夏八木千波:第一話 隣の家の気になるあの子
気になる子がいる。
隣の家の子だ。
「おかえり、兄さん」
そんなあの子は笑顔が可愛い(滅多に見せない)、仕草が可愛い(寝ているときだけ)、言葉も優しい(と見せかけて毒をはく)。可愛いだらけの妹みたいな幼馴染だ。
顔が怖いとたまに言われる俺でも、幼馴染におかえり、なんて言われるとついつい目じりが下がってしまう。
「おう、ただ今。千波はもう帰ってきていたのか?」
「はい。帰宅部ですから」
名前を夏八木千波と言う。ちっこい印象を受ける女の子で、黒髪ロングの整った顔立ちと、なかなかにレベルの高い子でもある。子供のころはよく日本人形(祟ってくる方の)だと言われていた。
エプロンをつけて家の前を掃いているその姿は、どことなくラ行の四番目を連呼する黄色のおじさんっぽい印象を受ける。
「俺も帰宅部だが、結構遅くなっちまったな」
「千波のクラスのほうが終わるの早かったんですよ。別に、競争なんてしてないですから」
順位を気にするなんて子供っぽいですよとたしなめられる。
「そういうんじゃなくて、一緒に帰れればよかったなって思ったんだよ」
「……一緒に帰るなんて恥ずかしいじゃないですか」
「そうかねぇ」
「しかも、兄さんとだなんて」
ちょっとショックだ。いや、かなぁり、ショックだ。
俺と千波は兄と妹。まさしくその関係だと言っていい。でも最近は千波の事が可愛いなと思い始めているんだよなぁ。兄としての気持ちと男としての気持ちが心の中で戦っているとか、いないとか。
まぁ、妹って感じの幼馴染だ。よくありがちな血のつながらない兄弟の話じゃあないし、ある意味では兄妹ごっこが子供のころからずっと続きすぎて、周りも気にしなくなったかんじだな。
「千波が俺と一緒に帰るのが嫌ならしょうがないな。しつこくしてお前さんに嫌われるのは嫌だから。じゃ、今日からさらりとした関係にしようか、夏八木」
「そ、それは……そこまでは言ってませんよ」
ちょっといたずらしてやるとすぐに困った顔をする。
「そうか、千波が嫌ならやめるよ」
「そうですよ。そんなことされたら……困ります」
本当に困った表情で俺のほうへと寄ってきた。
「あの、兄さん。うちでお茶でも飲んで行きません?」
俺の裾を引っ張る。子供のころからの千波のくせで、これは本人も知らずにやっているんだろう。不安になったときや誰かに甘えたいときは無意識にこういうことをしている。
こういうところがまた可愛いんだよなぁ。
「お、そりゃいい」
ちなみにだが、俺のかわいい幼馴染はあまりからかいすぎると爆発する。そのため、一手を打ったらそこで終わりにしないといけない。長年付き合ってきたからそこら辺の爆発具合はなんとなくわかる。
ここで断ったらぶーたれて箒を投げてくる。すでに確認済みで、一週間前にゲームがしたいから帰ると言ったら箒を投げつけられたからな。
「さ、どうぞ」
「お邪魔します」
「もう、お邪魔します、なんて他人行儀にしなくてもいいんですよ」
呆れた様子でそういわれるが、まぁ、確かにその通りではあるが親しい中にも礼儀あり。
リビングに案内された俺はいまだに消費期限の切れたパンが置いてあることに気づく。あれはここの大黒柱がもったいないからと言って残したままのものだ。ちょっと悪食のきらいがあり、一週間前に期限の切れた牛乳を好奇心で飲んでしまうようなおっさんだからな。残念なことに体のほうは一般人なのでその後にお腹を下して奥さんに怒られていたんだよなぁ。
夏八木家にはたびたびお邪魔になっているので珍しいってもんがもう無い。どうかすると晩御飯まで頂いちゃうからな。千波もたまに俺の家で食べているし。
「何か目新しいもので見つけました?」
「パン、まだとってるんだな」
「本当、父さんには呆れますよ。実験に使うんだーって言ってきかないんです」
「実験?」
「そうです。パンがどのくらいでカビてしまうのか調べたいって」
食べ物を粗末にするなと怒られそうだ。
「それで、また母さんと……うぐぐぐ……」
千波は必死におちゃっぱが入っている缶の蓋部分を引っ張っていた。あの缶は少しひねくれており、ちょっと左側にひねるようにしないと開かない。垂直に引っ張ろうとしている千波のやり方では最終的にぶちまけて終わりだろう。
この前も、彼女は母親の道子さんから怒られていた。
「開けるよ、それ」
「え、でも」
「いいから、開けてくれたらおいしいお茶を入れてくれ」
「はい」
渡された缶をすぐに開けると、ちょっと尊敬のまなざしを向けられる。
「ま、まぁ、缶ぐらい簡単に開けられますよね」
自分のどてっぱらにブーメランが刺さっているわけだが、指摘するつもりもない。ほほえましい。
「その表情、やめてくれませんか。なんだかものすごく見守られている感じがして嫌なんですけど」
