馬水雫:第六話 ぼっこぼこ
妹の葉奈ちゃんがいきなり、見知らぬ人の名前を叫んだおかげで、俺は混乱の真っ只中にいる。
「あの、葉奈ちゃん……落ちついてよ」
「え? 落ちついてるけど」
何だか、葉奈ちゃんが雫さんのことを傷つけそうだった。
彼女を守るのは彼氏の役目だ。
それに、自分の妹が誰かを傷つけそうな瞳をしていれば止めようとするはずだ。
「雫さんは至って大人しい性格なんだ。だよね?」
「……」
雫さんは黙って、葉奈ちゃんの事を睨みつけていた。
うーん、自分で言っておいて何だけど……何だか、これは雫さんの方も臨戦態勢整っている感じがするぞ。
「なるほどね、名前を変えてまで兄さんに近づいたって事? そんなら、容赦しないけど?」
どうやら、守るどころか火を注いだらしい。
手を全部尽くしたわけではないものの、天を仰いでみたくなった。葉奈ちゃんは一度火がつくと止められない性格なのだ。
こうなったら、雫さんと協力して何とか切り抜けなくてはいけない。
大丈夫、さっき葉奈ちゃんを睨んでいたのは俺の目の錯覚か、たまたま大声を出されてびっくりし、『何この人?』と思っただけだ。そうだ、そうに違いない。
「ねぇ、雫さ……」
そこには葉奈ちゃん並の怒気をたちこめる雫さんがいた。
時折ちらつく雫さんの怒った顔の本気モードのようだった。
「……土谷真登は、死んだわ」
「死んだぁ? じゃあ、あんたはなにもんだい」
乱暴な言葉遣いの葉奈ちゃんに対してあくまで冷静だ。
冷静、とはいっても表面上繕っているだけのように見える。
「馬水雫よ。冬治君の、彼女の……」
「はぁ? 名前変えて兄さんの彼女? ばっかじゃないの? 狙いは何? やっぱり、あたし?」
俺はどちらかに説明してもらわなくてはいけないと感じた。きっと選択肢が出る事だろう……葉奈ちゃんに聞くか、それとも雫さんに聞くかだ。
勿論、俺が尋ねるべき相手は決まっている。
「葉奈ちゃ……」
じろっ、ここで雫さんに睨みつけられた。
「こほん、雫さん。何か知っているのなら詳しく説明してくれないかな?」
「……」
彼女は黙っている。葉奈ちゃんが何かを言おうとするけど、それを俺は手で制した。
「葉奈ちゃん、悪いけど……二人きりにさせてもらえないかな」
「兄さんは騙されてるだけだってば」
「ごめん、それは俺が決める事だよ。雫さん外に出よう」
葉奈ちゃんに余分にお金を渡して俺たち二人は外へ出る。
「ちょっと歩こうか」
「…うん」
もしも、葉奈ちゃんに訊ねていれば答えはすぐに分かったに違いない。
「……」
まぁ、あの時雫さんが睨んできたんだから仕方ないよな。時には回り道も必要なんだよ。
人生にもしもはあっても、実際にそっちの未来へ行くことはできない。
人生なんて偶然と選択肢の連続なのだ。
だから、出来るだけ変な話にならないよう努力するしかない。
失敗しないのがベストで、軽いミスでやり直せるのなら……それがベターだ。
「ふいー……ちょっとばっかり、暑いね」
雲から太陽が覗いている。
最近は公園に子供がいない事が多い。変質者のせいか、はたまたそれ以外が原因か…結果はかわらないだろうが。
変な話をするのなら誰もいないほうがいい。公園のブランコに二人並んで座るなんて実に彼女彼氏っぽくていいじゃないか。
「……あのね」
彼女の話はその一言から始まった。
「話、長くなるかも」
「構わないよ。そうだね、石の上に三年乗れていた人がいたんだ。話し終わるまで待っていて見せるよ」
「そっか、よかった……中学前からわたし、荒れていてね」
淡く息を吐いて、雫さんは続ける。
「理由はさ、信じてもらえないと言うより……あほらしくて話したくないんだ。黙っていていいかな?」
こっくり頷く。多分、話が余計ややこしくなるだけだろう。そして、葉奈ちゃんとの中の悪さとは直接関係ないと思われる。
「それで、どうしてたのさ」
「人を襲っていたの。ヤンキー、不良とかそんな感じ。窓割るとかちゃちいことしないで……壁とか混凝土、破壊してた。若いエネルギーが外に向かうの。爆発する寸前かなぁ」
ヤンキーはそんなことしない。いいとこ、壁にスプレーで落書きするぐらいだと思う。
後、心の中だけで言わせてほしい……ごめん、雫さん。既に俺の想像を超えてました。
「だから、意気がっている連中全部、徹底的に叩きのめした」
「叩きのめしたって……」
雫さんのような人がそんなひどい事をするなんて、信じられなかった。
