窓越しの彼女 後編
『ココアとアップルパイ』
それからしばらくの間は、毎日大銀杏に顔を出すのが日課になっていた。俺が行くと、いつも彼女はいた。じっとICUの窓の中を覗き込んでいた。大銀杏の枝の上では、他愛ない話をするのがいつものパターンだった。俺は昨日見た映画が下らなかったとか、キャンパスの学食がまずいとか、そんな話ばっかりだった。彼女は、あの明るいしゃべり口と声色に反して、アタシは何にもしてないから、話すことがない、といつも聞き役に回りたがった。
「いーじゃん!敬くん、ガンガン話してよ。これは先輩の命令である!先輩の命令はきくべし!きくべし!!きくべしっ!!!」
そういって景気よくスパーンと俺の肩を叩いた。しかし俺は、そろそろ彼女の話も聞きたくて仕方なかったので、無難なところから探ってみることにした。
「そういや、由里子さん、いっつも制服じゃん。他の服、着ないの?」
彼女の制服は紺と白のセーラー服で、今はもう夏だと言うのに冬服のままだった。彼女は、ニヤリと笑って、答えた。
「おっ、ナニナニ?アタシの私服姿が見たいって?そりゃ10年早いってモンよぉ~!アタシがばっちりコーディネートして来たりしたら、敬くん、キミ鼻血ブー、モンよ。ん?見たい?そうかそうか、年頃の少年はそういう刺激が欲しいか。」
なに、年下の格好して言ってんだか。
ヲホホホ、と彼女は笑って、
「ま、そのうちにゃ。」
結局、はぐらかされてしまった。
「いや、いいって。別に。見たいって言ってないから。」
「なにっ!聞き捨てならんな!よーし、わかった!今度は水着で来てやるもんね!思い知れよ~、由里子さんの悩殺ショットを~~~!・・・て、ウソつきました。ごめんなさい。」
「ハイハイ。ま、そのうちね。」
俺は笑って彼女の頭をポンポンと叩いた。彼女は「また先輩に~!」とか言ってプリプリ怒っていたが、まぁそれもいつものおふざけだ。
「じゃ、由里子さんの好物っちゃ、なに?」
ころっと機嫌が直って、彼女はニッとこっちを向いた。
「好物ぅ?いろいろあるかんね~。う~ん。」
と、彼女は指折り数え始めた。あれとこれと、あれもこれも、と10本の指では足りないくらい数え始めたので、全部聞くつもりはなかった俺はその行為をさえぎって、言った。
「一番好きなもの2つだけ!」
「えっ!2つ?!2つかぁ~。そうなると~~~、やっぱアレかな。ココアとアップルパイのセット!ホラ、和泉町の大通りにジュリアンってケーキハウスあるじゃん!あそこのココアとアップルパイのセットが、たんまらなく美味しくってさぁ~。もうね、昇天モンよ。ホント、ホント!」
俺はそれを聞いてげんなりとした。
「うっわー、ココアとアップルパイ。どっちも俺、大嫌いだ…。想像するのもやだね。ココアなんて粉っぽいしさぁ。甘ったるいだけで。アップルパイがまた、あの酸味と食感がもうダメ!よくあんなもん食うよな、って思・・・」
と、ここまで話したところで刺すような視線を感じて、俺はたじろいだ。
「ナニ!?ちょっと!そこまで全否定すんの?!ええ?!敬くん、ココアとアップルパイの精に謝ってよね~!許せないよ、それは!ムキー!」
わかった、わかった、悪かった、と俺が言うまで、彼女にポカポカと殴り続けられた。しかし、その後彼女は、ふと落ち着いて遠い目をした。
「でもねー、ココアはさ、アタシの姉ちゃんもすっごく大好きでさぁ。二人でよく、飲みにいったんだぁー。美味しかったよー。」
“いった”という過去形がふと気になって、思わず俺は聞き返した。
「へぇ、由里子さん、お姉さんいるんだ。」
ふぅ、と突然彼女は大きく息を吐いて、その後、またニッと笑って言った。
「いた、ってのが正解だけどね。もう死んじゃった。アタシが17の時に自殺しちゃったの。」
俺は慌てて謝った。
「ご、ごめん。ヘンなこと聞いて…」
彼女はいつも通りに笑って肩をすくめた。
「いいのさー、それはそれで。」
彼女はまた何かを思い出すような遠い目をしながら続けた。
「自殺だったけど、半年経ってお母さんの夢に出てきたんだって。今は幸せだから安心して、って。なんか、誰かに幸せにしてもらったんだって。お母さんは今でもその夢を信じてる。アタシもそれでいいと思う。だから、全然いいの。」
「そう、それならよかった。」
俺には、それしか返す言葉がなかった。身内の死に、俺は直面したことがない。そんな俺に、彼女にかける最適な言葉など、見つかるはずもなかった。
『来訪』
季節は夏から少しずつ、初秋の薫りを漂わせ始めた。蒸し暑い真夏の夜が、ほんのりと涼やかな風に変わり、朝夕が過ごしやすくなった頃、俺はトレーニングの成果を少しずつ発揮し始めていた。
まず、今より早く飛ぶこと。これは、かなり上達したと思う。自分なりのコツを掴んだと言うか、人が泳ぐようにではなく、魚が泳ぐような、そんな感覚。今では彼女と同じくらいの速さで飛ぶこともできたし、もしも黒影法師と出会っても、遜色なく張り合える気がしていた。
次に、物にさわれること。これはなかなか進まなかったが、そこに「ある」と言った彼女の感覚は、なんとなくわかるようになってきた。目とか気とかじゃなくて、なんとなく自己暗示みたいなもの。まだ枝に腰掛けることはできなかったけど、葉っぱを揺らす程度は時々できるようになった。別段、これができたからと言って何をするわけでもないし、したいことがあったわけでもない。けど、彼女や黒影法師ができて、俺にできないのは少々癪に障る。まぁ、これはそのうち感覚がつかめるさ、程度にしかやってないので、こんなもんだろう。
俺は彼女と大銀杏でよく会い、相変わらず下らない話をしていた。ただ、彼女は会いに行くと決まってそこにいて、俺が帰ってもまだそこにいる。時間が経ち過ぎると切れちゃうよ、という彼女の言葉を考えると、随分長い時間、彼女は大銀杏に腰掛けているような気がするのだが、それについて言及したことはない。
今日も相変わらず、ICUの窓をじっと眺めながら腰掛けていた。
「よー、今日は遅かったじゃーん、おめかしでもしてたの?ん?」
俺が近づくのを見つけた彼女は、右手をパタパタと振っていつものニッという笑みを見せた。
「なわけないっしょ。テスト期間中なんですー。高校生はないのかよ、中間テストとかさ。こっちは夏休み明けからガッツリ勉強しないと、前期テストで単位落としちゃうんだって。能天気だなー、相変わらず由里子さんは。」
そう、もうすぐ俺たちは前期末のテスト週間なのだ。これが終わると、前後期間の休みがたっぷりあって、またのんべんだらりとしたキャンパスライフが始まる。その前の試練だ。とりあえず今は、ノートの貸し借りとコピーに全力を尽くしている状態だが、もう少ししたらもっと真剣に勉強しないといけない。
「なっ!能天気とはご挨拶ねぇ~!アタシだって色々悩みやら忙しいことやら、山ほどあるっての。あー、ツライツライ。敬くんにはわかんないツラさよ~。」
そういって、こめかみに指を当てて左右に頭を振った。冗談っぽくはしていたが、その後、ポツリと呟いた。
「…マジでさ…」
俺はいつもの彼女から、ちょっと違和感を感じて思わず黙りこくってしまった。
少しの沈黙が訪れた後、俺ははっと思い出したように聞いた。
「あ、そうだ。由里子さんに聞きたかったんだよ。」
「?ナニ?スリーサイズ以外なら、万事解決したげるよ~。」
片目をつぶって親指を立て、OKマークを出しながら彼女がニヘッと笑った。
「なに言ってんの。いらないって、そんなの。じゃなくてさ、この浮遊って昼間でも問題なく出来るの?陽の光に当たると溶けちゃうとか、そういうのナシ?」
「はぁ?敬くん、ドラキュラぁ?溶けちゃうワケないじゃ~ん。昼寝しなよ、コツを知ってるなら全然問題なく浮いちゃうからさ~。問題なのは時間と距離くらいのモンだって。単に夜、寝るからソッチの方が多いってだけ。昼、飛んでご覧よ。それはそれで気持ちイイよぉ~。」
