夏八木千波:第四話 夏八木の心
夏八木千波にとって、夢川冬治と言う男は別に兄と言う存在ではなかった。それは小さい頃からそうであった。血が繋がらず、一つ屋根の下で一緒に生活をしているわけでもない。
未だに『兄さん』なんてふざけた呼び名を口にするのは千波から言わせてもらえばそれは癖だ。朝起きたら顔を洗うのと同じ。そういう行為だ。
最初から、好きな相手だったのである。一目ぼれと言っても問題はないものの、最初に会った時の事など小さすぎて忘れてしまっている。気付けば好きになっていた。
いつだって隣に居る存在。良いところも悪いところも知っておきたい存在だ。それでも、冬治が千波の事を『妹』とみている為に千波はどうする事も出来ないでいたりする。
千波にとって、自分の気持ちも大切である。それ以上に大好きな『兄さん』の気持ちを尊重したいのだ。
彼は千波ではなく、妹が欲しくて自分を傍に置いていたと考えている。そんな風に思ってしまっている。小さい頃から千波はどこか素直に物事を考えられなかった。
「……ふぅ」
本当は色々したいのだ。
でも、出来るわけもない。一途な気持ちは気付けば歪なものへと変わりつつある事に千波は気付いていた。臆病で、根暗なんだと彼女は自分のことを分析していた。こんな風に考える女の子なんていやしない、そう思っている。
「じゃあちょっと友達と遊んでくるから」
窓の向こう側、自分にとって最も近くて遠い場所から兄の声が聞こえてくる。
「うん、気をつけてね、兄さん」
報告しなくても別にいいですよと言いそうになったが、飲み込んで別の言葉をうまく出せた。できれば知っておきたかった。ほかの女の子と遊びに行くなんて聞きたくないし、許せない。そう思ってしまう自分のことを千波は嫌っていた。
「ああ、行ってくる」
窓の向こうから聞こえてくる兄の声に胸の高鳴りを感じずにはいられない。
完全に冬治が出て行ったのを確認すると窓を開け、身を乗り出す。閉められた窓に鍵はかかっていない。簡単に言うと鍵が壊れているからだ。
直すように言ったものの『問題ないない。千波が入ってくるだけだから害は無いだろ。俺は構わないよ』と言って聞いてくれない。
だから、いつだって千波はこうして窓をわたり、兄の部屋へ不法侵入を繰り返してしまう。
「兄さんが悪いんですから……」
鍵を直してさえくれれば、少しでも嫌なそぶりや鬱陶しいという態度を見せてくれればこの部屋に侵入なんて出来ない。相手のやさしさに付け込んでいるのも理解している。
もっとも、合いかぎをもらっている為、普通に家に入りこむ事が出来るのだが。
部屋に入り込んだ千波は扉の向こうに消えた冬治が触れたドアノブを握る。そのあと、ベッドの上に腰かけて枕を撫でた。それを手に取り、抱きしめる。
「ふー……」
変な事をしていると自覚しつつ、高鳴る鼓動を抑えて今度は枕に顔を埋めた。そして掛け布団を抱きしめる。
「……幸せ」
実に非日常な幸せである。人に知られたら間違いなく引かれる事だろう。友達のだれ一人に千波は言っていない。こんなこと、言えるわけもない。
でも、幸せだからそれでいい気もする、手に入らないのなら少しでも近くに感じていたいのだ。誰からも理解されない幸せは、自分一人のためにある。
「……はぁ」
小さい頃からあっという間に日々が過ぎている。心が成長する事によって気持ちを抑えるのが難しくなった。それに比例してこういった行為も徐々に悪化の一途をたどっている事を本人は自覚している。本来、正しく欲求を相手に伝えているのなら今頃冬治は千波の彼氏になっていた。
それが出来ていない。自分の気持ちを伝える努力もせず、妹と言う立場に甘んじて、あまつさえその立場を利用して自分だけの幸せを手に入れているのだ。
自覚していてずるずるとしているのは悪い事なのだが、それがどうにも止められない。理性では駄目だと思いつつ、窓の向こうにある物を見ると行動を止めることが出来ない。
猫が動くものを見ると反射的に追っかけてしまうのと一緒なのかもしれない。
「はふぅ……」
布団の中に寝転がって天井を見る。昔は冬治と一緒に寝ることもあった。さすがに、今は二人で寝ることは無い。冗談でも向こうから言ってきてくれれば乗るかもしれないのに、そんな冗談は絶対に言ってくることはないだろう。
当然、部屋に遊びに行かない限りは窓からベッドを確認できないため、こうして二日に一度ぐらいは忍び込んで寝転んでいる。もしかしたら昔よりも現在の方が冬治のベッドで寝る回数は多いかもしれない。
この部屋に侵入してベッドにもぐりこんだときは罪悪感でいっぱいになった。しかし、二回目以降は喜びの方が多くて自分でも困惑していたりする。
