ローリングサンダー
世の中のどこに危険が潜んでいるか、などというのは分からない。
僕は煙草を吸いながら、思った。
あんりとは別の店、いきつけのバー「シロクロ」で飲んでいる。
ひとりになりたい時、考え事をする時はそこで飲む。
ジャズがゆっくり流れる大人の店だ。
先輩に入れてもらったジャック・ダニエルを飲む。
大体が2時間で4杯くらいだ。
それもソーダ割の軽い奴だ。
だが、今日はストレート、
それも入って30分で既に3杯目に突入していた。
「琴乃、大丈夫か?」
マスターが心配して僕に話しかけてくれた。
「大丈夫だよ」
僕はそう答えた。
くそ、指の震えが止まらない。
人は、死ぬ。
どんなタイミングでも、死ぬ。
人通りの少ない路地裏を歩いていたら、暴漢に刺されて死んだ。
そんな可能性もある。
人通りの多い表通りを歩いていたら、飲酒運転の車がつっこんできて死んだ。
そんな可能性もある。
だからといってお家に引きこもっていたら、ガスの元栓を閉め忘れて死んだ。
それですら無きにしもあらず、だ。
いつだってどんな時にも死ねる用意がなければならないのだろう。
僕、津田琴乃は思った。
「いつでも死ねる準備をしておけ」と師匠には言われている。
しかし、そう簡単に「おやすみなさい」と同じ感覚で「死にます」とは言えない。
言える奴がいるとしたら、それはきっと自殺志願者だ。
あっさり死んでOKな人生を歩んできた奴だけだ。
そういうのとは、僕は違う。
だって、そうだろう?
過去、現在、未来。
想い出、今日、希望。
それらをかなぐり捨てて、死ぬわけにはいかない。
結構、みじめな理由だけど実際ってそんなもんだと思う。
いや、それ以上にもっと死にたくなくなった理由がある。
今、上記の物を捨て去っても構わなくなってきた。
それよりも、欲しいものが出てきたのだ。
正確に言うと、知りたいものだ。
その名前は、ブラジリアン柔術。
壱時間ほど前の話だ。
図書館で勉強していたせいで遅くなった僕は、鬼哭館へ行く事をあきらめていた。
つまんねえの、そう思いながら大通りをテクテク歩いていた。
正直、そういう日もたまにはある。
僕だってずーっと空手して生きていけるならそれでいい。
しかし、そういうわけにもいかない。
大学に籍を置く以上は、真面目に勉強をすることだってある。
それに、別に一回だけ稽古を逃したからと言って死ぬわけではない。
漫然と行くよりかは、自分の中で何かを見つけて行く方が良い。
そう、決まっている。
時間が空いたから行こう、というよりも「行きたい!」と思って行った方がいい。
具体的な話をするなら、吸収力がまるで違うのだ。
飢えた状態での練習における吸収力とは、なかなかあなどれないのだ。
うん。
だから、自分を一回飢餓状態に置こう―
そう思いながら歩いていた時だった。
怒号が聞こえた。
男の激しい声だ。
言い争う声だ。
僕の脚はそこへと向かっていた。
走りながら、どんどん怒号へと近づく。
人だかりが見えた。
遠巻きにそれを見ながら、皆が「いやだな」という顔をしている。
当事者になりたくはないが事の顛末は観ていたい。
現代人とは、全く持ってワガママな生き物である。
人込みをかき分け、僕は輪の中心へと近づいた。
白スーツの男が咆えていた。
どうみてもカタギに見えない。チンピラだ。
相手はまだ、若い。おそらく20を超えたかどうかというところだろう。
痩せすぎても、太り過ぎても居ない。ただ、首が太い。
顎ひげを生やしているが、眼鼻にまだ幼さが残っている。
落ち着いている、という印象を受けた。
開きおなった様な落ち着きではない。
男をただ見つめているだけなのだ。
今、眼前に起きている事象をただ見つめているにすぎなかった。
「どうしてくれんだよ」
チンピラが男に向かって咆えた。