彼女は、ブーンと言いながら飛行機のように空を飛ぶマネをした。
「へぇ、そうなんだ。それにしても、夜が多いって言ったって、俺、他に飛んでる人、見たことないんだけど。」
「ん、まぁね。浮くようになるには、結構大きなキッカケとかコツとか要るみたいだから。そんなに沢山はいないよ、つーか今んトコ、アタシも数えるほどしか知んない。」
彼女は、俺の方を見てニッと意地悪く笑い、
「だから、しゃあなし敬くん相手でガマンしたげてるってワケさぁ~。しゃあなし、しゃあなし。イヒヒー。」
俺は、ふっと鼻で笑って言い返した。
「そりゃどーも。ありがてぇ、ありがてぇ。」
「うむ、感謝したまえ。」
彼女に皮肉は通じない。それが「素」だからこそ、それがいい。
翌日の晩、新月の夜、俺は試験前のノートまとめで少し遅くまで、一応勉強らしきことをしていた。コーヒーのカップを左手に、カリカリと要点をまとめる。ずずっ、とコーヒーをすすって、脇に置くと、はぁ~、とため息をついた。今日は彼女に会いに行く時間はなさそうだ。そう思って、うーん、と背伸びをした時、
トン
と窓ガラスが鳴った。空耳かと思うくらい、小さな音だった。少し間を空けて、
トン トン
と再び窓が鳴った。いる。これは間違いなく黒影法師じゃない。とすると、誰?もしかして?そう思ったとき、テーブルの左隅に置いたコーヒーカップがすすーっと右に移動した。俺は大体見当がついた。よっこらせ、とベッドに横になり、俺は瞬く間にすーっと眠りに入った。
「ほら、やっぱり、由里子さんじゃん。」
部屋の中で待っているのは申し訳ないとでも思ったのか、彼女は窓越しにしゃがみこんでこっちを見ていた。ニヘッと笑ったが、いつもの屈託のない笑いからは程遠く、何か引きつったような感じだった。
「よ、お邪魔かなぁ~…」
彼女は右手をあげると、申し訳なさそうにそう言った。
「いや、別に全然構わないけど、、、中、入んなよ。」
俺はそう言って、テーブルの方に招き入れるように指差した。
彼女はそうぅっと窓ガラスをすり抜けて、お邪魔しまぁ~す、、、と言いながら入ってきた。彼女は座椅子に縮こまるように腰掛けた後、へへー、と照れくさそうに、でも少し哀しそうに笑った。
「どしたの、なんかあった?」
俺がふゆふゆと部屋の中を浮遊しながら聞くと、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「あのさぁ、ちょっとココにいてもいいかなぁ…。ダメ?」
よく見ると、彼女は小刻みに震えていた。
「え?いや、全然。俺は構わんけど。ナニ。なんかあったの?」
「えへへー、いやまぁどうってことないんだけどさ、ちょっと今日はね、ココの方が安心できるかなぁって。」
彼女は、しかめっ面をムリに笑顔にしたようなぎこちない顔だった。あまりそれ以上しゃべりたくもなさそうだったので、俺は深い詮索はナシにしておくことにした。
「ふーん、ま、いいよ。時間いっぱいまでいるといいさ。話し相手になろうか?それとも放置がお望み?」
「うーん、じゃ、なんか話して。」
それから数時間、俺は彼女と他愛もない話をした。彼女は楽しそうに笑ったが、その仕草のどこかに、何かの影に怯えるような空気を、俺は感じていた。
『死神』
「もう、ここにきて6時間経つよ。そろそろ時間、ヤバいんじゃねぇの?」
俺は時計を見て、今が朝5時であることを確認して言った。
「うーん、大丈夫。アタシ、鍛えてっからさ、もうちょっと大丈夫なのさ~。できたら陽が登るまで、、、いちゃダメかな…。」
彼女は上目遣いに、少し懇願するように俺を見ながら、膝を抱いた。
「いや、俺は構わんよ。でも、時間制限も鍛えたりできるもんなんだー。知らなかったなー。」
「え、ああ、えと、そりゃもうスッゴク難しいからさ、敬くんにはまだまだムリムリ!とんでもムリ。絶対ムリ。」
彼女は慌てたように、両手を振ってダメダメという仕草をした。その後、彼女はじっと何かを考えている風に黙り込んだ。長い沈黙。耐え切れず俺が話しかけようとしたその時、彼女がぱっと顔をあげてニッと淋しそうに笑った。
「敬くん、やっぱアタシ、もう帰るわ。長居してごめんねぇ~。」
そういって、座椅子からすくっと立ち上がった彼女は、スタスタと窓に向かい、窓際でくるっと振り返り、
「んじゃ、あんがと。ばいび~」
そう言って、すいっと窓ガラスをすり抜けて行った。
突然現れて、突然去って行かれた俺は、何か釈然としない思いを胸に抱えながら、彼女が消えて行った窓ガラスを眺めた。大きくため息をついて、俺はなんとなく窓ガラスに近づき、顔だけをすっと外に押し出した。その時、
「いやーーーーーっ!」
俺はビクッとした。悲鳴?!何?彼女の?俺は慌てて外に飛び出し、周囲を見渡した。彼女の姿は見えない。俺は猛スピードで上空に飛び上がり、もう一度周辺を見渡した。
「いやーーーーっ!行きたくなーーーいっ!」
北西の方向!彼女の声!俺は声のするほうに猛然と飛ばした。その先に、黒い点のように何かが蠢くような影を見つけた。スピードを上げて接近すると、そこには彼女がいた。いや、彼女だけじゃない。
もう一つ、大きな黒い影。えも知れぬ恐怖を感じさせるような、禍々しい漆黒。
大きな黒いボロボロのマントを広げたような、彼女の2~3倍はあろうかという漆黒の影は、そのマントの先から黒い鞭のような長いものを伸ばして、彼女の左手に絡めていた。そして、マントを大きく広げて、まるで今にも彼女を飲み込まんとするようにバァッと広がった。
俺は、猛然と彼女に近づいた。俺に気付いた彼女は、泣きながら叫んだ。
「敬くん!助けて!アタシ、行きたくないっ!」
俺は、その黒マントへの恐怖のような感情と、そして今、何をどうしたらいいのかわからずに、その場で目を見開いたままでいた。紛れもなくその漆黒の影は、地獄の底の恐怖を具現化したもののように見えた。俺の体はすくんでいた。
再び、彼女の叫び声が聞こえた。
「敬くんっ!敬くんっっ!」
はっと、俺は我に返った。俺は、無我夢中で恐怖を振り払い、彼女に近づいた。大きく手を振りかざし、彼女の左手に絡みついた暗黒の鞭を、ぐっと強く握り締めた。
その瞬間、俺の手から電気のようなものがビリビリと流れ出すように光り、鞭は驚いたように彼女の手に絡めていたそれをするするっと緩め、引っ込めた。
漆黒の影は、ゴォォォォと唸るような声を上げて、目のないその大きな影のまま、俺を睨むように見据えた。
その時、確かに聞こえた。低く、地の底から響くような声が。
「イ キ タ モ ノ ガ !」
俺は、彼女を庇うように背に隠し、影を睨んでいた。全身から汗がぶわっと噴出す感覚が俺を包んだ。ものの数秒だったと思うが、俺には数十分にも感じた長い睨みあいの瞬間だった。
東の空が明るくなり、陽の光のかけらが俺の背中を射抜いた。それに気付いたか、漆黒の影は、しゅるしゅると音を立てるように渦巻状に収縮していき、その大きさをだんだんと小さくしていった。じっと動かない俺と彼女の前で、その影は渦巻きの中心に吸い込まれていくかのように小さくなっていき、やがてすぅ、と消滅した。
俺は、汗まみれの胸を大きく動かし、最大限の深呼吸をした。俺の背中で、彼女は震えていた。深呼吸を2~3度繰り返して、落ち着きを取り戻した俺は、振り返って彼女の両肩をしっかりと掴んだ。
「由里子さん、大丈夫?」
彼女は、まだ小さく震えながら、コクコクと頷いた。陽の光が強くなってくる。段々と明るくなってきた街の上空で、俺はじっと彼女の肩を支えていた。
『嗚咽』
