秋山実乃里:第三話 笑顔で落とす
隣の席からペンが紙を走る音が聞こえてくる。淡々とした音で、聞いている者を睡眠の世界へと誘ってくれる睡魔の誘惑だ。
抗うためには行動を起こさねばならない。何かを変えるためには、行動が必要なのだ。
「今、自習中だろう?」
「しっ、うるさい」
自習中だと言うのにこの羽津学園とやらは一切騒いでいない。俺が以前いた学園では自習中は休み時間だと言わんばかりに騒いでいた。今ではいい思い出だ。
「秋山何してんだ」
「小説書いてる」
「小説かぁ……ラノベって奴か?」
「違うから」
親の仇でも見るような目で見られた、似たもんだと思うんだが……何故だろう。
すごく怒っているのかしらと思ったらそうでもないらしい。再び彼女は白紙にペンを走らせて微笑みを湛えたりしている。うん、怒ってはいないようだ。
「タイトルはなんだ?」
「教えない」
普段は無表情なのに、文章を書いているときだけは人並みの表情を見せる。今は非常に、うざいやつが話しかけてきたという表情をしている。
自分で言ってて、悲しくなってきたな。
「大まかなストーリーはどんな感じなんだよ。それぐらいは教えてくれてもいいだろう?」
怒られないように小声で話しかけてみた。
ペンを止めて何やらメモ帳を眺めている。
「……十年前に通っていた学園に久しぶりにやってきた二人は思い出の部室へ向かう。すると、そこには死体が……」
「ミステリーか」
「ううん、ホラー。その後、警察に通報して再度部室に入るとそんな事はなかったの」
目の下にクマが出来ているのを見ると彼女のセリフに箔がついた。ホラーミステリーか、どんな感じなんだろう。
「へぇ、それからどうなるのさ」
「それは秘密。まだここにあるから」
そういって秋山は自分の頭を叩いていた。
まだ構成中なのだろう。
「ああ、夜の学園に侵入したのはこれに生かされていたのか? それならまぁ、協力できたんだよな」
変な弱みを握られたんだが、秋山が面白い小説を作ってくれるのなら別に悪い気はしない。
誰かのために何かが出来るっていい事だよな。
「うーん、あんまり」
「そこは嘘でもいいからうんと言ってくれたら俺の好感度が上がってたのに」
「はぁ? 先生の好感度でもしこしこあげてたら?」
中指を立てられて、軽くへこんだ。
俺をへこませた秋山はまた執筆活動を再開させた。
「……ここは、うーん、これじゃ駄目かな。安易なグロに走るのは嫌だ」
彼女の真剣な横顔はかなり、いい。説明なんて出来ない代物なのだ。端的に言うのなら、魅入られる。
この表情を見られるのなら夜中に学園に侵入したのも良かった気がしてならない。たとえそれが、秋山のためになっていなくても、俺の心の保養になればそれでいいのだ。
「ん? いや、待てよ。別に俺が侵入しなくてもこの横顔は今日になれば見ることができたのか」
そう思うと何だか損した気分だ。何もしなくて得を得られるのならやっぱり、そっちの方がいいと思う。
「怠惰を枕にするのはやめた方がいいよ。怠惰は諦めや妥協を生むから」
うるさいなんていいつつも、しっかりと俺の言葉は聞いているらしい……秋山が意外にも反応してくれる。
「人間は追いこめないと力を発揮できないからね」
目の下にクマを作っている人が言うと説得力があった。
「でもさ、妥協しなかったらいつまでたっても小説なんて完成が見えないんじゃないのか。いい文章にしたいのなら、この表現をあっちの、いいやこっちの……って四苦八苦するんだろ」
澄みわたる青空を澄み切った蒼い空になどといったものか。
「他の人はどうか知らない。私は私の頭の中の妄想を文章にして他の人に伝えたいだけだから。これでご飯を食べて生きて行こうなんて思っていない、私の自己満足」
「ふーん? それだけでいいんだ?」
「自己満足だから誰かに読んでもらわなくてもいいの。小説をひとつ完成させるごとに満たされる気持ちは……多分、凄い快感だよ。他にも楽しい事があるかもしれない、だけどね、今の私にはそれで充分」
悦に入ったその表情はどこか一般人から逸しているみたいだった。
ま、実際そうなのだろう。危険を冒して、誰かに読んでもらう事もない文章を書き続けるのだ。
「あのさ」
「うん?」
「ううん、何でも無い。その文章が完成したら、もう夜の学園なんかに呼び出されることは無いのかと思っただけだよ」
それはそれで残念だ。
それなりに楽しんでいたのも事実だったから悲しいものがある。
「したいの?」
「え?」
女子からしたいなんて言われたらちょっとだけドキッとするだろう? しないか。
「まぁ、ちょっとはね」
「ふーん、そっか。冬治はそう思ってるんだ」
秋山はしばらくの間ペンを置いて、何かを考えているようだった。
さすがに俺もこの雰囲気に流されて自習を始める。
漢字テストも近いうちにあるし、漢字でも覚えておくかな。
「うん、出来た」
薔薇の漢字を覚えたところで隣から声が上がる。
「書き終わったのか?」
「まぁ」
「それ、どうするんだ?」
「後でパソコンに打ち込んで見直すの。誤字とか脱字を」
彼女の話によると、文字を打ち込む時よりそっちの見直し作業の方が大変らしい。さすがにこればっかりは一度休んで、二日ほど時間を空けて一度頭をからっぽにしてから確認するんだとか。
てっきり、すべての作業が終わった後に秋山から『読んだ後の感想が……欲しいの』とでも言われるのかと思っていたので、何もないのには本当にびっくりした。
ちょっと残念だったが、小説が完成したと教えてくれた時の表情は非常にいいものだ。真剣な表情も素晴らしかったが、普段、無表情な秋山が見せる実に可愛らしい笑顔だった。