もし告白が受け入れられなければそこで関係が終わってしまうんじゃないかと言う恐怖が付きまとう。妹の面をして、冬治のそばにいられることが心地よい。千波の中の悪魔はとても大きく、勇気を出すにはいたらない。
「どうしてこうなんだろう……」
子供の頃から自分の気持ちを隠すのに必死だった。羞恥心と言うか、そう言ったものは無かったので肉体的にはべったりだった。
遊ぶのは当然、晩御飯だって一緒、お風呂も一緒、寝るのも一緒である。
「お風呂、か」
お風呂を直に覗くのは断念した。一度、行こうとしたけれども色々想像した結果、突入しそうになった。
今のところ抑えているが、その行動が次なる野望になっている。入浴を覗くのは時間の問題かもしれない。その勇気をもっと正しい行いに使えばいいのにと彼女は思ったりもする。
ばれたらどうするのか、どうなってしまうのか、考えられない。今の関係が壊れて変な女の子とみられるのは当然嫌だ。だからと言って、今の行為を我慢できるかと言えばそちらのほうも自信が無い。
どちらも駄目ならば……やはり、ばれないように事を起こすしかないのだ。臆病者の勇気と行動は、誰からも理解されない。
「……はぁ」
ため息が出る。
何故、子供のころに『結婚しよう』もしくは『お嫁さんになってあげる』と言わなかったのだろうか。千波の頭の中でそんな都合のいい言葉が出てくる。
どちらかが言ってさえいれば、思いだして誘えたのかもしれないのだ。テレビや、マンガ、そう言ったものでの幼馴染はいつだってうまくやっていた。もちろん、物語として必要なことだからそういう設定だとは分かっている。
今では友達が多いものの、幼いころの千波は本当に接する人が少なかった。両親は忙しかったし、自分から友達を作るのも下手だった。ただ、隣に冬治がいるだけだった。
冬治は常に千波を大切にしていた。求めるもの、望んだ態度を常に千波に与えてくれていた。冬治が食べていたお菓子を欲しいと言えばお菓子を、本が読みたいと言えばそれを渡してくれた。
そして、からかう友人達をねじ伏せ、その存在を認めさせたのだ。足手まといであろう千波を無碍にした事は一度もなかった。仲間外れになった時も友達のほうにはいかず、常に一緒にいてくれた。何故そうしてくれたのか見当もつかない。淡い期待を抱いて聞いたことが一度あった。
「んー? 何でだろうな」
これである。よくやるお得意のごまかしているのかと思ったが、彼は心の底から忘れているようだ。
小学生の頃は当然一緒、中学に入って一年寂しい思いをして今やっと、追いついた。近くの学園を勧めたのも千波だ。どこに行ったって追いかけるつもりでいたが、冬治に迷惑もかけたくはない。自然に一緒に居られるような環境に持っていけた時、つい、柄にも似合わずやったーと叫んでしまった事があった。おかげで、今でもトップクラスの成績を誇っている。
「いつまでも待つけど、振り向いて……くれるのかな。やっぱりこっちから……」
中学生の時、可愛らしいラブレターを偶然、兄の下駄箱に入っているのを見つけた。
それは最悪のタイミング。なけなしの勇気を集めて千波も入れようとした時だった。もう希望が打ち砕かれてしょうがない。妹みたいな女の子を選んでくれるのか自信がなく、唇は真っ青になって足が震えてしまった。
「……」
それは冬治の友人がからかいで入れたものだったりする。しかしながら、下駄箱から取り出し、中身をみることなく燃やしてしまった千波に知る由は無い。自身のラブレターも一緒に燃やしてしまった。幸か不幸か、冬治も悪戯について聞かされていない。からかいで入れた本人も忘れてしまっている。
それ以降、ラブレターを見たり書いたりするとお腹が痛くなる。自分の罪を突き付けられているようで書けなくなった。
手紙を封じられた以上、千波の頭の中には面と向かって告白するか、相手にされるしかない。
「……平静保つのいつまで出来るかな」
冬治が女子生徒と話している(滅多にないが)と、凄い事になる。それが兄さん度『MAX』ならさしたる問題でもないが、『二割以下』になると漢字書き取りノートに『兄さん』と書き続け、冬治が風呂に入っている間に部屋に入り込んだりするぐらいなのだ。
下手をすると、シャツをもちだしたりする。あまつさえ抱き枕に服を着させたりもする。そして、冬治への気持ちを抑え込むのだ。
積極的なのか消極的なのか、どっちなのかは分からない。
これからもこうして色々とやってしまうんだろうなぁと思いつつ、千波は枕に頬ずりをするのであった。
その気持ちが近々ばれてしまう事になるとは思いもせずに今はゆっくりとした時間を過ごしている。