彼女の落ち着きが戻るまでに、まだ少し時間を要したが、俺は気がつくと自分が浮遊するタイムリミットに迫っていることを思い出した。取り急ぎ、彼女を抱えたまま俺はアパートに戻り、彼女を座椅子に座らせた後、今にも呼吸の止まりそうな俺の本体にすぅと戻った。
目を覚ますと、朝の8時を回っていた。体が異様にだるかった。全身に血液が回っていないような、そんな感覚だった。麻痺したような体をゆっくりと起こして、辺りを見回した。何も変わったことはない。
そうだ、彼女は?彼女は、どうしたろうか。自分の体に戻るのが精一杯だった俺は、彼女を座椅子に座らせたところまでしか覚えていなかった。きょろきょろと周りを探すが、生身の俺に見つけられるはずもない。はぁ、とため息をついてテーブルに目を落とした。
そこにある俺のノートの隅っこに、小さな、しかし丁寧な整った文字を見つけた。
帰るね。
そう書いてあった。
俺はひとまず安堵した。彼女は自力で出て行ったのだろう。疲れた目をしばたかせながら、俺はとりあえずもうひと眠りすることにした。脱力感でいっぱいだった。
昼過ぎに目を覚ました俺は、もう体力が回復していた。体に不安がなくなると、次には昨晩のことが色々と思い出された。
あの黒い影は何者だったのか?何故、彼女を連れて行こうとしていたのか?どこへ?何のために?彼女は「行きたくない」と叫んでいた。つまり彼女は、行き先を知っている。新月の夜。漆黒の影。陽の光での退却。そして、俺に対する「イキタモノガ」の言葉。他にも、彼女自身の今ひとつ不明な素性。俺は、それから数時間、じっと考えた。
その日の晩、俺はそれまでの考えを可能な限りでまとめると、彼女が心配になって、少し早めに大銀杏に向かった。彼女はまだいないかもと思ったが、大丈夫、彼女はいつもの場所に、いつものように腰掛けていた。彼女は俺を見つけると、いつもの笑顔でニヘッと笑い、
「はっやいじゃ~ん!どしたの~?アタシのことが、そんなに心配だった~ぁ?困っちゃうなぁ~。人気者って、罪。えへっ。」
ペロリと舌を出して、彼女はいつものように明るく振舞った。俺は憮然として言った。
「心配したって!なんだよ、あれ!俺、めっちゃ怖かったじゃん!」
「まぁまぁ、そう言わないでさ。お座りな。ホレ、ホレ。」
俺は彼女の横に腰掛けた。気がつくと、自然に枝に腰掛けることができていた。俺は、急かすように彼女に質問した。
「教えろって。アレ、なに。どういうことなんだよ?」
彼女は、少し俯いて顎を人差し指をトントンと叩くと、ニッと笑って言った。
「アレ?アレね~。アレはぁ~、つまり~、悪いヤツ!」
「は?」
「そう!悪いヤツ。これがさぁ~、とんでもないことに、アタシに惚れちゃっててさぁ~。無理やりアタシをさらって、お嫁さんにしようと!しちゃってるワケよ~。」
俺は、じっと彼女の顔を見ながら黙って聞いていた。
「そんでさ、昨日は、イヤだっつってんのに、強引にお姫様をさらおうと強硬手段に出ちゃったりしたわけよ~。で、アタシが、イヤーって言ったら、そこに颯爽と王子様が現れちゃった、っての。かぁっこイイ~ぃ。ね?で、えいやっと悪いヤツを退治してくれちゃった、ってスンポーね。いやぁ~、ホンット、人気者って、罪。えへっ。」
俺は、じっと彼女の顔を見つめた。彼女は意気揚々と話し終えたが、俺が黙って見つめているのに気後れしたように、目をそらした。
「えと・・・あ、ありがと。」
ぼそっとそう言うと、軽く内側にカールした少し長めの髪をいじり始めた。
俺は、じっと彼女の顔から目を離さずに言った。
「ウソだろ。」
彼女は、驚いたように顔をあげて、慌てて言った。
「え、ホント。ホントに感謝してるって。」
俺は首を振った。
「ありがとうは、ホントってわかってる。じゃなくて、悪いヤツの話。それ、ウソだろ。」
「・・・」
彼女は、下を向いて黙ってしまった。どう答えていいか、迷っているようでもあったし、なにか小さな勇気を振り絞っているようでもあった。
俺は、大きく一息、息を吸って、ゆっくり吐いた。
「由里子さん、じゃ、俺の推測だけどさ、、、言っちゃうよ。」
彼女は、視線だけを俺の方に少し向けて、また下を向いた。俺は、そのまま続けた。
「まず、昨日会った黒マント、あれって死神、ってそう言っていいのかわかんないけど、そんなもんじゃないの?魂を黄泉の国に連れて行くような存在。」
彼女は、何も反応しなかった。俺はまた息を一つ吐いて、言った。
「そして、由里子さん。由里子さんは、」
彼女がぴくっと首を動かした。
「もう、死んでるんじゃないの?」
長い沈黙が続いた。
彼女は、すうと息を吸い込んで、大きく吐いた。そして、ポツリと言った。
「バレちゃった…」
そして、不意にクスッと笑って、大きく上を向いて言った。
「あーあ!バレちゃったぁ~!死人だなんて、思われたくなかったなぁ~っ。気味悪いでしょ?ねぇ、敬くん。」
思い切りの笑顔で、俺の方を向いたあと、突然大きな瞳からポロリと涙をこぼして、涙声で続けた。
「敬くん、気味悪くなっちゃうじゃん。アタシ、ただの幽霊じゃん。ゾンビじゃん。」
その声には涙が混じっていた。ぐすっ、と大きく鼻をすすって、制服の袖で涙をぬぐった。そして、意を決したように涙目のまま、ニヘッと笑って言った。
「アタシ、死んでんの。死んじゃってんの。もう、戻る体はないの。」
そして、少し真顔になって俺に問いかけてきた。
「気味悪いでしょ?気味悪いよね?気味悪いって言って!」
俺は、真剣な顔で、できるだけ真摯な姿勢で、できるだけ心から、力強く叫んだ。
「気味悪くなんか、ない!」
もう一度、確認するように、力を込めて言った。
「気味悪くなんか、断じてない。」
彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれた。そして、嗚咽した。
俺は、彼女の嗚咽がおさまるまで、じっと、じっと待ち続けた。
かなりの時間が経った後、二人の空間は落ち着きを取り戻した。そうして、彼女はポツリ、ポツリ、と語り始めた。
『過去』
「アタシねぇ、事故死なの。」
彼女はゆっくりと話し始めた。俺は、全てを受け止める気構えで、しっかりと落ち着いた聞き手の姿勢で頷いた。彼女は、安心したように、しかし、何から話したらいいか迷うように、途切れ途切れに続けた。
「2年前になるかな。アタシ、18歳だった。高3の花も恥らう乙女。」
彼女は自嘲気味にクスッと笑った。
「チャリンコでね、学校から帰ってたの。そう、あのジュリアンのある大通りだったな。自殺したお姉ちゃんのことを思い出しながら、ちょっと悲しい歌を鼻歌で歌いながら走ってた。
その時、突然後ろからドォン!って大きな衝撃で背中を突かれたような気がしたの。何かわかんないけど、アタシその時、ふわっと自分の体が浮いたような気がしたわ。そしてそのまま宙に浮かんでるの。体が動かせなくて、一生懸命動かそうとするんだけど、宙に浮いたまま動かせなくて。
それで、ふと下を見たら、アタシのチャリンコが歩道と車道の間に倒れてんの。そこからちょっと視線を動かしたらね、アタシが車道で倒れてんの。見たこともないくらい、血がいっぱい流れてて、アタシどうしたらいいかわかんなくて、、、」
彼女は、ときどき思い出すように言葉を区切りながら、淡々と続けた。
「周りにいっぱい人が来て、救急車が来て、アタシを救急車に担ぎ入れてんの。アタシ、待って!って言ったんだけど、誰にも聞こえてないの。待って!アタシ、ここにいるの。行かないで!って。
でも、そのまま救急車は走って行っちゃった。隊員さんみたいな人が、県病院、って言ってたのだけ聞こえたから、アタシ動かない体を必死で動かしたわ。這いつくばるように、平泳ぎするように、ほふく前進するように。
なんとかじりじり動くようになって、一生懸命病院まで行ったの。すごい時間がかかったわ。どれくらい経ったかわかんないくらい。
