅とは違いどこか古びた駅だ。西武池袋線も直通していて、埼玉の田舎者が集まる街というありがたくない称号ももっている。
「しかしほんと今日は人が多いな。」
東口のエスカレーターを駆け足で登りながら真田はつぶやかずにはいられなかった。人混みの苦手な真田にとっては、実に困る状態だった。
地上に出ると、みんな傘をさしていてはっきりと雪が見えるくらい降っていた。真田は折りたたみ傘を急いでさすと、大手電化製品のやかましい宣伝をききながら、バス停の横を通りサンシャイン通りを早足で向かう。なんとなく慣れた道順だがここを通るたび、今日こそ最後にしようと誓うのだが、その願いはまだ叶えられていなかった。
そこから50mほど進むと目的の店「エレメント」がある。真田は店の前に立っていたボーイに、軽く挨拶をして中に入る。最初に来た時は、大層緊張したものだが慣れると、なんてことはない。
「こんばんは、マキさんをお願いします」
と一言フレーズだけで席に案内され準備が整うので実に簡単だ。
真田はこのボーイという人種がとても苦手だった。ニヤニヤしながら「いい娘はいりましたよ」とかのお決まりのセリフを延々聞かされるのもそうだし、何よりキャバにこないと若い女の子と遊べないんですと自己申告しているのを見透かせれてるような気になってしまうからだ。
事実、真田の歳で若くて綺麗な女性とお知り合いになって遊ぶのはかなり至難の技でたまにいそいそと通ってきてしまうのだが、それでも小さいプライドはなんとなく傷つき、若干後ろめたささえ感じてしまう。真田はキャバに行きたいという感情は実は自分が若い頃に戻りたいんではないかと感じることがある。二十歳の頃はハタチの女の子に話したり口説いたりするのは普通だからだと思うからだが。
「こんばんは〜真田さん!来てくれてありがとう!嬉しい」
その苦手なボーイに案内され無表情に席につくと、いつもの嘘くさいフレーズとともにマキは現れた。手にはgodivaと書かれた手提げを持っている。
栗色の明るめのロングヘアでスタイルは普通ちょっと細め、顔は整っているが可愛いというよりは綺麗という方が近いかもしれない。ただ、スッピンを見たことがないので確かなことは言えない。ただ、さすがハタチ!という綺麗な肌をしていて、昨今の真田の周りにはあまりいないタイプの女性だった。
マキはニコニコしながら、水色のドレス姿を見せつけるように真田の横にちょこんと座った。
「どうも。雪の中きたよ!チョコに会いに!」
おそらく、買ったばかりであろう見慣れないドレスを無視して真田は冗談ぽくいうと、マキは口を尖らせて
「チョコじゃないでしょ?!私にでしょう?新しいドレスを着たあーたーしーに!」
と、ことさらドレスを自慢げに見せびらかしながら言った。
マキの完全に作られた笑顔でも、今の真田には大層な癒しになっていると思った。彼女の喋り方は、悪く言うとすこしバカっぽいがまたそれが気を使わず楽で可愛いとも思える。
マキはいつもの「寂しかった」、「会いたかった」口撃のあとチョコをすっと渡してきた。
「はい。本命風チョコですよん!」と真田の腕をくみながら言う。
「キャバ嬢が風をつけるな!風を!」
と、手をほどきながら思わず突っ込んでしまった。
「相変わらず私には厳しいですねん」
「厳しい?厳しい奴がこんな雪の夜に、チョコを貰うためだけにキャバにくるかよ!」
「まぁまぁ、気にしない、気にしない」
マキの変な喋り方はいつものことだが、その綺麗な顔でおとぼけキャラはなかなか気に入っていた。思えば何故、この子を指名したのかはっきりとはわからない。元々真田は、この手の店にきても指名することはほとんどなかった。ただ楽しく飲めればいい…というのが彼のスタンスだったからだ。最初になにか感じるものがあったのかもしれないが、今はあまりその時の記憶がない。
その後もマキの適当すぎる接客をしばらく楽しんでいたが、やがて指名が被ったのか「ごめんね〜ちょっと旅にいってくるね〜すぐ帰ってくるから〜」と席をたった。真田は、「はいはい。当分帰ってこなくていいから〜」と冗談でかえすと、マキは手をふりながら別の席へ行ってしまった。
真田は清々した風をよそおい、カバンからタバコを取り出し火をつけた。
「ふう。」マキがいなくなると、しばし一人になった。ふと周りを見渡すと、いい歳したおじさん達が目をキララキラさせながら、人によってはギラギラさせて頑張ってキャバ嬢と話している。真田は、心の中でこの人たちの仲間にはなりたくないと本気で思った。だが、片足は完全に突っ込んでいるのは間違えない。
「この中で、本当に相思相愛っているんだろうかな。」
「いるんじゃない?」
ふと言った一言に急に答えられ、真田はタバコを落としてしまった。慌ててタバコを拾い顔を見上げるとそこにはショートカットの細身の美しい女性が立っていた。
「リカです。よろしくお願いしますね。」
「あ、よろしく。びっくりしたなぁ。気配がないんだから」
「フフフ。ごめんなさいね。」
ヘルプできたリカは口に手を当て上品に笑った。マキとは正反対の女性だ。
「で、今の独り言は…お客さんは、マキさんと相思相愛になりたいの?」
リカがそう聞くと、真田は首を大きく振った。これは本心だ。
「いやいや、そうじゃない。そんなわけない。ただ、ここに来ているお客たちを見ていてふとそう思っただけかな。」
「ふふふ。なるほどね」
真田は彼女の答えに少しホッとすると話を続けた。
「この手のお店にくると最初は、可愛いな、美人だな、面白いなから初まって、仲良くなって、好きになって、引き延ばされて、玉砕する。」
