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赤い風船

 落ちたら、死ぬかな。

 ベランダから地面を見下ろして思いめぐらす。

 マンションの四階程度じゃ、怪我するだけか。痛そうだ。死ぬ気なんてないけど。

 ようやく涼しくなり始めた初秋の風が心地よくて、私はなんの用もないのにベランダに立っていた。眩しいまでに天気が良い。

 私は本日何度目になるのかわからないため息を吐いて頭を垂れた。私がこうしている間にもみんな、楽しい休日を過ごしていることだろう。もちろん、宮田先輩も。

 目を閉じて宮田先輩のふんわりした笑顔を思い浮かべると、頬が緩んだ。男の人に言うのは失礼かもしれないが、酷く可愛らしく笑う人だった。人畜無害を絵に描いたような。

 優しくて、温かくて、照れ屋で、泣き虫で、人のために笑って、人のために泣ける、そんな人だった。

 思い出に浸っていると少し気分が浮上する。しかしまぶたの裏の宮田先輩の横にひょっこり女の人が現れ、私は眉根を寄せた。彼女は私と目が合うと、余裕たっぷりにこう言うのだ。『わたるの後輩? 可愛いねー。あたしは渉の――』

「ああああっ!」

 頭をぶんぶん振って、脳裏に焼き付いたあの人言葉を振り払う。昨日からずっと、頭を離れなかった。

 私はまた、ため息一つ。

「彼女かぁ……」

 あの女の人は、宮田先輩の、彼女。

 彼女居たんだな、知らなかった。どれくらい前から付き合っているんだろう。どれくらい前に知り合い、どれくらい前に仲良くなり、どれくらい前から名前で呼び合っているのだろう。

 綺麗な人だった。勝ち気そうな表情が魅力的で、気が弱い宮田先輩とは正反対にみえるが、むしろそれがお似合いだった。

 目があった瞬間、負けたとすら思った。女として、何一つ私は彼女に勝てるものがない。

 昨日、受験の為に吹奏楽部を引退してしまった宮田先輩と廊下で会った。久しぶりに会えたことで私は舞い上がっていたに違いない。

 そこに彼女が現れたのだ。呆然とした。

 好きだった。宮田先輩のことが。だからといって、なにもしていない。ただ好きだった。彼がいたから、辛い練習にも耐えられた。あの笑顔が私に向くだけで、嬉しかった。でも、なにもしていない。

 私の気持ちは、私以外の誰にも知られていないはずだ。アプローチしたこともないし、友達どころか誰に話したこともない。特にそれほど仲良くもない、同じパートの先輩と後輩、というそれだけの関係を維持した。そしてこれからも、そう。後半年もすれば宮田先輩は卒業していき、会うことも滅多になくなる。私のことなんて忘れるだろう。私も、忘れるのかな。

 考えると、怖くなった。

 そうだ、宮田先輩は私の気持ちを知らないんだ。もしも私が忘れたら、私のこの気持ちは、誰も覚えてない。誰も知らない。誰も知らないなら、無かったみたいになっちゃうのかな。

 胃がきりりと痛んだ。背中を丸めて唇を噛みしめる。頭が重い。

 もう一度、地面を見下ろしてみる。吸い寄せられそうだった。

 ふと視界の端に赤色が見えた。

「風船……?」

 駐輪場の脇にある、子供用の小さな公園の木に、赤い風船が引っかかっていた。紐が葉っぱに絡まっている様だ。

 何の気なしに、取りに行ってみようと思った。ほとんど部屋着でカーディガンだけ羽織りマンションの外へ。敷地内の公園に足を踏み入れる。

 公園とはいってもブランコと鉄棒と砂場しかない。それでも、土曜日の昼間ともなればブランコで子供達が遊んでいた。

 この子達の風船だろうか。そう思ったけど、みんな風船になんて見向きもしていない。私は隅っこに植えられた木の下へ。

 手を伸ばしても、届きそうになかった。

「うーん……。木登り練習しとけばよかったなあ」

 どうしたものかと首を傾けた途端、びゅう、と大きな風が走り抜けた。木の葉がざわめき、風船が飛んでいく。遠ざかっていく赤色を、反射的に追いかけた。しぼみかけているのか、風船は低いところを半ば転がるように飛んでいく。