で、病院に着いたらね、アタシの手術みたいの、終わったらしくて、アタシの体、ICUに入れられてたの。いっぱい器具付けられてさ、輸血とかされててさ。包帯ぐるぐる。ミイラみたい。」
笑っちゃうわよね、とつぶやいて彼女はまた記憶の世界を語り始めた。
「アタシね、元に戻ろうと思って必死でICUの入り口まで行ったわ。でも、入れないの。何でかわかんないけど、入れないの。扉が空かないからだと思って、誰かが出入りする時に一緒に入ろうとするんだけど、見えない壁みたいなのがあって、どうしてもそこから入れないの。ここは入っちゃダメなとこみたいな気がして、2重の自動ドアが両方開いても、見えない壁で入れないの。
アタシ、仕方ないから窓の外からじっと中を見てたわ。中の会話は少しだけ聞こえるの。お母さんがさ、しょぼんとアタシの体の隣に座って、泣いてるの。お父さんが入ってきて、お母さんと抱き合って泣いてるの。
アタシ、何度も入ろうとしたけど、ダメでさ。自動ドアと窓を行ったり来たりしてたわ。夜が来て、朝が来て、また夜が来るまで、繰り返したの。長かったなぁ、あの時の時間。
3日目の昼にね、お父さんとお母さんと、お医者さんらしき人が話しているのが聞こえたの。
『お嬢さんは、現在、脳死状態です。』って。体のケガは致死状態までは行ってなかったみたい。でも、脳は死んじゃってるんだって。機械でかろうじて生命を保ってるんだって。
ね、敬くん、知ってる?臓器移植って。脳死状態での臓器の方が新鮮でいいのかな。いっぱい使うところがあるみたい。未成年者の脳死状態での臓器移植って、両親の承諾でできるんだって。
アタシね、お姉ちゃんが死んでから、ずっと人って死んだら灰になるだけって実感があったの。だから、それ以来、お父さんとお母さんには、ことあるごとに『アタシが死んだら、アタシの臓器なんか、バンバン移植に使ってもらってね』って強く言ってたの。
お父さん、お母さんも、それは理解してくれてたからさ、ちゃぁんと脳死状態からの臓器移植、話が進んじゃったみたい。アハハ、アタシはここにいるのにね。コレ、新聞にも載ったのよ。未成年者の脳死状態での臓器移植、日本で3例目、ってね。アタシ、有名人なんだから。」
彼女はまた自分で自分を笑い飛ばした。そうでもしながら話さないと、ちゃんと話し続けられない、そんな感じだった。
「それからアタシの体はさ、もう見事に小分けされちゃったわ。心臓とか、腎臓とか、目ン玉とかね。ぜーんぶ出しちゃって、綺麗に閉じてくれたから、見た目にはキレイなもんだったわ。お葬式ん時は、もう綺麗に化粧もしてくれてたから、全然不満はないの。逆に、アタシの体が、誰かの役に立ってると思ったら嬉しかったわ。ま、そうは言うけど、嬉しかったなんて思えるようになるまでには、随分泣いたけどねぇ。」
グスッ、と彼女は鼻をすすった。
「アタシが死んじゃって、灰になるまでの話はこれでオシマイ。それが2年前。それからずっと、アタシはこの状態でやってきた。だからベテランって言ったでしょ?」
俺はそこで初めて納得した。だから高校生で、“延べ20歳”だったんだ。
「それからはもう、退屈だったわ。ふわふわ飛ぶのもすぐに飽きちゃうし、誰にも何も話せない。何にもさわれない。自分の存在自体を、誰にも認めてもらえない。アタシは、京本家のお墓の中に入っちゃったんだもん。お姉ちゃんの遺影と一緒に、仏壇に並んでるんだもん。
お父さんもしょんぼりしてるし、お母さんはずっと泣いてるし、アタシここよ、って何回叫んでも聞こえないの。お母さんがアタシのためにカレー作ってくれてるのに、アタシったらスプーンすら触れないの。
それから1ヵ月経った頃の新月の夜だったわ。敬くんの言う“死神”がアタシの前に現れたのは。アタシもう、直感したの。コイツはアタシをどこかに連れて行こうとしてるって。それが天国でも地獄でも、それは絶対にいやだった。だから逃げたわ。逃げて、逃げて、隠れて、逃げて。月に一回、新月の晩はいつもそうだった。
アタシ、飛ぶの速くなるのはすぐだったから、結構逃げ回れたの。本当に捕まりかけたのは今回が初めて。怖かった。敬くん来てくれなかったら、アタシ連れられていってたと思う。すごい感謝してる。
アタシ、まだ捕まりたくないの。アタシの体は少しは人の役に立てたはずだわ。ホントのところはどうかわかんないけど。だから、この心も、最後は誰かの役に立って消えたいの。誰かのために消えたいの。ただ連れて行かれるのだけはイヤ。」
彼女は、首を何度も何度も大きく振った。
「だいたい話したかな。こんなこと、全部話したのは敬くんが初めてだよ。」
彼女は涙顔で、ニヘッと笑った。
「そういうわけで、アタシ、死人なの。幽霊なの。ゾンビなの。ホントに気味悪くない?」
俺は優しく微笑んで、念を押すように言った。
「気味悪くなんか、あるもんか。」
「そのうち、敬くんに取り憑いて、呪い殺しちゃうかもよ。」
「それもアリかもな~」
俺があっけらかんと言うと、彼女はケラケラと笑った。よかった、笑った。
彼女は、笑っているのが一番だ。
『事故』
なるほど、道理で彼女はいつ行ってもいるはずだ。俺より長い時間浮遊してても大丈夫なはずだ。というより、24時間、どこかで浮遊しているんだ。24時間、2年間、どんなにか孤独だったことだろう。
彼女がいつまでもICUを見つめ続けている訳も分かったような気がした。彼女は、同じような境遇の人が出ないか、ずっと監視していたのだ。その人を救うために。
彼女の過去が分かったからといって、彼女が死人だからといって、俺の行動に変わりはなかった。毎日、大銀杏に顔を出し、時には2人でビュンビュン飛び回って、最近では競争もできるくらいに速くなった。大銀杏の葉が黄色く色付いて、地面を染めるようになった頃、俺は彼女よりも速く飛べるようになった。
「次、死神が来ても大丈夫。連れて逃げちゃる。」
俺は、胸を張って言った。
「おおー、ちょっと前の新入り君が、いつの間にか偉そうになったもんじゃ~ん。ちょっとアタシより速く飛べるようになったからって、偉そうな顔はさせないもんね~。まだ浮遊歴半年じゃ~ん。アタシの1/4のくっせにさぁ~。半径10kmくらいしか動けないハンパモノめぇ~。女湯にも入れんクセにさぁ~。」
彼女は、ケラケラと笑った。
俺はこんな非日常な日常が、楽しかった。今のままが一番よかった。
でも、俺は成長する。彼女はそのまま。いや、本当に彼女がずっとそのままなのか、その保証も実は不明なのだ。
新月の夜、彼女は必ず俺のアパートに来た。“死神”とやらは、生者の幽体には手出しができないようだった。たまに追いかけられることもあったが、俺の自慢のスピードで彼女を連れたまま捲いてやった。ざまあみろ。
そうやって、いつの間にか俺が幽体離脱をするようになって、一年近くが経とうとしていた。今となっては、最初に死ぬほど怯えさせてくれたあの黒影法師にも、ありがとうと言いたい気分だった。おかげで俺は彼女と出会うことができた。
夕方、俺は上機嫌で街に買い物に出かけていた。出会って一周年記念で、彼女に何かを買ってあげるのが目的だった。本当はジュリアンのココアとアップルパイをあげたかったのだが、食品はさすがにムリだ。いつも制服なので服、という案もあったが、着替えるってのもなんだか現実的ではないような気がして、まぁここは無難に身につけるアクセサリーにすることにした。物にさわれるんだから、小さなものくらい身に付けられるだろう。
俺はセンスの良さそうなジュエリーショップで、小さなハートにブルーのタンザナイトが埋められた小洒落たネックレスを買った。いいじゃん、これ。と自賛しながら、浮かれ気分で大通りを歩いていた。
日も暮れて、信号待ちで交差点に立って、買ったばかりの小さな袋を眺めていた、その時、
ドォン!
