夏八木千波:第七話 そしてそれから
千波が俺の彼女になって何か変わるかと思えば、ちょっと変わったぐらいだった。
「兄さん、朝ですよ」
「……ふぉ」
目を覚ますと千波が俺を揺すっている。
一番の変化は多分、これだろう。朝起こしてくれる。声はかけたりしていたけれど、こうやって部屋にまでやってくることは無かった。
そして声がものすごく優しい。天使かと思った。
「……千波、おはよう」
「おはようございます。今日から二学期ですよ」
「そうか……だるいなぁ」
ぼーっとしている俺の頬に、千波がキスをしてくる。
「お、おいおいおいおい……」
あっという間に脳が覚醒して頬を手で押さえる。
「目が覚めました?」
「覚めたよ。びっくりしたなぁ……」
「それは良かったです」
ほほ笑む千波に苦虫をかみつぶしてしまう。
「嫌でした?」
「不意打ちでされるのがちょっとな……ずるいぞ」
「今からまたします」
身体でぶつかってくるようにキスをしてくる。抱きとめると、そのまま押し倒された。
「もっと、凄い事もしましょうか」
「あ、朝から……何をする気だよ、おい」
「とか言いつつ抵抗はしないんですね」
パジャマのボタンがあっという間に根を上げて、千波にひんむかれる。
何かを期待する俺と、少し意地悪そうに笑う千波。
「……こほん、御二人さん」
「え……」
「あ」
部屋の前に母さんが立っていた。
「お盛んなのはよろしい。でも、学園に行かないと遅刻するわよ?」
時計を指差している。なるほど、なにかしてたら遅刻するだろうな。
いや、なにもするつもりは無いけどね。ちょっとした運動だ。
「そ、そうだな。飯食ってくるから千波はくつろいで居てくれ」
「はい」
いちゃついてたら母親が乱入なんてよくある話だ。もっとも、俺と千波がいちゃついているときは基本的に親がいないときだけだが……。
テーブルで食事を取っていると目の前の母さんが真剣なまなざしで俺を見ていた。
「冬治、あんた千波ちゃんを大事だと思ってるの?」
「当たり前だよ……あと、飯食ってくるときにじっと見ないでよ。食べづらい」
「……大事、ねぇ。あんたは気楽に考えていちゃいちゃラブラブしているだけでいいわよ。今日だって学園が無ければあのまま好きなようにやらせてたわ」
「ぶほっ……」
味噌汁をふきだしてしまった。
こういう事って親は普通、叱るもんだろうよっ。
「か、母さん……」
「千波ちゃんをなかせるのは夜の営みだけにしときなさいよ」
「げほっ、あ、朝から何言っているの母さん……」
あたしもこの歳で孫かぁ……なんて、幸せそうな顔をしていた。
「母さん、まだ……」
「まだ? ああ、そうよね。子どもは約一年かからないと産めないもんね」
「母さんっ、生々しいんだよ」
母親にからかわれながら飯を食い終わり、自室へと戻る。
そこには俺の彼女がベッドに一人で寝転がっていた。
「あ……」
俺を見て固まっていた。が、それに構っている時間はあまりない。
「千波、学園に行くぞ」
俺のタオルケットに顔を押し付けている彼女に声をかける。
「に、兄さん、違うんです……これは……匂いを嗅いでいたわけでは……」
あたふたする千波の頭に俺は手を置いた。怒られるのかと思ったのか、肩を落としている。
「……すみません、もう、こんなことしません」
「いや、いいから。何ならそのタオルケット持っていっていいぞ。家に帰ってから好きなようにしろよ」
「そんな変態みたいな事……出来ませんよ」
「とか言いつつ自分の部屋に嬉々として投げ込むんじゃない」
まだ付き合って日が浅いせいか理性が働いているようだ。一応、母さんとかの前では『つ、付き合ってませんから』等と言っている。
母さんいわく、態度でモロばれ。そもそも、寝起きのあれは何と言い訳するんだろう。
とにもかくにも学園に行く為、着替える事にしよう。
「マッハで着替えるから」
「え、ここで着替えるんですか?」
「そうだよ。見るのが嫌なら廊下に出てろよ」
「そう言っている暇があるなら早く、着替えてください」
目を爛々とさせててちょっとこえぇよ。
まぁ、いいや、今さらだ。
「それでも着替えづらい」
「……」
とてもきらきらしている。無垢な子供の目をまだ持っているとか珍しい娘さんもまだいるんだな。それが、男の下着姿を見る為にしている目とは思えない。
「……鼻血が出そうです」
「……おいおい」
冗談には聞こえなかった。
全部脱がないんですかと言われて当然だと答える。
「お前さんは俺にノーパン登校しろと言うのか」
「ち、千波は兄さんが望むのならの、ノーパンぐらいなら……脱いだ方が好みだって言うのならっ……」
そういってなぜかスカートをたくし上げて何かを脱ごうとしている。
「なんでお前さんが脱ぐ方になってるんだよっ! やめてくれ」
お前さんより俺の方が苦労しそうだ。真面目な千波ちゃんが壊れたぞ、おい。
「さ、アホやってないでさっさと行くぞ」
「はい」
「いってらっしゃい」
「いってきまーす」
二人で仲良く家を出る。母さんは冷やかしてこなかった。
朝の爽やかな空気を感じるよりも、隣にいる彼女のことが気になって仕方がない。お互いに視線を交差させながら、視界の隅に彼女の手が入ってきた。
千波の空いている手を黙って握る。
「あっ……」
「え、嫌だったか」
「いえ、握りたくても……これまでは握れませんでした。だから、嬉しいですよ。初めて握ってもらえましたから」
うれしいですと真顔で語る千波が、俺の事をどう想ってくれているのか。そんなのは想像するのが簡単な事だ。
「……悪いな。俺がさっさと気付いていればお前さんを苦しめなくてすんだのに」
「兄さんが千波の気持ちに気付いてくれただけで嬉しいですよ」
ふやけた笑みを見せる千波に俺は首を振る。
「いや、俺の匂いに依存してたほうだよ」
「うおああ……そっちですか!」
「すげぇ声が出たな、今」
「忘れてくださいっ」
まだまだ夏だ。暑い、だけど俺は汗ばみながらも彼女の手を放すつもりは毛頭なかった。