「フフフ。」
リカは静かに笑う。彼女だってキャバ嬢だ。こんなくだりは十分すぎるほど知っているだろう。
真田は、タバコを消しながら話を続けた。
「でもわずかにキャバ嬢と付き合えるお客もいるでしょう?」
「いるでしょうね。いや、私の立場ならいるって答えるのが正解かな?」
「はは。間違えないね。だから今、まさにここの店の中にもいるのかなっと思ったんだよ」
真田は、ソファにもたれかかり呟いた。いる。。。のは知っている。あったことはないが。ただ自分に関係のある話とは到底思えなかった
リカは無言で、真田のグラスを取り氷をいれてウィスキーの水割りを作り始めた。なれた手つきで、ウィスキーを注ぎ水を足す。常識ハズレのめちゃくちゃ濃いウィスキーの水割りかと思ったら、かなり薄めで作っている。すこし意外だった。彼女を改めてみるととても綺麗だが歳は他の娘と比べると決して若くないと思った。多分、25くらいだろうか。
「あ、お名前なんていうんですか?」リカがふと真田に質問した。
「真田っていいます。真田幸村の真田です。」
「え?あ、真田さんか」
真田の名前を聞いてリカの動きが一瞬止まった。
「どうしたの?なんか私の名前、変でした?」と真田が尋ねると
「いえ、なんでもないです。すいません。」
と、リカはそれっきり黙ってしまった。真田もなんとなく話を続けるタイミングを逃し彼女が話さなくなった理由を案じた。なんか怒らせることいったかなぁとも考えたが自己紹介しただけだ。まさか、戦国時代の真田家に恨みでもあるんだろうかとバカなことを考えたが、あるはずもない。仇とかならおそらく今日の帰り道に襲われるだろうがそれはそれで話のネタには最高だ。するとしばらく下を見ていたリカが急に顔を上げた。
「あの…真田さん。私の友達の話をしましょうか?私の友達もキャバ嬢だったんですけど、一人のお客さんと結ばれる寸前までいったんですよ。しかもお相手はかなりの年上の方でね。」
「お、それはリアルで面白そう…。でもよくある都市伝説的なやつっぽいな。」
「あは。それはそうかも。でもすごく大冒険も含まれてますから余計にね、そう思っちゃうかも。」
「リカさん、チェンジです!」
急に真田の苦手なボーイの声がしてリカが席をたつ時間がきた。ヘルプなのでおそらく、マキが戻ってくるのだろう。「まったく、これだから。」真田はとっさに腕をあげブーイングをしたい衝動に駆られた。これから最高に面白く、興味深く、参考になる話がきけるというのに。。。リカはじっと自分を不思議な表情で見つめながらゆっくりと立ち上がった。
その時ふと彼女がしている時計に目が止まった。ドレスなのにすごくカジュアルな時計だったからだ。シンプルでどちらかというと男物の時計に見える。まわりの娘はやれカルティエだのなんだのとブランド物の時計をしているので違和感を覚えた。
しかも、真田はその時計に見覚えがあった。だが。。思いだせない。でも絶対に見覚えのある時計だった。彼は何故だかわからないが、このリカのことを気になっていた。女としてどうこうではないが何か興味が湧いたのだ。
ふとリカを見上げると、その顔は微笑みに変わっていた。
「ごめんね〜待った?!寂しかった!?」
少ししてマキが変わらないハイテンションで席に戻ってきた。ある意味こいつはすごいなと真田は感心してしまう。とても素でやってるとは思えず、だとしたらこれは演技ということになる。疲れているだろうにいつも元気で明るい彼女を見ているとある意味尊敬してしまう。真田にはとても無理な芸当だった。よくキャバ嬢は楽に稼げていいなという人もいるが真田はとてもそうは思えなかった。加齢臭や歯槽膿漏の香りと戦い、日夜メールや電話をかけてくるおじさんたちをいなし、それでも好きだと嘘を言い、店に来させなくてはならないこの職業は真田にとってはとてもやっていけない仕事の一つだ。もちろん彼がキャバ嬢になれる確率は0%だが。
「なぁなぁ、さっきのリカさんって最近入ったのか?」
真田は、とりあえずマキに聞いてみた。あまり指名した嬢にするのは適切な質問ではないが、マキならきっと気にしないだろうと思ったからだ。
「リカ?ああ、さっきのヘルプの娘ね。確か。。。今日からかな。」
「そうか。。」
「なになに?真田さん、乗り換えですのん!?早くない?」
「いや。ちょっと気になることいってたから」
真田は、マキに先ほどの話をした。マキは恋愛の。。しかもキャバ嬢の恋愛ネタということで飛びついた。
「しかもだ。俺の名前を聞いてから急にそんなこと言うからさ。ちょっと気になってね」
真田はまたタバコを手に取った。すばやくマキがライターで火をつける。と、
「あーーーーーーーー!」
急にマキが声を上げた。店中に響きわたる最高の大声だ。真田は恐る恐る周りを見渡したがみんなこちらをちらっとみている。真田本人はなにも悪いことをしていないのだがなんとなく頭を下げた。
「マキさんよー。。」真田はすぐさまマキに文句を言おうとしたが、マキに急に抱き寄せられ「え?」となってしまった。マキの香水の香りがいつもより強く感じた。顔にマキの髪が当たってすこしこそばゆかったが嫌な気はしない。
真田は、顔を赤らめながら「おい!?どうしたんだ」というのが精一杯だった。するとマキはさっきまでの声と違う小声で「真田さん、相談したいことがあるんだけど…」と呟いた。「は?」真田は意味がわからずただただ動けない。
「アフターいこうよ。体調悪いって11時に終わらせるから」
マキはそう言うとボーイを呼び、真田が会計待ちであることを告げた。