突然、背中を突き飛ばされたような衝撃が走り、俺は宙を舞った。空中を何回転もしたような気がするくらいの衝撃だった。その時、俺には交差点の信号の上に黒い大きな影を見た。それが何だったのかは、全くわからない。俺はその衝撃の勢いで、気を失ってしまった。
救急車の走り去るけたたましい音で気がついた俺は、交差点の向かいの建物の中にまで入り込んでしまっていた。建物の中?なぜこんなところに俺がいる?少しの間、冷静に考えることができなかった。壁を通り抜けている。ということは、俺は今、幽体だ!慌てて道路に飛び出したときは、もう遅かった。
血の広がった横断歩道を警察官が調べている。人だかりが、何事かと言わんばかりに覗き込みながら歩いていく。遠くに救急車の走り去っていく音が聞こえる。
俺の体!俺はとにかく救急車の音がする方に飛んだ。飛び去る直前に、道路に落ちている小さな袋が目に入った。俺は急いでそれを拾うとポケットにしまい、大急ぎで救急車を追った。突然、救急車の音が止んだ。病院に到着したのだ。方向からいって、間違いなく県病院!
俺は急いで俺の体があるはずの県病院に向かった。俺が病院に到着した頃、俺の体は今まさに救急車から下ろされ、ICUと同棟にある手術室へと移送されていくところだった。とにかく、俺の体に戻らないといけない。ストレッチャーを追いかけて病院に入ろうとした瞬間、俺の体は見えない壁にぶつかって弾けとんだ。転がる俺の体を、何か柔らかいものが受け止めた。
「敬くん!どうしたの!?」
彼女だった。
「俺、俺、事故にあったらしい。俺の体が、今、手術室に入っていった!戻らなきゃいけないのに、ドアにぶつかって入れないんだ。見えない壁があるんだ!どうしてだ?!由里子さん!」
彼女は、眉間にしわを寄せて、呻くように答えた。
「ICU・・・、手術室・・・。同じ棟なのね。ここには入れない。何故かわからないけど入れない。無意識に入っちゃいけないと思っているのかもしれないし、違う何かが張り巡らされているのかもしれない。」
今度は逆に彼女の方がうろたえ始めた。
「ア、アタシん時と同じことになってる。敬くんが、アタシと同じことになってる!ダメ!早く戻らないと!脳死になったら取り返しがつかない!」
俺は、もう一度ドアから、窓から、壁から、中に入ろうと試みた。しかし、なにか見えない壁に阻まれて、どうしても中に入ることができない。
俺と彼女は、何度もICU棟の周りをぐるぐる回ったが、俺が入れる隙間は見つからなかった。
手術そのものはほとんど事無く済んだ様で、俺の体はそのままICUへと移された。俺の家族が意識を失った俺の傍らに佇んでいる。俺と彼女は、大銀杏からその様子を見ていた。事故で体から幽体が離れてから4時間。あと3~4時間のうちに戻らなければ、俺は脳死状態になってしまう。焦る俺に、彼女が聞いた。
「敬くん、念のために聞いておくけど、臓器移植のドナーカードとかって、書いてる?」
俺は自分の免許証の裏を思い出した。
「書いてる…。臓器を、提供する、と。」
彼女は両手で口を押さえた。どうしよう、といった風に目が泳いでいる。
「敬くん、脳死になった時点でもうダメかも知んないけど、それでも体が残されてれば何か望みがあるかもしれない。でも、臓器提供で体が切り裂かれてしまったら、もうどうしようもない!一番は、脳死する前に敬くんの体の中に意識が戻ること。でもそれと同時に、家族に臓器提供を拒否してもらうようにも伝えておかないと、取り返しがつかなくなるよ!」
俺は心臓の鼓動を手で無理やり押さえるように、グッと胸を押した。戻る?伝える?どうやって?幽体の俺は、今、ICUの中の家族に何かを伝える術はない。俺は握り拳を握り締めた。
その時、はっと俺の頭の中にある人物が浮かんだ。あの黒影法師だ。あいつは、生身の俺に笑い声を聞かせた。人に話しかける術を持っている。常識のなさそうなヤツだからICUにも入れるかもしれない。
「由里子さん!黒い、黒い影法師みたいな汚ねぇオッサン知らないか?こう、無精髭が生えてて、汚らしい格好をして、ゲヘヘヘっていう下品な笑い方をするヤツ!」
由里子は、はっと思い当たったように言った。
「もしかして、遺造さんかな。たぶんそう。それがナニ?」
「ヤツは人に話しかける力がある。非常識なヤツだから、ICUにも入れるかもしんない!頼むの、ヤだけど、とりあえず臓器移植を止める方法にはなるかも!どこにいるか、知らない?」
彼女は頭を絞るように考えていたが、自信なさそうに言った。
「よくわかんないけど、こないだ新しくできたラフィーネっていったかな、マンションの周りでうろついてた、気がする。」
「よし!探しに行こう!」
俺は、勢いよく飛び立った。残すは3時間。
『伝言』
俺は彼女の言っていたマンションの周りを何度も見回した。彼女も追いついてきて、一緒に探したが、黒影法師の姿は見当たらなかった。
「いない、いないね、敬くん。ごめん、当てにならない情報で。」
俺はキョロキョロと当たり一帯を何度も見渡した。
「なに言ってんの、由里子さん。何にも情報がないより全然マシ!ありがとね!」
そう言って、何度目かのマンションの前を通り過ぎた時、
四階の窓から、ゲヒヒヒヒッと下品な笑い声を上げながら抜け出てくる黒影法師を見つけた。
「由里子さん!いた!」
俺は急いで窓から飛び去ろうとする黒影法師に近づいた。
「すみません!えっと、遺造さん!ちょっと待って下さい!」
突然、呼び止められた黒影法師は、下品な笑みを浮かべながら振り向いた。相変わらず凶悪な顔をしていたが、今はそれどころではなかった。
「ゲヒッ?なんだテメェ、もう用はねぇっつっただろが。」
「すみません!折り入ってお願いがあるんです!遺造さんを見込んで、聞いていただけませんか!」
黒影法師は、意外な事を聞いた、という顔で聞き返した。
「あぁ?お願いだぁ?ゲヒヒヒッ!面倒臭ぇ、うせやがれ!」
そこへ彼女もやってきた。上目遣いの大きな瞳で、黒影法師を見つめた。
「お願い!遺造さん!聞いてあげてくれないかなぁ!ね!ね!いいでしょ!?遺造さんしかできないの!」
二人の勢いに気圧されて、黒影法師はどもりながら答えた。
「な、なんでぇ、ガキが二人も揃って、オレしかできねぇ?ゲヒッ、なんだそりゃぁ」
「そうなんです!これはもう遺造さんにしかできないんです!だからその力を見込んで、是非、お願いします!」
俺は、もうプライドもクソもなく頭を下げた。となりで彼女も頭を下げてくれている。ここまで持ち上げられると、シンプルな精神構造のヤツは結構落ちる。
「ゲヒヒッ!なんだぁ、おめぇら、仕方ねぇなぁ。ちょうど今、ここんとこの住人を脅かして気分がいい。おめぇら、運がいいぞ。言ってみろ、聞くだけ聞いてやらぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
俺はもう一度大きく頭を下げた。
「ありがとうございます!それじゃ、時間があんまりないんで、病院まで移動しながら話したんでいいですか?行きましょう。」
俺は、黒影法師に簡単に今までのいきさつを話しながら病院へと飛んだ。