しかし、先ほど葉奈ちゃんに向けていた視線を思い返せばありがち嘘じゃないのだろう。
「よく事件に発展しなかったね」
「記憶、無くすまでぼこってた」
その時のことを思い出したのか、懐かしそうでいて苦しそうな表情になる。
「……悪くは無かったよ。人を殴るのさ」
「その割には楽しくなさそうだけど?」
「うん、恥ずかしい話……今はこうやって冬治君と一緒に居るほうが楽しい」
「恥ずかしくないさ。俺は放送室をジャックして雫さんと付き合っているのは楽しいと言えるね!」
「じゃ、今度してよ?」
安易な約束は身を滅ぼすね。
「あ、ああ……任せてくれ」
俺の約束はともかくとして、照れた様子は人を殴って楽しむ人間には見えない。
「えーと、それで葉奈ちゃんとはどういった関係?」
「喧嘩友達。一回しかしてないけどね」
喧嘩友達ねぇ、ちょっとだけ楽しそうな顔を……しているわけもない。
「今日出会って、びっくりした。あの子、冬治君の親戚?」
「ううん、妹」
「嘘、だってあいつには兄貴なんていなかったはずだけど?」
あいつ、のところに憎しみが軽く込められていた。
「ああ、両親が再婚してね。それで、俺が兄貴になってこっちに引っ越してきたの」
「そっか……あのさ、冬治君は私のことが怖くないの?」
首をかしげる雫さんに俺は首をすくめた。
その質問は突然で、何ら脈絡のない代物だった。
言わせてもらえるのなら、色々と突っ込みたい事がある。怖くないし、信じられないし……何より、聞きたい事がこっちからあるのだ。
「その前に一つだけ聞いていい?」
「何を?」
「本名は土谷真登なの?」
俺の質問に彼女は苦笑していた。
「ううん、そっちは偽名みたいなものかな。私の両親は二つ名前を準備していてね、父親が馬水で、母親が土谷なの。それで父さんは雫とつけようとして、母さんは真登にしたかったって。最初はまぁ、父と決別してたし……だから、本当の名前は馬水雫なの。でも、土谷真登と名乗っていて……そうだね、生まれ変わったつもりかなぁ」
恥ずかしそうに頬を掻いて真剣な表情で俺を見据えていた。
「それで、私のことは……怖くないの?」
「今後の参考までに聞くけどさ、怖がったほうがいいの? あと、どう怖がったほうがいいの? 名前が二つあるところ?」
さっきの話を反芻しても、特に怖いと見受けられる場所はなかった……そう思う。
「そう言われると困るかも」
「じゃあ、超ヤンキー、伝説の不良という目で見ればいいんだよね?」
「う、うーんそうなのかなぁ」
「俺は小学一年までおもらししてたよ」
「はぁ?」
雫さんは驚いた顔になる。
そりゃそうだろうな、彼氏がいきなりこんな事を言いだすのだから……。
「あの、いきなり……どうしたの?」
「雫さんだけだと不公平でしょ? だから、俺の恥ずかしい秘密を教えてあげるよ」
誰だって、隠したい過去の一つや二つ、あるだろう。
七色が俺に話さなかったのは……彼女の事を恐れていたり、話しても信じてくれないと思ったからだ。そうに違いないね。
俺は色々と恥ずかしい話を雫さんに話した。
呆れたり、苦笑したりして、さっきまでの悲しい表情は消えてしまっている。
「これでチャラね?」
「おねしょと比べられても困るよ」
「俺にとっては雫さんの話もその程度だ」
「どうして?」
その言葉に俺はため息をつく。
「雫さん。明日に昨日の雫さんは居ない……勿論、雫さんが望めば出てくるだろうけどね。雫さんが望まなければ、そんな日はやって来ないよ」
もっと続けようかと思った。
そして、思う。
言った本人が何を言いたかったのか伝えられなかった。
「……ご、ごめん、良くわからなかっ……た」
そして、俺がわからなければ相手に伝わるわけもない。
雫さんは顔を真っ赤にして、笑いをこらえていた。
伝わらなくたっていいんだよ。
泣かれるよりはましだから。
「……」
泣きたくなったのは俺の方だったりするけれど、これはお墓まで持って行こうと思う。
「ところで、真登さんって呼んだ方がいいの?」
「ううん、雫ってよんでほしい……これまで通りのさん付けもやめて。土屋真登はいないからね」
「わかった、雫って呼ぶよ」
「たまにさ、たまーにだけど……やきもち焼くときだけ、昔の私に戻るからね」
「ど、どうなるの?」
「うん、ぼこぼこにしようかなって」
そんな未来が来ない事を、俺は空に向かってお祈りするのだった。