「すまんすまん。テレビ、つけていいか?」
「どうぞ。つけ方はわかりますか?」
「わかってる」
リモコンを見つけてテレビをつける。その間、千波はちゃんとエプロンをしてお茶の準備をしてくれた。道子さん曰く、エプロンをつけることで気持ちを入れ替えることが出来るそうだ。その言葉を聞いて育った千波にも受け継がれている。
エプロン姿の千波も可愛いもんだ。エプロンの後ろのリボンと、スカートがひらひらして心をぐっとわしづかみにしてくる。
「お茶です」
「ありがとよ」
「あのー、兄さん。さっきはどうしてあんな意地悪を言ったんでしょう」
あれが千波にはしっかりと意地悪だと伝わっていたらしい。
「あぁ、あれね。一緒に帰りたくないとか言われたから嫌われたかと思ったんだよ」
「子供っぽいです」
「それでも俺の子供っぽい行動に付き合って家にあげてくれるんだから千波は優しいなぁ。俺と一緒にいること自体は嫌じゃないのね」
俺の言葉に千波は少しだけ眼を開けた。
「そうですね……今は他の人がいませんから邪魔されません」
お湯を注ぐ音で良く聞こえなかった。
「ごめん、聞こえなかった」
怒るかな―と思って千波を見るけど、軽く笑っていた。うん、滅多に見せないから可愛いんだよなぁ……。
「お茶が熱いから気をつけてって言ったんです」
「そうか、ちゃんと聞いておくべきだったな。ま、俺と一緒にいて邪魔するやつがいたらお引き取り願うよ」
「聞こえているじゃないですか、はぁ」
何でため息なんてついちゃうんだろうか。まぁ、聞こえていたらなんとなく恥ずかしいかもしれない言葉だよな。
「学園にはもう慣れたか?」
「もう、またその質問ですか。顔、また子供を見守る親みたいになってますよ」
困ったように笑われて頷く。心配なものは心配なのだ。
「気のせいだよ。で、どうだ?」
「慣れましたよ」
「そうか、よかった……」
「中学の時も言ってましたね」
懐かしそうに眼を閉じて思い出に浸っているようだ。そうか、俺は中学生の時にも言っていたのか。
「誰かにいじめられたりしてないか?」
「大丈夫です」
「変な虫が……いや、やめとこ。心配しだしたらきりがない」
千波に変な虫がつかないかどうかが心配だ。帰りだってストーカーとかの被害に遭わないか心配なんだ。
「そんなに心配なら捕まえてくれてればいいのに……」
「え、何か言ったか?」
「どうせ聞こえているんですよね?」
「うーうん」
首をぷるぷるとふってみせると呆れた顔をされる。
「変な虫はぜーんぶ、春成桜先輩とやらに飛んで行きましたよ」
だから変な虫はついていませんよと笑っている。
「ははぁ、そいつはすげぇな」
もしかして春成さんは本当に魔法が使えるんだろうか。視線の合った異性がすべてそっちに向かってしまうようなある意味、素晴らしい魔法。俺も使えていたら今頃はハーレム街道まっしぐらだったのにな。
「春成先輩、『青電気』って呼ばれてます」
「へー。何で?」
なんで青電気なのだろう。
「寄ってきた虫を殺すんです。ほら、コンビニとか夜になったら電気がつくじゃないですか。春成先輩って割とすっぱりと男子生徒を振ってしまうので」
なるほど、見事にそれだと思うけどあまり感心されるあだ名ではないな。
「それ絶対嫉妬から誰かがつけたあだ名だよな。そういう噂するのほどほどにしておいた方がいいぜ?」
「はーい……ところで、兄さんは青電気にやられたりしてませんよね」
「俺? ないない。俺は彼女に告白したことは無いよ」
「……」
信用していない表情に、嘘を見抜こうとすると千波ちゃんアイが発動していた。
「え、何でそこで黙るの?」
「嘘を付いているかもしれません」
「ついてないって」
千波の事が少し気にはなる。ただまぁ、何かがあるってわけでもない。
その日はそのまま晩御飯まで頂いてしまった。
「お風呂も入っていきますか?」
「さすがに、帰る」
千波の冗談は真贋の判断が難しい時もある。
「いつも通り、お前さんの料理、おいしかったよ」
「それは良かった。またご馳走します」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
俺が家に入るまで、千波は俺の事を見ていたのだった。部屋も隣だから向こうが話したいことがあればすぐに話せるからおやすみは意味がなかったかも。
「夏八木千波……子供の頃から後ろをついてきて今もついてきてくれるって思ったけど、このままずっといられるわけじゃないよなぁ」
何せ、俺と一緒に帰りたくないとか言っていたからな。妹だと思っていると言っても本当の妹じゃない。
この関係性も、惰性で続けていれば終わりを迎えてしまう気がする。そうなる前に、関係を変えたい。