「ね、遺造さんって、人に話しかけたりもできるんでしょ?すっごいなぁ~、尊敬しちゃうよ~、アタシ~」
合い間に彼女が黒影法師を持ち上げる。黒影法師はゲヒヒヒッと笑いながら、上機嫌で俺についてきた。
「でさ、でさ、遺造さんってば、病院のICUの中にも、入れちゃったりします?」
彼女が、情報を仕入れつつ黒影法師を持ち上げる。
「ゲヒッ?ICU?なんだか知んねぇが、病院の中なんざぁ、どこでも入れるぜぇ~。ゲヒヒッ。」
彼女が俺に、OKマークを出した。
「じゃ、すみません、遺造さん。お願いって言うのは、そのICUってとこに入って、中にいるある人に囁いて欲しいんです。『意識は必ず戻る、あきらめるな』って。」
「ゲヒッ、なんだぁ、それだけかよぉ。楽勝だぜぇ。ゲヒヒヒヒッ!」
よし、こう言っておけば、意識が戻らなくても待ってくれる、もしも仮に脳死になっても、いきなり臓器移植には賛成しないだろう。なにより、希望を持ってもらえる。その分、長い時間、待ってくれるはずだ。
俺たちは病院に着いた。
「遺造さん、あそこです。」
俺はICUの部屋を指差した。ベッドの位置は変わらず、父と母もまだ傍らに座って俺の体を見つめ続けていた。
「あそこの手前から2番目にベッドがあるでしょう。そこに壮年の男女がいるの、わかります?」
黒影法師は、じっとICUの中を見ながら、鼻で笑った。
「あーぁ、見えるぜぇ。ちょっとハゲたオッサンと、痩せたババアだろ?」
この際、中傷は気にしない。
「そうです。あの二人の耳元で、さっき言ったように『意識は必ず戻る。あきらめるな』って2回、呟いてきて欲しいんです。」
「よーし、わかったぁ。んじゃ、ざくっと済ましちまうぜぇ。ゲヒヒヒヒッ!」
と、その時、彼女が黒影法師を呼び止めた。
「ねぇ!遺造さん!ついでのお願いなんか、ムリだったりする?」
黒影法師は振り返り、彼女の方を見た。
「ついでぇ?」
「そそ、あのベッドに寝てる病人のさぁ、中に入って『意識あるぞ』ってアピールしてくる、なーんての、お願いできたりしないかなぁ~?どお?」
黒影法師はちょっと険しい顔になり、即座に答えた。
「ゲヒッ!そりゃぁ、ダメだ。きけねぇ。ついでのレベルじゃぁねぇ!オレがやるのは、囁いて戻ってくるだけだぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
そう言って、黒影法師はすうっとICUに向かって飛んで行った。
「ちぇ、知ってたかぁ~。知らなきゃ、上手くいくと思ったんだけどなぁ~」
彼女はちょっと悔しそうにパチンと指を鳴らした。俺には、それがどういう意味を持っているのかちゃんとした理解はできていなかった。
やがて黒影法師はICUの窓に近づいた。本人はすっと入れると思っていたようだが、何故か窓の前で立ち止まった。黒影法師が手をかざすと、バチッと電気がショートしたような光りが放たれた。ちょっと驚いたのか、黒影法師は少し後ずさったが、「入れる」と言った手前、すごすごと戻ることができなかったんだろう。単純なヤツほどその辺の思考回路は分かりやすい。黒影法師はちょっと勢いをつけるように窓にぶつかると、バチバチッと電気の火花を散らすようにしながら、徐々に中に入り込んでいった。
「やっぱり簡単には入れないんだな、ICUって。何でだろう?」
俺は、彼女に向かってぼそりと呟いた。彼女は肩をすくめながら、答えた。
「アタシも何回か挑んで、最近、手までは入れることができるようにはなったよ。でもあれ、結構イタイんだよね~。」
黒影法師は、無事にICUの中に入ることができたようだ。そのまま、俺の父と母のもとに近づいて、耳元で何かを囁いていた。父と母はビクッとしたように反応して、二人してキョロキョロと周りを見回した。2人は、顔を見合わせていたが、母が嗚咽し始めたようで、父にうなだれかかっていた。
黒影法師は、ちらっとこっちを見ると、スタスタと窓に歩み寄り、またバチバチいわせながら出てきた。ふらーっとこっちに近づき、腕をさすりながら言った。
「ゲヒッ!くっそー、おぉ痛ぇ!なんだあの部屋は、入るのにクソ痛ぇ思いをしたじゃねぇかぁ!てめぇら・・・」
と言いかけたところで、彼女が言った。
「さっすが!遺造さんじゃなきゃ、ムリだったよ~、やっぱ!すんなり出入りできちゃうとこなんて、ソンケーだねっ!」
「お、おぅ、まぁな。ゲヒッ。じゃ、オレぁこれで用無しだなぁ?もういいか?あとは好きにやんなぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
「ありがとございましたぁっ!助かりましたっ!」
俺は深々と頭を下げた。コイツに頭を下げるのは、金輪際、御免こうむりたい。
最後の彼女のおだてで、上機嫌になった黒影法師は、すいーっと上空に上がっていった。そのまま立ち去るかと思いきや、少し離れた後ろ側で、まだぼーっとこっちを見ていた。今から何をしようとしているのか、興味でもあるのか?まぁそんなことは今はどうでもいい。次の方が難問だ。残すは1時間半。
『覚悟』
俺は焦っていた。あと1時間半でタイムリミットだ。ギリギリ上手く行っても2時間半で「脳死」。
どうやってもICUへの侵入口は見つからない。もしかして、バチバチいってでも、痛くても、さっきの黒影法師のように入れるかもしれない、と思って手を突っ込んでみたが、俺程度ではただの壁にしか感じない。バチともいわない。
とりあえずは体が残れば、ということで黒影法師に伝言を頼んだまではよかったが、やはり「脳死」になってしまっては、それからの意識回復は100%無理な話には違いない。俺にはどうしようもなく、手をこまねいて見ているしかないのか。このまま死んでいく体をじっと見届けるしかないのか。ちくしょう!と俺は大銀杏の幹を殴った。
彼女は、横で大銀杏の枝に腰掛けたまま、握り拳を唇に当てて潤んだ目をしていた。小さな声でブツブツと何か呟いていた。
「敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう。」
呟きが言葉になり始めた。
「敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう!敬くんが死んじゃう!」
声が段々と大きくなり、くるっと俺の方を向いたかと思うと、大きな声で叫んだ。
「敬くんが死んじゃう!このままだと、敬くんがアタシと同じになっちゃう!ヤダ!ヤダァ!アタシみたいになっちゃダメなの!敬くんがアタシみたいになんか、なっちゃダメなのぉー!」
潤んだ大きな瞳に溜まった涙が、ポロポロと零れ落ちた。その涙を見ているうちに、俺は奇妙に心が静まってくるのを感じた。俺は、彼女の横に腰掛けて両肩をしっかりと持った。
「ありがとう。由里子さん。でもさ、でもさ、もういいかもしんない。由里子さんとおんなじになるんなら、、、もう、、、いいかもしんない。」
そう言って俺は、彼女をぐっと抱き寄せた。背中に手を回し、力強く抱きしめて言った。
「由里子さんと一緒なんじゃん。一緒ならいいじゃん。ずっと一緒でいいじゃん。俺、それでいいよ。いや、それがいいよ。」