「腕が折れちまったじゃねえかよ」
そう言って、喚いている。
ぶつかった、腕が折れた、治療費を出せ―
恐喝の常套手段である。
普通の人なら、そこで支払ってしまうだろう。
相手はチンピラとはいえ、暴力のプロ。
一般市民が太刀打ちできることなど、ないのだ。
怖いのである。
そういう輩を排除するのも、武術家の使命―
いつもなら、そういって僕は出て行く。
しかし、今回はそれをしない。
何故か。
絡まれている方の男から、匂いがするのだ。
〝武〟の匂いが。
既に男の中の〝武〟が、男の中に張りつめているのが見て取れた。
戦闘モード全開である。
楽しくて仕方ないのだ。
その楽しさが、笑み、となって漏れ出ていた。
ふっ。
男が鼻で軽く笑った。
馬鹿にされたと思ったのであろう。
「殺すぞ、コノヤロウ!」
喚きながら、左手で男の胸ぐらをつかんだ。
右手手を引き、殴りかかろうとする。
これはモロにテレフォンパンチであり、予備動作が丸見えである。
脅しとしての効果もあるからだろう。
だが、チンピラは男を殴れなかった。
男が左手でチンピラの腕を止めたからである。
ただ掌で、相手の二等筋あたりを押しているのである。
これでは腕は引けても、押せない。
なるほど、そういう手もあるのか―と思わず感心してしまった。
だが、それだけではなかった。
同時に右手でチンピラの首筋を後ろから引き付けているのである。
手首、肘先、二の腕の関節が一直線にロックしない。
それぞれが曲がり、Z字になっている。
これでチンピラは首と右腕をコントロールされたことになる。
振りほどかない限りは何もできない。
右腕は男の胸ぐらをつかんだままである。
チンピラがほどこうとすると、男は首を掴んだ手に力を込めチンピラを振った。
すると、バランスは崩れる。
それを何度か繰り返し、遂にはずっこけてしまった。
腰をしたたかに打ったのか、押さえながら呻く。
男はただ、それを呆然と見つめていただけである。
「ぷ」
思わず、観衆の数人が噴き出した。
恥辱を受けたと感じたのか、チンピラは急いで立ち上がった。
髪は乱れ、白スーツも土埃に汚れている。
顔が、赤かった。息も荒い。
それはそうである。暴力のプロとしての誇りを汚されたのだから。
「殺してやるよ……!」
懐から、何かを取り出した。
ナイフであった。
刃を抜き、ヒラヒラさせながら煽る。
それを斜め上から袈裟切りに降りおろそうとした時だった。
いつのまにか、男がチンピラの懐に飛び込んでいた。
クワガタのように相手の脇下と首部分を掴んでいる。
そのまま押し込み、倒してしまった。
男が完全に馬乗りになっている。
チンピラが必死にナイフをふろうとするが、無理であった。
男の膝がチンピラの腕を上から押さえつけているのである。
掌が上の状態である。
もがくが、何もできない。
「参った?」
男が初めて口を開いた。
「死ね!」
チンピラが叫んだのはその言葉であった。
「あ、そう」
呟いた男の顔が一瞬、燃えたように険しくなった。
膝を離し、それを手で持ち替えた。
左手で上から押さえつけた。
右手は、相手の肘下から通って自らの左手を掴む。
見たことのある技であった。
サンボでいうV1アームロックである。
聞かなかった。
ギブアップがどう、ということは聞かなかった。
そのまま一気に、男は力を込めた。
みぢ、という不気味な音とチンピラの悲鳴は同時に聞こえた。
「あぎゃああああ!」
必死に、肩を押さえていた。
見た感じでは分かりにくいが、恐らく肩の靭帯を切ったのだろう。
いや、正確にいえば引きちぎったというほうが正しい。
男がのっそりとチンピラの上からどいた。
地面に突っ伏すようにしてチンピラが、悶える。
口からは未だに呻き声の様なものを上げ、苦痛を訴える。