 駆け寄ってみると、紐の先端に折りたたんだメモのような物が結んであるのがわかった。

 俄然わくわくしてきた。

 だってあれでしょ。宝の地図とか、誰かへの秘密のラブレターとか、不思議の国への招待状とか、見知らぬ誰かとの文通とか。

 私だって、憧れたことぐらいある。名前と住所を書いたメモを付けた風船を飛ばすと、偶然見付けてくれた人から手紙が届くのだ。

 この風船を飛ばした人がもしもそんな事を考えていたとしたら、返事を送ってあげたい。

 手を伸ばすと、また強い風が吹いた。

「うわっ! ちょっとまってってば!」

 説得を試みるけれど、風船は容赦なく飛んでいく。ふわふわと大きな道路を真っ直ぐ進む。

 風船は、人も自転車も自動車も全部すり抜けて奇跡みたいにどんどん先へ。

 私は信号に阻まれて足踏みした。

 小さくなる赤と、歩道橋、それから私の黒いスニーカー。順番にちらりとみて、私は地を蹴った。

 歩道橋を駆け上がり、排気ガスの上を疾走する。

 なんでこんなに、必死になってるんだ。たかが風船一個だ。あのメモだって、白紙かもしれないし『バーカ』なんて書いてあるかもしれない。

 ここまでして、人目も気にせずに髪を振り乱して、私はどうしたいんだ。

 どうせ、追いつけっこない。どうせ私が歩道橋を渡り終わる頃にはどこかへ行ってしまっている。諦めたらいいのに。

 宮田先輩の事だってそうだ。諦めるしかないんだ。私なんかじゃ、だめだ。

 私は、彼が好きだ。私の隣には、宮田先輩が居て欲しい。でも、宮田先輩の隣は、私じゃ駄目だ。私なんかじゃ、駄目なんだ。

そもそも、宮田先輩が私のことを好きになってくれる筈がない。もし私が懸命にアピールしたって、彼は私のことなんか見てくれない。ブスだし頭も悪いし運動も出来ないしフルートだって下手くそだ。好きになって、だなんて厚かましい。

 太陽が照りつけてきて、汗が滲む。苦しくて上手く息が出来ない。

「やる前から諦めちゃ駄目だよ」

 そう、宮田先輩に言われたことがあった。じゃあ、諦めなかったら、私は宮田先輩の彼女に、なれたのかな。告白したら、私は彼の彼女に、なれたのかな。

 肩で息を繰り返しながら歩道橋の最後の階段を下りきる。目頭が熱い。喉の奥がしょっぱい。

 辺りを見回すと、赤色はまだ私の目の届くところにいた。

 小学生の時、告白した相手がこう言いながら友達と笑い合っているのを聞いたことがある。

「迷惑だよ。あいつに好かれたって、全然嬉しくない」

 そうだよね。私の『好き』はただの迷惑。知られない方がいい。なかったことにしちゃわなくちゃ。

 風船に手を伸ばす。後数センチ。

 私の好きな彼のことを、私は信用できてない。

 だってたぶん、宮田先輩もそうなんだ。私の本気の告白を、どうせ彼だって笑うんだ。笑いものにするんだ。

 宮田先輩の顔が、声が、頭を過ぎった。

 本当に、そうなのかな。彼はきっと――。

 伸ばした指先が風船の紐に触れた。

「届いたっ!」

 思わず叫んだ。心臓がうるさい。カーディガンの裾で目元を拭った。

 紐を手繰ってメモを取り外す。長細く4つに折られた白い紙を広げると、黒のペンでごく短い文章が綴られていた。

――拝啓どこかの誰か様。

 その前置きの下には、たった一文だけ。やけに整った小さな字だった。

『あなたが幸せでありますように、祈っています』

 紙の隅っこに、下手くそな猫だか犬だかの絵が添えられている。

 笑ってしまった。

 馬鹿げたことをする人もいるものだ。

 俯いて文字を眺めていると、柔らかい耳障りの声がした。

「あ、香坂(こうさか)さん」

 香坂、とは私だ。

 焦って面を上げると、宮田先輩が立っていた。

「こんな所で会うなんて珍しいね。どこか行くの?」

 にっこり微笑んで首を傾げる彼に、私は言葉を返せない。

 私の様子をどう勘違いしたのか、宮田先輩は申し訳なさそうに瞬きした。

「あ、ごめんね、急いでた? じゃあまた」

 手を振られた。宮田先輩は私の横を通り過ぎる。どうしよう。行かないで。

「宮田先輩!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 私は今、ボロボロだ。すっぴんで、コンビニに行くような服装で、髪もボサボサ。汗までかいている。

 それでも、今を逃したら一生言えない気がした。今言えなかったら、私の気持ちは、一生誰にも知られずに、無かったみたいになってしまうんだ。

「ど、どうしたの……?」

 心配そうに眉尻を下げて、私の顔を覗き込んでくる。その茶色っぽい目を、私は真っ向から見返した。たぶん、初めて。

 乾いた唇を舐める。唾液を嚥下して、まだ整いきっていない呼吸の合間を縫って口を開いた。

「昨日彼女いるって知って、ショックでした。――私、宮田先輩の事、好きです」

 声にしたら、その綺麗な響きにびっくりした。

 宮田先輩の目が見開かれる。

 私はこれから振られる。なのに胸が、つかえが取れたみたいに軽くなった。

 拝啓どこかの誰か様。

 今私は、どうしたことか幸せです。


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