俺は少し涙声になりながら、彼女をしっかりと抱きしめた。彼女は、少し間を置いて、俺をぎゅっと抱き返した。
「敬くんと一緒でいい。一緒がいい。でも、でも!敬くんが死んじゃうのはいやぁ。」
彼女はポロポロと涙をこぼしながら、嗚咽した。
彼女をぐっと抱きしめながら、俺ははっと思い出した。彼女を抱きしめた右の手を背中から離し、右のポケットを探った。
あった。
俺は、彼女の両肩を持ってぐっと引き離し、彼女に向かってニコリと笑った。そして、右手の中でくちゃくちゃになっている袋を彼女の前に差し出した。
「ごめん、こんなくちゃくちゃになってるんだけどさ、俺と由里子さんが出会ってから一年になるから、一周年記念のプレゼント。どぞ、安モンだけど。」
彼女は涙でぐしゅぐしゅになった顔を制服の袖で拭いながら、俺の差し出した汚い袋を受け取った。ぐすんぐすん、と鼻をすすりながら、彼女はそのくちゃくちゃになった袋を開けた。
中からはキラキラ光る銀色の細いチェーンと、その先に小さくぶら下がっている銀色のハート、その真ん中に青く輝く宝石のはめ込まれたネックレス。
「これ、タンザナイトっていうんだって。青くて綺麗だろ。物にさわれるんならネックレスとかでも付けられるかなぁって思ってさ。」
彼女は、ううっ、ううっ、っと言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ネックレスを握り締め、俺の首に手を回した。ぎゅーっと、抱きしめて、
「きれい、、、きれい、、、」
そういって、彼女は泣いた。手の中のタンザナイトが、彼女の胸元で月夜に綺麗に映える日が、またいつか来るだろう。俺も一緒にそれを見るのだ。俺の覚悟は、もう決まっていた。残すは約1時間を切った。
『決意』
俺は、大銀杏の枝に腰掛けて、じっとICUの窓を見ていた。彼女は俺の横で、手の中のタンザナイトをじっと見つめていた。
2人とも、もう30分近くほとんど動かなかった。もう、俺には覚悟ができていた。このまま、死んで行ってもいい。同じように体のない彼女と、同じようにこの大銀杏で座っていられれば。俺も、彼女も、年を取ることはない。新月の“死神”さえやり過ごせば、あとは2人だけの世界だ。彼女と俺は、生きていないが、生きていく。この魂ある限り。十分すぎる生涯だ。そして永遠の生涯だ。俺はしみじみと心の中で、ICUのベッドの前でうなだれる父と母に別れとお礼を言った。そして、隣に座る彼女に、微笑みかけた。
彼女は、まだじっとタンザナイトを見つめていた。しばらく見つめ続けていたが、かすかにその指が動いて、手の中のタンザナイトをぎゅうっと握り締めた。そして、手を開き、ネックレスをしゃらりと摘み上げた。くるっと俺の方を向いて、いつものニヘッという笑顔をした。
「敬くん、これ、つけて」
そういって、摘み上げたネックレスを俺に差し出した。
「ああ、いいよ」
俺はネックレスを受け取り、留め金を外した。彼女は俺の方を向いて少し内側にカールした長めの髪をうなじからかき上げた。俺は彼女の正面を向き、両方から首に手を回した。首の後ろで手さぐりに留め金を探し、カチッと留めた。そしてそのまま、軽く体を彼女の方に寄せて、顔を近づけ、彼女の整った唇に俺の唇を重ねた。彼女は、髪をかき上げた手を、そのまま俺の首に回し、2人の影は一つに重なった。
長い、長い、くちづけだった。
はぁ、と2人とも大きく息を吐いて、離れた。彼女は俺の顔をじっと見つめていたが、またいつものようにニッと笑って、言った。
「よしっ!アタシ、行ってくる!」
ぐっと彼女は右手でガッツポーズのような握り拳を作った。
「行く?どこに?」
彼女は、昔見たあの自慢げな顔つきで、ふふん、と鼻で笑い、
「ICUよ!」
そう言って、びっ!と凛々しくICUの窓の方を指差した。
俺は何を言っているのか分からずに聞き返した。
「ICU?行ってどうすんの。だいたい、入れんのか?」
「わかんない。」
「出た。由里子さんの『わかんない』。」
俺はガックリと肩を落とし、やれやれといった顔をした。
「でも、やってみる!行って、敬くんの体に入って『意識あるよー』て言ってくる!そしたら、そのうちICUから一般病棟に移るじゃん!」
彼女は意気揚々と語った。瞳が凛々と輝いていた。
「一般病棟ならさ、敬くん、入れるでしょ?まぁアタシは自分の体から意識だけ幽体離脱する方法を知らないから、そのまんまだけど、敬くんがさ、敬くんの体に戻ってきたら、アタシがポンと押し出されて、万事解決!じゃん?」
どうよ、この案、とでも言いたげに彼女は胸を張った。さっきつけたタンザナイトのネックレスが月の光りを受けてキラリと輝いた。
「でも、そんなに上手くいくのかよ。」
完全に覚悟が決まっていた俺が、いぶかしそうに聞き返した。
「行くってぇ!あとはアタシが痛いの我慢すりゃいいだけのハナシ!ね。」
彼女がニヘッと白い歯を見せて笑った。
「由里子さん、それでいいのか?」
「いいよ。大丈夫。ネックレスで勇気、もらったもん。」
胸に手を当てて、タンザナイトのハートを確認するように握り締めた。えへへ、と彼女は苦笑いして言った。
「歯医者さんより、痛いかなぁ…?」
「おいおい、大丈夫かよ。」
ニッと彼女は笑って、すっくと立ち上がった。
「じゃっ!敬くん、行ってくるっ!」
くるっと踵を返して彼女は、タンッと枝を蹴って飛んでいった。
俺は、ただそれを黙って見送った。
彼女は、少し早足でICUの窓に近づくと、手を差し出した。触れた瞬間、バチッと音がして、閃光が走った。ゆっくりと彼女は手を差し入れていく。ぐうっと苦悶に顔をしかめながら、力を込めて手を押し進めていった。
その時、俺の後ろから声がした。
「ナニやってんだぁ、あのガキぃ?」
はっと振り向くと、黒影法師の遺造が俺の後ろ斜め上に立っていた。
「ま、まだいたんですか。」
黒影法師は同じ質問を繰り返した。
「ナニやってんだぁ、あのガキぃ?」
俺は少しムッとして言い返した。
「ガキって言わないでください。俺のためにICUに入ろうとしてるんです。」
「んなもん、見りゃァわかるぜぇ。入ってなにすんだぁ?」
俺は説明するのも面倒臭いと感じながらも、一応彼女の計画を話した。
「ICUに入って、俺の体に由里子さんが入るんです。意識が戻ったら、一般病棟に移るだろうから、そしたら俺が体に入って、由里子さんが戻って、万事解決です。」
黒影法師は、いつもの嫌な笑い方をせずに、じっと黙って聞いていたが、聞き終わるとぼそっと、しかし少し強い口調で言った。
「戻んねぇよ。」
「は?」
俺は一瞬、黒影法師が何を意味して言ったのか分からなかった。
「戻んねぇ、って言ってんだよぉ。」
俺は混乱して聞き返した。
「戻んねぇ、ってどういうことですか?!」
「そん通りさぁ。一回体に入った意識は、他のが入ってきたって飛び出しちゃあ来ねぇよ。押しつぶされて、跡形もなく消えていくだけさぁ。」
俺の頭の中でぐるぐると思考が回った。どういうことだ一体?彼女が入った後の体に俺が戻って、元通り、じゃないのか?俺が入った後の彼女の意識は?彼女はどうなるっ!?
