マイヒーロー
いつものように、僕は「あんり」で酒を飲んでいた。
心神拳事件の二週間後くらいか。
あの後、連中は道場をたたんで田舎にすっ込んで行ったらしい。
最早弟子にも、嫁にすらも愛想を尽かされたあのおっさんに残ったもの。
それは、みすぼらしい看板と、大量に残った圧倒的傑作自叙伝「大和の守護者」らしい。
これから山にこもるにあたって、その自叙伝は良い薪になるだろう。
ケツをふく紙にはチト堅いからな。
おっさんを鼻で笑い、酒が僕の喉をまた通った。
んまあ、酒は強い方ではないのでチビリチビリといった感じだ。
つまみに頼んだあたりめをかじりながら、次の注文を考える。
あたりめをかじりながらの、
『あったりめえよ!』
このギャクは鬼哭館オナジミのギャグである。
だからむしろ、鬼哭館ではあたりめを頼むのはタイミング勝負と言える。
誰もが「ここであたりめか!?」と驚愕するタイミングで注文しなければいけない。
それは差し合い、抜きあい、騙し合いだ。
つまり、マトモにあたりめが食べられないのである。
一度でいいから、一人でゆっくり食べたかった……。
念願、今日叶う。
稽古の後で少し体が痛むが、この程度の痛みはむしろ歓迎すべきだと思った。
痛みが自分に「やってやった感」をもたらすのだから。
早い話が自己満足、ということだ。
考えようによっては自己満足も悪くは無い。
充足感は心に平穏をもたらし、日常を潤滑に回す。
余裕が生まれ、人間関係もぎくしゃくすることがない。
それこそが自己満足の良さである。
しかし、自身に及ぼすことのみを追求すれば他者がおいてけぼりだ。
それは小乗仏教と同じ事になってしまうだろう。
いつかは自他共に認める満足できた空手をしなければならない。
そう言う日は来るのだろうか―
会計を済ませ、「あんり」を出た。
入口まで愛美ちゃんが見送ってくれたのが、嬉しかった。
「またね」と、僕も笑顔で返す。
「足元に気をつけてね」
愛美ちゃんが行った。
気づけば、雪が降っていた。
もう、そんな時期なのである。
何気ない一言。
その一言が心にもたらす影響は、大きい。
こういう気遣いが出来るのは、愛美ちゃんの持って生まれた性質だ。
才能、といっても過言ではない。
細やかな気配りで、他人をいたわる事の出来る人物。
だからこそ、彼女はいろんな人に好かれているのかもしれない。
そう言う所が、好きだなあと思う。
思うからこそ、守りたい!と強く思う。
願う。
心に決める。
だが、自分はどうだとも同時に思う。
彼女らを守る資格はあるのだろうか。
もっとスマートにトラブルシューティングできないものだろうか。
どうしてこうも暴力的な手段に訴える事が多いのか。
確かに、良くない―そう思う自分が居る。
どうでもいいじゃん―そうも思う自分が居る。
持つべき武力と持たざるべき実力。
この二つが自己の中で融合せずに、ばらばらに点在している。
怖い。
どちらかに振ってしまいたい。
もともと、器用ではない方だ。
武を以て全てを解決する修羅になるか―
口だけで全てを解決する弁士になるか―
両方を上手に使いこなす、なんて無理に近い。
では、どうすれば……。
考え事をしながら歩いているうちに、本来の道を少し外れている事に気付いた。
知っている路だったので、なんとか修正しよう―
その前に、一服。
少し、考えを落ち着かせたかったわけではない。
ただ、なんとなく雪を見ていたら煙草が吸いたくなったのだ。
胸ポケットを探ろうと片手を懐に当てた瞬間だった。
前から何かが飛んできた。
白い、テニスボールくらいの大きさの塊だ。
確実に僕の顔面めがけて飛んできている。
「くっ!」
僕はとっさに、左の裏拳で叩き落とした。
それは、いとも簡単に砕け散った
街灯に照らされた破片が、きらきらと光を反射する。
左手に冷たい感触が残っていた。
雪玉―
誰かが投げてきたに違いなかった。
「鬼哭館の琴乃だな!」
声が暗闇から聞こえた。
街灯と街灯の間に、少しの闇が点在する。
そこに姿を隠しているに違いない。
すると、向こうからは僕の事が視認できる。
僕は、向こうの事が視認できない。
状況的にはあちらに有利だ。
「やっと見つけた!」
「……姿を見せろ」
僕は、言った。
暗闇から何かをもう一回投げつけられてはたまらない。
先程は雪玉程度だから良かったが……。
それに複数出てくる可能性も、あり得る。
「見せろと言っている」
その言葉に呼応するように、声の主が姿を現した。
「子供……」
男と呼ぶには、あまりにも幼すぎた。
まだ中学生にもなっていないくらいの年齢だろう。
「子供がどうして、僕なんかに雪玉をぶつける」
「うるさい!」
声の調子からして、子供は相当に興奮している。
怨嗟すらも含んで、僕にがなりたてている。
「お前が、お前のせいで!」
「僕のせい?」
「そうだ! 自分の行った卑怯な事を思い出してみろ!」
