鬼哭館
娘を連れて、とりあえず鬼哭館へと向かう。
豪さんはとりあえず一度、役所に戻るそうだ。
ヤマアラシのような髭でも、とりあえずは公務員。
怠慢は許されないのである。
しかし、弟弟子の大暴れを黙ってみているのは公務員としてどうなのだろう。
通報の義務、とかないのだろうか。
などと、張本人の僕が思ってみる。
からっ風が吹いた。
思わず身震いしてしまう。
暦の上では春だが、まだまだ外気は冷たい。
うかうかしていると、体内の熱を持っていかれてしまう。
こんな時は走れば少しでも温かくはなるが、今日はそうもいかない。
ちら、と横を歩く娘を見る。
歩く度に黒々とした髪が、小さく揺れる。
視線はしっかりと前を向いていた。
安心した―といった言葉にウソはないようであった。
出会ってまだ10分くらいだろう。
だが、ずっと一緒にいたような感覚を憶える。
なんだか、不思議だな―と僕は思った。
僕の視線に気づいたのだろうか。
娘が僕を見て、
「寒くない?」
と、問うた。
そういえば、革のジャンパーを貸していることをすっかり忘れていた。
「うん、大丈夫。寧ろ、暑いんだ」
そういって僕は笑ってみせた。
ついでに手で顔を仰いでみせる。
冷気が優しく顔面をぶん殴った。
さ、寒い……。
鳴りそうになる歯を押さえるために、必死で食いしばる。
親指を立て、ウィンクしてみせた。
勿論、大丈夫などではない。
しかし、「寒い」などと一言でも漏らせばきっと娘は革ジャンを脱ぐだろう。
当然、僕はそれを断ってまた着せるだろう。
すると、きっと、娘は「悪いことしたな」という顔で俯くに決まっていた。
それはそれで、実に困る。
だから、ここは僕が見栄を張って寒くないふりをするのが一番の解決策である。
とりあえず、娘が「そうなの、よかった」とほっとした表情を見せたのが、
演技を貫けたことを示していた。
歩いている間、僕は娘に様々な事を問うた。
住んでいる場所、職業、家族構成。
そのどれもに娘はただ「うん、ちょっとね」と答えるだけだった。
あやしい、とまでは思わないが不思議な回答である。
しかし、思えばまだ出会って10分程度しか経過していない。
そんな男に個人情報をベラベラ喋るなんて、よく考えれば普通ではない。
「だよねー」と、小さく心の中で笑うくらいしかできなかった。
その後は、なんだか無言で歩いた。
15分くらい歩いて、ようやく着いた。
寺のような構えの大きな建物に、「鬼哭館道場」と書かれた板が掲げられていた。
その門をくぐる。
「おーっす」
すると、庭を誰かが掃除しているのだろう。
ざ、ざ、と箒で地面を掃く音が聞こえてきた。
こんな真昼間からってことは、きっと江利香だ。
元・不良である藤木江利香は、今鬼哭館で社会復帰の最中だ。
児童の社会復帰。
うちの代表である牛頭龍一主席師範のアイディアである。
「空手を通じて、青少年の育成を図る」
ナイスアイディアだが、ぶっちゃけ僕は無茶苦茶だと思う。
連れてこられた不良をボコボコにしてまず、上下関係を叩きこむ。
雑用をやらせ、空手を憶えさせ、体力をつけて、礼儀を仕込んで、
ある程度大丈夫だろう、ってなったら社会に戻す。
実力行使以外の何物でもない。
しかし、そんなこんなで学校も手を挙げた不良を何人も構成させたんだから、
市役所や警察署の方でも「立派な社会活動をなさる珍しい道場だ」と高評価だ。
無理も通せば道理が引っ込むとは、このことだ。
江利香もそんな更生中の身である。
確か、年齢は19とかそこら辺だろう。
「おーい、江利香!」
声を掛ける。
すると、庭の方から走って来る音が聞こえた。
「早いじゃない、琴乃」
江利香がニコニコしながら迎えてくれたが、隣にいる娘の顔を見て、真顔に戻った。
そして、箒を投げ捨てると道場の方へと一目散にまた走って行った。
「なんだ、あいつ」
「面白い人ね」
娘が、くすり、と笑った。
面白い分だといいが、面倒を起こされると困る。
特に江利香には妄想癖と早とちる癖の両方が備わっているため、
同時にそれをこじらせると、非常に厄介なことになる。
僕も一ヶ月前に偶然、スクラッチで500円を当てたことがあったが、
江利香はその時に「あたし、バッグ欲しいなあ」と上目遣いでやってきたのだった。
どうしたらそんな理屈になるか分からないが、とりあえず「500円しか当てて無い」ということを伝えると、
ぷんすか怒りながら帰っていったのである。
そんな江利香が、娘を見て、走り去ったということは……。
そう思った刹那、
「ぬわあんだとう!」
という大絶叫が道場の中から聞こえてきた。
「下がって」
娘を、そっと壁際に押しやる。