俺の中で、小さな、そして最悪の結論が出た瞬間、俺は絶叫していた。
「ばかやろうっ!!!」
俺は、豹のように大銀杏の枝を蹴って、彼女の元へと走った。既に彼女は体半分を、苦痛に表情を歪めながらICUの中に埋没させていた。
「由里子さん!!由里子さんっ!!!!」
走ってくる俺に気付いた彼女は、しかめた顔のまま、大声で叫んだ。
「来ないでっ!!!」
俺は、思わず足を止めた。彼女は、顔を歪めたまま、少し哀しそうな目をして言った。
「来ないでっ!
手をつないだら、離せなくなるからっ!
顔を見たら、泣いちゃうからっ!
声を聞いたら、戻りたくなるからぁっ!」
俺は、体をガタガタと震わせながら、一歩、一歩、と彼女に近づいた。彼女はまた少し哀しそうな目をして、それでもニッと笑って言った。
「いいの。いいのっ。アタシはこれでいいのっ。敬くんの体に入れるんだから、ウレシイのっ!敬くんは生きて。ちゃんと、生きてっ!」
俺は彼女の制止を聞かず、一歩、また一歩と近づいた。
「由里子さん、由里子さんっ!由里子っ!!」
彼女の体はじりじりと埋没し、後は顔と右手だけになった。
俺は、たまらず彼女に走り寄った。残った右手に手をかけようとした時、彼女はまたニッと笑って言った。
「タンザナイト、嬉しかった。ありがとう。アタシ、消えちゃったりしないから。絶対何かを残すから。だから敬くんは、生きて!ね。」
バリバリッと音を立てて吸い込まれる右手を掴む前に、彼女の全てはICUの中に消えた。伸ばした俺の手の甲に、ポツッと何かの雫が落ちた。
「由里子!由里子っ!!由里子―っ!!!」
俺は絶叫しながらも、呆然としてガクリと膝を折った。
それでもガクガクと震えながら、這いつくばるようにして立ち上がり、ICUの中を見た。由里子がこちらに背中を向け、ゆっくりと俺の肉体があるベッドへと近づいていった。ぐるり、と向こう側を回り、父と母の後ろを通って由里子は俺の頭の前に立った。
不意に顔を上げて、こっちを見たかと思うと、親指を立ててグッとOKサインを出し、いつものようにニイッと笑って、肉体の俺にキスをするように顔を重ねた。そして、由里子の姿は俺に吸い込まれるように、すぅっと消えていった。
シャリーン、と金属の落ちる音がして、それに気付いた母が床からそれを拾い上げた。
タンザナイトのネックレスだった。
『ひとつに』
程なくして、俺の肉体が意識を取り戻した、という朗報を知らせるように、ICU内が慌しくなった。看護婦が、右に左に走り、母が父の胸に顔をうずめて号泣していた。医師が、俺の顔を覗きこみ、微笑を浮かべながら父に何かを話しかけていた。父は、何度も何度も頭を下げながら、目頭を押さえていた。
俺は、その喜びの現場を、複雑な思いで大銀杏の枝から見つめていた。ふと周りを見る。黒影法師はとっくの昔にどこかへ消えていた。大銀杏の枝を隅々まで眺めてはみたものの、当たり前のように誰も居ないことを再認識させられ、俺は崩れるように枝に腰掛け、首をうなだれた。
今の俺は、今までになく孤独だった。
しばらくして、俺の体はICUから一般病棟へと移送された。
俺は、移送された後も踏ん切りがつかず、大銀杏の枝に腰掛けていた。俺が戻ることによって、由里子がこの世から消えてしまう。そう思っただけで、どうしてもそこに向かう勇気が出なかった。だからといって、このままにしておいても由里子は戻ってこない。体から抜け出る方法を知らないからだ。
それでも俺には由里子を消し去る決断ができず、1日が過ぎ、2日が過ぎた。ずっと大銀杏の枝に腰掛けて頭を抱えていた俺だが、由里子の最後の言葉を思い出して、ようやく重い腰を上げる決意を固めた。
『アタシ、消えちゃったりしないから。絶対何かを残すから。だから敬くんは、生きて!』
「絶対だな、由里子。絶対だよな。なぁ、由里子ぉ。」
そう呟きながら、俺はふらふらと彷徨うように一般病棟に入っていった。
[佐倉敬介]
そうかかれた病室にすぅと足を踏み入れる。
カーテンの端から、ベッドの足だけが見える。少し歩を進めると、ベッドのそばに父と母がいるのがわかった。父も母も、当然ながら俺には全く気付いていないようだった。ベッドに目を移すと、俺の姿をした「由里子」がいた。「由里子」は、目だけを薄く開けて、虚ろに天井を見つめていた。
気配を感じたのか、目だけが足元の俺の方をチラリと向いた。その瞬間、ほんの少し、わずかにだが、唇の端をあげて、由里子の「ニッ」に近いような、かすかな微笑を見せた。
(ナニやってたのさ。おっそいじゃん!アタシ、待ちくたびれちゃったよ~!)
「由里子」がそう言っているのが聞こえるような気がした。
俺は、全く無意識にポロポロと涙を流していた。
(ホラ、早くおいでよ~。先輩命令だってばさ。ホレ、ホレ)
「わかったよ。そう急かすなって。」
俺はそう言って、「由里子」に近づいた。俺は「由里子」の顔をじっと覗きこんだ。「由里子」の瞳が少し潤んでいるような気がした。
「ありがとう、由里子。じゃ、いくぞ。」
俺はそう言って、ゆっくりと「由里子」に覆いかぶさるようにした。
ゆっくり、ゆっくり、そう「由里子」を抱きしめるように、体を重ねていった。俺の体は、少しずつ、すぅっと「由里子」に吸い込まれるように染みこんでいった。
由里子を押しつぶすわけでない、消し去るわけでない、心から一つになるように、全身の感覚を一緒にするように、俺は徐々に、徐々に染みこんでいった。心の中で
「由里子、一緒になろう。」
そう呟きながら。
由里子は満足そうだった。満足そうに、俺の中に染みこんできた。お互いが混ざり合うように、染み合うように、俺と由里子は一つになっていった。
俺と由里子は、一つだった。
目を薄く開けると、病室の天井が見えた。少し左に視線をずらすと、母がコックリコックリとうたたねをしていた。疲れているのだ。父は、イスに座って本を読んでいた。俺は口を開いてみた。声は出るか。あ、あ、と小さく唸ってみる。
大丈夫、出そうだ。俺は母を呼んだ。
「かあさん・・・」
その声に父の方が先に気付いた。本からはっと目をあげ、俺の方を見た。
「かあさん・・・とうさん・・・」
俺は小さいが確実に聞こえる声で、二人を呼んだ。
「おいっ!母さんっ!敬介が、敬介がしゃべったぞ!」
うたた寝をしていた母さんが飛び起きる。
「・・・かあさん」
母は、驚いた顔で俺を見て、思わず自分の口に手を当てた。
父は、バタバタと病室を出て行き、「看護婦さんー、敬介がー!」と叫んでいた。
母が「敬介!あんた、しゃべれるのね!大丈夫なのね!」と俺の頬に手を当てて叫んだ。それから俺は医師の診察を受け、再びベッドで安静にするように指示された。落ち着いてきた母に俺は、ゆっくり言った。
「…母さん。ネックレス、拾わなかった…?青い石の入ったハートのネックレス…。あれさ、、、俺のなんだよ。どこにあるか、わかんないかな…」
母が、それがICUで拾ったものだと言うことを思い出すのに少し時間がかかった。
「ええ、ええ、わかったわ。看護婦さんに預けたから、貰ってくるね。」
そう言って、パタパタと病室を出て行った。
俺の中に、由里子の明らかな痕跡は残されていなかった。
ただ、今は無性にココアとアップルパイが、食べたかった。
退院したら、すぐに、すぐに食べに行こう、な。由里子。
(完)
ちょっとだけ泣ける作品に仕上がったと思っています。前作に比べて会話文が多く、稚拙な作品になってしまいましたが、いかがだったでしょうか。