訳が分からなかった。
「僕の……なんだって?」
「お前のせいで、お師匠様が!」
そういうことか。
この子は、心神拳の道場に通っていたに違いない。
だから、あのインチキおじさんを張り倒して僕を恨んでいるのだろう。
「うわああああああああああ!」
子供が、僕の方につっかかってきた。
「きえええええ!」
吠えながら僕の事を殴る。
ダメージと呼ぶには程遠い代物だった。
正直言って、普通の空手を習っていればもう少しマトモな打撃が習得できたはずだ。
「師匠がお前なんかにやられるはずがない!」
殴る。
「きっと、お前は卑怯な手を使ったに違いない!」
殴る。
「心真拳は最強の武術だ!」
蹴る。
「お前の様な野蛮人に敗れる筈はないんだ!」
肘。
「畜生! 畜生!」
叫びながら、僕の事を叩いていた。
この子供の入れ込み方は、異常だ。
親子の関係ですら、こうはならないだろう。
分からなかった。
理解できなかった。
あのオッサンは庇うべき人間ではない。
武術家としてと言うより、人間として駄目だ。
技も雑すぎる。
心も錬磨されていない。
何一つ良い事がない。
「お前のお、せいでえ」
子供の声が涙をふくんでいた。
嗚咽を漏らしながら僕の事を叩く。
「どうして……」
僕は、子供を引きはがした。
「やめるんだ」
「どうして、師匠はお前なんかに……」
子供の両の肩にそっと手を置いた。
「単純な話だよ。僕の方が強かったからだ」
「心神拳は世界最強だって……」
「そんなのは神話だ。ありえない」
「でも……」
「実際にそうなんだ」
「……」
「どうして、そんなに入れ込む?」
「それは―」
子供が口を開きかけた時だった。
「このクソガキャあ!」
汚い声が僕の耳朶を打った。
同時に子供の体が、少し びくん と跳ねた。
男の声に、明らかに怯えている。
振り返った視線の先には、中年男性が一人立っていた。
坊主頭に金色のネックレス。
腰まで下げたズボン。
見た目が既に、あほっぽい。
子供の親だろうか。
顔が赤らんでいる。
酒を飲んでいるに違いなかった。
それもかなりの量を、だ。
「探したぞ、この!」
近づいて来た。
男は子供の襟首をつかみ、そのまま地面に叩きつけた。
そのまま子供を、蹴った。
爪先が子供の腹に吸いこまれる。
お腹を押さえて、子供がむせる。
躾にしては度が過ぎる。
子供が何とか起きあがった。
「大丈夫か?」
僕の問いに、頷いて答える。
「おい」
思わず、口をはさんだ。
「やりすぎだ」
「んだ、てめえ」
「誰でもいいだろう」
「この野郎!」
駄目だ。会話が成立しない。
こういう馬鹿には一回くらいお仕置きが必要だ。
ゆっくりと息を吸い、戦闘態勢を―
その刹那だった。
「ああああああああああああああ!」
子供が雄叫びと共に走りだした。
あの両手を上にあげる妙な構えを携えながら。
走査線上には、父親がいる。
「うるせえ!」
父親は子供を張り倒した。
地面に転げた。
「けっ、なんとか拳法とか妙なものにはまってよ!」
その一言で合点がいった。
あの子供が、あんなにも心真拳に入れ込んでいた理由が。
「充分だ!」
僕は、咆えていた。
おっさんの鳩尾に肩をぶちかます。
「うご!?」
トンチキな声を上げながら、おっさんが後方に転げた。
急いで子供を抱え起こす。
「ありがとう……」
子供が、小さく答える。
「心神拳を潰したのは、確かに僕らだ。でも、だからといって君の人生まで潰す気はない」
「うん」
「たってられるね?」
「うん」
そのまま、子供を地面に置いた。
ダメージは回復しきったのだろう。
父親は立ちあがっていた。
頭に血が上っているのか、息が荒い。
「この野郎、ぶっ殺してやる!」
僕を見て、咆えた。
「黙れ! こんな子供に手を上げて恥ずかしくないのか!」
「うるせえ! ぶっ殺してやる!」
殺してやるとか、死ねとか、そういう言葉を言うのであるなら、確かな殺意を僕に抱いていると言うのだろうか。
それならば上等である。
こちらもしかるべき手段に打って出るしかない。
なんということはなかった。
父親のパンチにカウンターで突きを合わせただけだ。
僕の拳が顎を的確に、貫いた。
その一撃で、地面に沈んだ。
脆い、脆過ぎる。
素人とは、こうも脆いものか。
糸の切れたマリオネットのように横たわる父親を、
僕は見下ろしながら、それでも全身から力を抜かなかった。
一歩、
弐歩、
三歩と歩いたところで脱力した。
「こわい思いをさせたね」
僕の問いに、子供は首を横に振ってこたえた。
「これから、僕は君を警察署へ連れていかなければならない」
「どういうこと?」
「児童虐待の恐れがある子供を、放っておいてはいけないと言う事だ」
「やだ……」
「ではまた、あの男の元で暮らすか?」
「……」
「なら、僕と来るんだ」
こうして僕は警察署に子供を連れていった。
留置場に入れられた。
またかよ……。