「どうして?」
「これから、恐らく世界で一番怖い人がやって来る」
「誰それ……」
れ、を言う前に廊下を凄まじい勢いで踏みならす音が聞こえてきた。
道場の玄関から、勢いよく飛び出す人物。
来た……。
そして、
出た……。
跳んでいる筈なのに、ただの跳躍なのに滞空時間が長い。
下駄に道着、上にジャンパーをつっかけるという出で立ち。
ロマンスグレーの髪を後ろに撫でつけ、伸びた顎ひげ。
中肉中背。
どこにでもいる、普通のおっさん。
牛頭龍一、主席師範の登場だ。
下駄の歯で地面を削りながら、荒々しく着地する。
同時に、僕を睨みつけた。
幾度となく睨みつけられたこの目。
入門してから10年経つがいまだに恐怖を憶える。
「津田、この、大バカ者が!」
師範が右足を思い切り振った。
ぶぅん、
バットが空を裂くような音がする。
その足から、何かが高速で放たれた。
顔面目がけて勢いよく飛んでくる。
避ける時間も無い。
腕を交差させ、顔面を守る。
衝撃が腕に伝わった。
質量自体はそれほど重くないようだ。
だが、速度が異常だ。
指先まで痺れてしまっている。
まるで、160km/時のボールをぶつけられたようだ。
そのぶつかってきたものが下駄だと分かったのは、
落下して地面にころがった、カラン、という音を聞いてからである。
子どもの天記占いの要領で下駄を飛ばすしたのだ。
あーした、天気に、なあれ。
今晩は津田琴乃君の頭の中で星空が拝めそうですね。
たまったもんじゃない。
当然、これで終わるとも思えない。
次撃。
来る。
来た。
一気に間合いを詰められた。
僕はそこに足を踏ん張り、堪えた。
一度、気持ちの負けで下がってしまえば二度と前に出られなくなる。
だから、怖くても、下がらない。
師範の手が蛇のようにしなる。
次々と僕の身体を襲う。
それの全てを受け、捌くことなどできない。
最低限の急所だけを守る。
痛い。
身体のあらゆる個所を正確に叩く。
ふと、刹那の出来事だった。
師範の脇腹が開いているのが見えた。
勝機!
「だあああああああああ!」
右脚でそこを思い切り蹴りに行く。
回し蹴りではない、振り蹴りである。
バットのように脚を振ることからつけられた名前。
遠心力で砕く。
手加減などしたら、潰されるのはこちらである。
殺すつもりで放った。
すると、どうだ。
師範はそれを読んでいたように、前進した。
僕の太腿付近が師範の脇に当たる。
威力が殆どない。
「あほが!」
そのまま左の軸足を払われ、こかされた。
背中から、石畳に叩きつけられた。
「うぐっ!」
思わず僕は唸った。
顎を引いてかろうじて頭部は守ったが、背中から叩きつけられたのだ。
ダメージは小さくない。
このまま苦しんでいたいが、そうもいかないだろう。
きっと師範は僕の顔か胸を踏みに来るはずだった。
地面を転がり、師範から遠ざかる。
顔のすぐ横で、
だあん、
と地面を踏みしめる音が聞こえた。
「待って下さい!」
転がりながら、必死に叫ぶ。
「僕はなにもしておりません!」
回転しながら起きあがり、両手を前に出した。
「師範、何か、勘違いをなさっていませんか!?」
僕の必死が通じたのだろう。
師範も、足を止めていた。
「お前、女を妊娠させたって聞いたが……」
はあ!?
「いえ、そのようなことはまるでございません」
きっぱりと言い切った。
毎日、学業と空手ばかりで女と触れ合う機会などありもしない。
これでもし女が妊娠したとしたなら、きっとそれは虫さんが花粉を運んでくれたとしか思えない。
師範が静かに、江利香を見つめていた。
「江利香くん、確かに津田が『妊娠させた』と言ったのか?」
その瞬間、江利香の顔が石畳にくっついていた。
眼にもとまらぬ拘束土下座である。
はあ、と師範が溜息をもらした。
溜息をつきたいのはこちらである。背中から叩きつけられたんだぞ。
「で、どうした津田」
ことのあらましを、師範に話そうとしたときだった。
「ここに置いて下さい!」
という声が聞こえた。
壁際に立つ、娘からだった。
「あの娘は?」
「僕が助けた娘です」
「妙だな」
師範が娘の全身を見る。
「どうかされましたか」
「随分と大きな革のジャンパーを着ているんだな」
「あれは僕のです」
「あ、お前のか」
娘が、近寄って来る。
「お願いです、私をここで使って下さい!」
師範と顔を見合わせる。
「お任せします」
とだけ、伝える。僕が何を言っても、結局は師範の判断が最終決定である。
「君、名前は?」
「半田真理です」
その時、僕は、始めて娘の名前を知った。
半田真理、なんだか、不思議な響きの名前だと思った。




