夏八木千波:第五話 凄さの秘密
学園生として夏休みの宿題はきっちりやっておかねば成らぬ。やっておかねば二学期に泣くのは自分なのだ。
やらなかったらどうなるか……何と、この学園では停学処分が下されるのだ。窓割ったりしてないのに、停学処分とは酷過ぎではないだろうか?
文句を言う御学園長先生は実に優しい顔でこういうのだ。
「嫌なら辞めていいよ。君たちがこの学園に来たのは君たちの意思だ。学園側の行動が気に入らないというのなら、辞めてしまうと良い。もっといい未来が君たちの前には広がるかもしれないからね」
金持ちの言う事は違うぜ。
「ふぅ…」
ま、二年にもなればこの状況に慣れる。一回やっちまえば、あー、今日もノルマ達成できたわーみたいになるから。
二週間に一度ある検査日に指定ライン終わっていなければ部活はおろか、下校すら許されないからな。停学処分なんて滅多にない。
それに、最悪特別合宿が行われるそうだ。実際にこれを受けて帰ってきた人間は人が変わってしまうらしい。
「兄さん、此処を教えてください」
ま、そんなわけで頼れる兄貴分の俺もクーラーを入れて千波と一緒にお勉強している。俺の学園じゃ大体、夏休みの最初のほうは誰もがこんな状況のために夏休み本番とは言えない。
「あいよ」
宿題は嫌だ。でも、人が変わってしまうのは非常によくない。
勉強サイコー! 宿題万歳―! 等と叫ぶようになったら俺は終わりだと思ってる。
夏休み中勉強する奴の気がしれないね。そうなった人間は何かしら理由があるんだろうけど、俺だったら精神状態に影響が出てくるよ。
とりあえず、宿題をすぐ終わらせるなんて無謀な事はせずに一定ラインを終わらせるのを目標としている。
千波と一緒に宿題をやる事一週間。俺はまぁまぁ終わらせていたが、比較的真面目ちゃんな千波は既に残り三ページとなっていた。
「もう終わりが見えているのか。早いもんだな」
こちらをちらりと見て千波は微笑んでいた。
「いつも通りですよ」
「そういって、何か秘策でもあるんだろ? どうだい、そこんところ」
俺の軽い冗談に、千波は真剣な表情を見せた。どうやら、あるらしい。
「……大した事ではありませんけど、確かに在ります」
一体どんなマジックだ。去年も、その前も俺に比べたら圧倒的な早さだった。
去年は絶対に千波より先に終わらせてやろうと家を出て図書館で頑張ったつもりである。所詮、つもりはつもり。なんと、千波は初めて一週間で終わらせたのだ。俺は二週間で終わらせたものの、納得がいかなかったりする。
「兄さんがいないとより集中できるんですよ」
「俺がいないと? 部屋で勉強するってことかい」
「ちょっと違いますけど」
なんだかおかしな話だな。部屋で一人って意味じゃないのかもしれない。
「いいえ、本当です。入りこみやすいですから」
「入りこみやすい?」
「えーっと……はい、部屋じゃなくて、宿題に、ですよ?」
やっぱり、一人でやったほうが効率いいんだろうか。
ま、コツがあるのなら是非、夏休みの宿題を早く終わらせる方法を教えてほしいもんだ。「教えてくれ」
「だ、ダメですっ」
なぜか狼狽して答えられる。
「じゃあ、ヒントをくれ」
「しょうがないですね……」
目をつぶって数秒後、千波は考えがまとまったらしく頷いた。
「AとBがありますけど、どっちにしますか。両方は駄目ですよ」
「……じゃあ、Bだ」
「ヒントは匂いです。これがあれば何でもできます」
そのヒントを聞いて俺は千波の事が心配になった。
「匂いって……ヤクかよ。危ないからやめとけって」
「違いま……でも、癖になります」
本当に大丈夫だろうか。心配であるものの、やってはいないとは思うが……。
