神様と手紙
世界の中心はあの人だ。だからきっとあの人は、神様なんだ。きっときっと、神様なんや。
わたしは今日も、彼の元へ行く。彼の所がわたしの居場所だ。
施設でも、学校でも、病院でもない。わたしは彼の所にいたい。
制服も着替えずに、学校が終わるとわたしは一目散に彼の家へ走る。くすんだ緑色のセーラー服をみんなはださいと言うけれど、わたしは気に入っている。彼が、可愛いと言ったから。
彼はわたしの叔父らしい。よくわからんけど。
あの日病院のベッドで始めに見たのは、彼の顔だった。涙が溜まってきらきら光る目が、綺麗やと思った。
小学五年の時だった。わたしは、その日より前の事をあんまり覚えていない。
両親のことも、なにも。誰も教えてくれなかったし、わたしも思い出したいと思わなかった。ただ、両親はもう、わたしを育ててくれないらしかった。
彼はわたしのことを一番心配してくれた。わたしは、彼のことだけ信頼できた。ぼんやりした記憶の中で、彼がわたしを助けてくれた映像は残っている。
でも独身だからわたしを引き取ることは出来ず、違う親戚に引き取られた。
その親戚の家は遠くやったから、わたしは生まれ育った土地から離れることになった。けれど、どうでもよかった。思い入れどころか、たいした記憶もないのだ。そんなことより、親戚の家は彼の家に近かった。むしろ好都合やった。
わたしはそののち、親戚の家から追い出され、施設へ入った。彼の家がもっと近くなったから、嬉しくすらあった。
「こんにちは」
不用心に鍵のかかっていない扉をがらりと開けて、勝手に中へ入る。お邪魔しますは、言いたくないから言わん。
独り暮らしでまだ二十八歳なのに一軒家に住む彼の家は、立て付けも悪くボロい。わたしは好きやけど。
予想通り、彼は居間にいた。炬燵に入り込み畳に寝転がって、何か紙切れを眺めている。
「どうも」
「あ、翼ちゃん」
彼はごろんと寝返りを打ってわたしを確認すると、破顔して片手をあげた。
「休憩中なん?」
「んー、そんな感じ。大体終わったから大丈夫―」
ふふふと嬉しそうに声を弾ませる彼は心底幸せそうなので、大体終わった、というのは本当やろう。
彼の仕事はイラストレーターだ。割と売れっ子で、忙しそうにしていることが多い。暇そうにしている彼は久しぶりだから、わたしまで嬉しくなる。
「お茶いれようか?」
「ほんと? ありがとう」
わたしは鞄を置いてコートを脱ぎ、台所へ。彼はコーヒーより紅茶より、緑茶を好んだ。わたしはかなり調べ上げ研究して、緑茶を入れるのが得意になった。
お湯を沸かして、茶筒を手に取る。蓋にマジックで猫の絵が描いてあった。この家は落書きだらけだ。彼が仕事に忙しい時も、家中に彼の欠片があるから寂しくない。
わたしは彼に、なんでもいいから恩返しをしたかった。彼のために、出来ることがあるなら、なんでもしたかった。彼の願いを叶えたかった。
「なんか願い事ある?」
そう訊いたわたしに彼が答えたのは、
「世界中の人が幸せになったらいいねえ」
やった。
わたしはいつまで経っても彼の願い事を叶えられない。どうしたら、世界中の人は幸せになってくれるんやろう。わたしじゃ出来ひんのか。でも、どうしても、叶えたい。
湯飲みと急須をお盆に載せて居間へ戻る。彼は炬燵にもたれ掛かっていた。
「疲れてるん?」
「うーん……そうなんかなあ。ちょっと眠いかも。お茶ありがとう」
お茶を入れた湯飲みを差し出すと、顔を上げてお礼を言ってくれる。
「飲んだら寝た方がええよ」
わたしが言うと、お茶に息を吹きかけて冷ましながら彼は曖昧に頷く。
いつまで経ってもわたしの訛りが取れないのは、取るつもりがないからだ。彼が、わたしの喋り方が好きだと言ったから。たまにわたしの訛りにつられてしまう彼が、面白いから。
本当は、もう方言を使わずに喋れるはずだ。むしろ忘れてしまわないように、必死になっていた。薄れていく訛りに、わたしは焦っていた。
熱いお茶を一口飲む。
前を見れば、彼が居る。
こうして彼のそばに居れば、わたしは幸せだ。
わたしを幸せにしてくれる彼のことを、わたしは幸せにしたい。なにも出来ない自分が、歯がゆかった。
この一方的に依存した関係は、たぶんもうすぐ終わりにしなきゃいけないのだと、思う。中学に入った頃に気付いた。わたしの存在は、彼に迷惑をかけるだけだ。
彼は、気だての良い可愛い奥さんでも貰って、子供を作って、幸せな人生を歩むべきなんだ。わたしに構ってなんておらんと。
「そういえばさ」
低い彼の声を聞きながら、湯飲みの中の緑に視線を落とす。
「……うん」
「昨日の夜、庭の木にこれが引っかかってるの見付けた」
彼は指先で挟んだ紙切れをわたしに渡した。
「引っかかってたん?」
「うん。風船に紐で結んであった。風船の方は割れちゃったんだけど」
わたしは紙切れを持ったまま目を瞠った。
風船にメモをくっつけて飛ばしたのは、わたしだった。
不幸せな誰かに届いて、片っ端から幸せになってくれと、何十個も風船を飛ばした。具体的な『幸せ』がよくわからんから、幸せになれとだけ書いて。
彼に渡されたメモに目を通す。
『どこかのだれか様へ。あなたが幸せであるよう、祈ってます』
「……あれ?」
わたしの字やない。ちょっと癖のある、可愛らしい字だった。
「どうかした?」
ずいぶん切ってないんか、伸びてきている真っ黒い髪を揺らして彼は首を傾げる。
「なんでもない。気のせいやわ」
「そう? ――あ、これがその風船。割れたら中から飴出て来たよ」
彼は半纏のポケットから、赤い風船の残骸とイチゴ味の飴を取り出して炬燵の上に置く。
風船の中に飴なんてわたしは入れてへん。どういう事やろう。
「……これ、見付けたときどんな気分やった?」
「うん? 嬉しかったかなー。プレゼント貰ったみたいで。幸せになったよ」
「ほんまに?」
「ほんまに」
なんで疑うの、と彼はけらけら笑う。その顔が、滲んだ。
コタツウサギとかいう、炬燵の上でポーズを取っているだけのオリジナルキャラクターが所々に描かれている炬燵に額を押しつける。
「翼ちゃんも眠いの?」
首を横に振る。彼の大きな手が、わたしの髪を撫でた。
わたしが飛ばした風船を、誰かが見付けて誰かが同じように飛ばした。それが彼の元に届いたんだ。彼が幸せになってくれたんだ。
もっともっと、届けばいい。どこかの誰かの、辛い今日に。
わたしは、わたしの頭を撫でる彼の手に自分の手を添えた。確かに眠たいらしい彼の手は、子供みたいに温かかった。
この依存した関係は終わりにしなくちゃいけないのだと、思う。
かみさま神様、世界中が幸せになったら、ええね。