その様を見て先程までヒートアップしていた観衆が少し、引いていた。
映画やテレビで見る様な派手なKO決着ではない。
確実に身体が破壊された様を見せつけられていたのである。
リアルな「痛み」を見せつけられたのである。
中には、嗚咽を漏らす女性までいた。
余りにも刺激的すぎる場面である。
武術界に身を置くと慣れるが、一般の人にしてみれば過激すぎる光景である。
気付けば群衆をかき分けるようにして、そのまま男は歩きだしていた。
信じられない事に、僕はその後を追いかけていた。
3分くらい経った頃だろう。
「なんのよう?」
男が足を止めて、振り返ってきた。
殺気ではないが、イラだっている感じがする。
「アンタも俺とやる気なの?」
男が言う。
「いや……今はやめておく」
僕の口からそう言ったのは意外だった。自分でも驚いた。
今、はやめておく。いつかやるかもしれない。
つまりこれは、今はお前に勝てない、という意味だ。
「わかった」
それを素直に分かった、といえるこの男も凄い。
「なあ、一つ聞いていいか」
僕は問うた。男は頷く。
「君の使っているそのスタイルは、何て言うんだ?」
「ブラジリアン柔術」
男の口からその言葉が漏れた。
聞いたことの無い流派の名前だ。
「柔術って、古流柔術の流れか?」
「いいや、違う。寝技を主体とした新しい格闘技だ」
新しい、という割には流れがしっかりしている。
何百年も研鑚を積んで生まれた「システム」があるように思えた。
先程のチンピラを折った技だって、恐らく一連の流れに違いない。
「アンタは、何かやってるの?」
男が問う。
「……空手」
「ふーん。フルコン?」
「いや、古流」
「あ、そうなんだ」
男がジロジロと舐め回すように僕の身体を見た。
「古流でそこまで重く鍛えている人は、珍しいね」
驚いた。
スピード勝負の多い古流では、筋トレをする人間は稀だ。
技を正確に早く打ち込む事で威力を出そうというのだ。
もっとも、それは高段者の話だ。
三段以下は大いに筋トレに励むべきだと思っている。
しかし、それを見抜いての発言とは……。
「名前は?」
「鬼哭館」
「違う、違う」
男が笑う。僕にはその笑いが理解できなかった。
「所属じゃなくて、アンタの名前」
驚くほど、屈託の無い笑顔を見せて男は問うた。
「津田琴乃」
「琴乃くん、ね。ことのんでいいや」
ことのん……小学校以来のあだ名だ。
「ブラジリアン柔術に興味を持ってくれてありがとう」
妙な事を言う男であった。
いや、べつに……と言おうと思った所であった。
男は僕の懐に飛び込んでいた。
脇と足を抱えて、押されている。
タックルに近いが、見たことの無いタックルだ。
高過ぎる。
しかし、押されている。
身体に似合わないパワーだ。
「くそっ」
上から相手のズボンを掴んで、足を思い切り後ろに突っ張った。
よく道場でふざけてやる相撲の技術が、こんなところで役に立つとは思いもしなかった。
「おおー、やるねえ」
男が感心したような声を上げると、押すのを止めていた。
「よく転ばずに出来たね」
「や、うん」
思った事を笑いながら言われると、こちらもそれに頷くしかできなくなる。
「良い身体してるなって思ったら、試してみたくなったのさ」
「……」
変な事を言う奴だと思った。
「よかったらさ、少しくらいなら教えてあげるよ」
「ありがとう」
妙な交流が出来たな、と思った。
「じゃあ」
といって帰ろうとする男を、僕は呼びとめた。
「ごめん、君の名前は?」
「島崎錬治」
そういうと男は歩きだしていた。
その男の背中を見ていて初めて気付いた。
自分が相当な時間、相当な距離を押されていたという事を。
つまり、錬治が本気を出せばすぐに押し倒されていたという事だ。
かちかち、という音に気付いた。
自分の歯が鳴っている音だった。