「この匂いを嗅ぐと心が安らかになって……まだ、がんばろうって気持ちになるんですよ」
「すげぇな」
「落ちつくんです」
何のアロマだ……羨ましい。そんなに勉強がはかどるのなら俺も貸してもらおうかな。
「……千波、それっていくらだ」
尋ねると難しい顔をして苦笑いされた。
「お金で買えるなら千波だって安定供給したいですよ」
「……え? やっぱりやばい奴か」
「採集が難しいと言うか何と言うか、説明するのに苦労します。結構なヒントを出してあげましたけれどわかりました?」
悪戯っ子の表情で聞いてくる。わかるわけないと踏んでるようだな。悔しいけど、答えなんてわからなかった。
「お手上げだ」
「残念ですね……多分、これからもわからないと思いますよ」
「おせーて?」
「駄目です。多分、教えたら千波の人生が滅茶苦茶になります。もう二度と兄さんと会えないかもしれません」
本当にさびしそうに言っている千波を見るとやっぱりやばい薬なんじゃないかと思う。
「多幸感があると?」
「はい。嗅ぎ過ぎると思考能力が失われます」
凄くやばい匂いがぷんぷんしてるぞ。大丈夫か、千波。
「外国から輸入してる?」
「いえ、日本製です」
もしかして千波の家の家庭菜園で麻のつく何かを育てているのかもしれない。今度庭を探させてもらおう。
「えーと、千波」
「なんですか。答えなら教えてあげませんよ」
「いや、答えはいいんだ。何か不安に思っている事とかあるなら……俺でよければいくらだって話を聞くぞ」
「……」
きょとんとして千波は俺を見ていた。ただ、それもほんのちょっとだけ。滅多に見る事の無い千波のきょとん顔は次の瞬間、生まれて初めて見る変な顔になった。
「その表情はどういう答えだ」
「……敢えて言うのなら『兄さんが言うな!』ですかね」
つまり、俺は信頼されていないと言う事か。
ううっ、想いを寄せている女の子にこうやって無碍にされるときっついもんがあるなぁ。
「そういう見当違いな事を考えるところです!」
「えぇっ」
一瞬心の中を見透かされたのかと思った。その後に、息抜きみたいなものだと言われて腑に落ちなかった。
その晩、いつものように風呂に入ろうとして気が変わる。
「今日はアヒルちゃんと遊ぶか」
いい歳こいて『お風呂でアヒルちゃんと遊ぶ』なんて誰にも教えていない趣味だ。俺だって変だとは思っている……でも、やめられない。
湯船に浮かべて尾羽を突いたり、頭にのせたり、色々と遊べる。それがもう、楽しい。
他人に理解してもらわなくて結構、これは俺だけの楽しみだ。年季の入った俺専用アヒルちゃんはいくら金を詰まれても売らない覚悟がある。
「思い出はお金で買えないからな」
親にも知られたくないので抜き足差し足で脱衣所から自室へと戻る。気分は忍者、捕らわれの姫様を助けに行くミッションである。
部屋の前まで来たのでミッションなんて忘れて普段通り開けようと思った。ただ、気分が忍者だったのでそのまま忍者っぽく、音もせずに静かに、ほんの数センチだけ開けてみた。
「……兄さん、好きです」
「……ぉう?」
俺は固まってしまった。千波の声だ。普段聞くような声ではなく、どこかしっとりした声音。
俺のタオルケットを抱きしめてあの千波が、そんなことを言っていたのだ。
「千波の方から告白したい……でも、兄さんから言ってくれなきゃ……やだ」
いつもはそんな甘えた声なんて出さない。だから、やたら可愛かった。頭の中からアヒルちゃんが居なくなるぐらい可愛かった。
でも、間違いなくここで物音をたてれば、俺と千波は明日から一緒に勉強なんてしなくなるはずだ。
後ろから抱きしめたい衝動に駆られつつ、俺は部屋から撤退したのであった。忍者のように、こっそりと。




