スモーキン・ファイター
雨が窓を打つ音で目が覚めた。
寒さに思わず布団を深く引き上げる。
例年以上の肌寒さ―テレビのお天気おねえさんはそう言っていた気がする。
暖冬だなんだと騒がれていても2月とは寒いものだ。
おまけに雨まで降っていると来たものだ。
目覚めはいい方なのだが、こういう日は別だ。
こんな時、「琴乃、起きて」と言いながら布団にもぐりこんでくれる幼馴染みが居たら―
うわ、やめよう。
虚しくなるだけだ。
寒さにそれを加えると、みじめが発生してしまう。
実家暮らしに夢なんてあるものか。
こうして僕は布団を出た。
寝間着姿のまま、直立する。
眼を閉じ、静かに、そして深く呼吸をする。
昨晩の稽古での負傷個所。
そこのダメージ具合を確かめる。
左脇腹
―骨に異常はない
右大腿部
―これも大丈夫
右内腕
―少しだけ痣になっている
痛みが重さとなり、体にまとわりついてしまっている。
まるで碇を引きずっているようだった。
重力がただただ、わずらわしい。
それでも僕は行動しなければならない。
一度、怠惰に身をうずめれば後は堕落の一途をたどるだけだ。
筋肉が悲鳴を上げている時は、とりあえずのストレッチくらいでやめておくのが吉だ。
無理をしてもあまり意味がない。
耐えるべき苦痛と、耐えてはいけない苦痛を違うと認識することが重要だ。
今頃になって目覚ましが鳴る。
8時30分。
ああ、今日は二限だけだったな。
しかも相当にだるいだけの講義である。
確か「情報音楽論」という授業だ。
名前にひかれて取ったものの、くそみたいに眠い事に気付いた。
そんなものの為に、1時間かけて大学に行くのもどうかと思うが……
単位は重要だし、学費は出してもらっている身なので仕方あるまい。
顔を洗い、髪を整え、朝食を済ませた。
服は、冬らしく革のジャンパーに黒デニム、ブーツにした。
体が大きいのでこういう恰好が自然と似合う。
自分で言うのもなんだが、本当にそうなのだから仕方ない。
鏡で襟を直し、髪を撫でつけた。
オールバック。
気分はロックンローラーである。
それも昔ながらのロカビリーだ。
いっそのこと、監獄ロックでも歌いだしてしまおうか。
むしろ、ジャンピンジャックフラッシュがお似合いだ。
―俺は魔女に育てられた
サー・ミックジャガーの歌いだしで始まるJJF。
まるで僕の育った環境の様だ。
ドアを開け、冷たい空気に思わず筋肉が震えた。
さみい。
お天気おねえさんの「今年一番の冷え込みとなりそうです」という言葉は外れではなかったようだ。
肩をすくめながら歩いた。
せっかくビシっと決めたのに猫背では恰好悪いが、仕方ない。
首を冷気に晒すと、一気に体温を持っていかれてしまうのだから。
立てる用の襟ではないので、少しばかり気がめいった。
早いところ大学に到着して、教室であったまるのが良いようだ。
僕は、羽生大学という大学に通っている。
頭は悪くもなければ良くもなく、部活動が盛んかどうかと言われると微妙。
何かこれと言って「すごい!」という点はないけど、悪い点もない。
地味で普通な大学だ。
そこで僕は芸術学部の美術学科彫刻コースに通っている。
彫刻も空手も似ているところはある。
全ては「空間の操作」だ。
自らの意思をXYZ軸にどう反映させるかにかかっている。
だから、空手でならったことを彫刻にフィードバックできる。
逆もまたしかりだ。
そういうところも面白いが、なによりも物を作っている時間というのはたまらなく幸せだ。
たまに見よう見まねで仏像を木に彫ってみる事もある。
日によって変わりゆく木の感情を、どう読み取るかで出来上がりの質がぐんと変わる。
素晴らしい彫刻師はその感情を聞きとる事が出来るらしい。
僕らはまだ「こうだろう」という推測で動いているのだ。
しかし、先達は「こうだ」という確証を持って手を動かしているらしい。
「ここはだめよ」「そう、そっち」
そういう声が聞こえてくるのだそうだ。
まるで男女が睦言を交わし合うかのように、作業を進めていく。
いやはや、僕なんかには到底理解の及ばない世界だ。
どの分野においても、一流というのは素晴らしい。
早く、空手でも彫刻でも一流になりたいものだ。
と、ぼけぼけ考えながら歩みを進めるといつの間にか校内に足を踏み入れていた。
途中、車にひかれなくて本当に良かったと思う。
情報音楽論は東棟の3階、一番端の教室だ。
ここから3分で到着する。
幸いにも授業開始まであと10分ほどある。
一服するだけの時間はありそうだ。
ポケットに手をつっこみながら、喫煙所を目指す。
ふと、思い出した事があった。
「空手やってるのに、煙草吸うの?」
よくこれを言われる。
そう言われても、なあ。
僕らの空手は日常の護身術的な意味合いが強い。
だから日常の中で発揮されればそれでいいのだ。
別に試合とかをする必要は、とくにない。
空手が日常で、日常が空手。
空手は極めるもクソもないのだ。
日常を極める、というのは妙な言い方になるだろう?
だから、僕は煙草を吸うのだ。
煙草は日常なのだから。
掲示板の前に差しかかる時、人だかりだ出来ている事に気付いた。
そういえば、今日はやけに休講案内が多く出ている。
そこを見ると……
「情報音楽論」
最早、いら立ちを通り越して苦痛すら覚えてきた。
携帯音楽プレーヤーを機動させ、イヤホンを耳に突っ込む。
こういう時は、ミッシェルガンエレファントを聴くのが一番いい。
爆音が鼓膜を震わす。
ああ、いい。
「愛している」とか「好きだ」とか、実に下らない。
男の子ならロックンロールを好きでなくてはならない。
「愛」は正しくない。
「愛という憎悪」こそが真実なのだ。
ああ、いい。やはり、いい。
ヴォーカルのがなり声はやはり感情だ。
感情をむき出しにしているから、歌が刺さってくる。
ベースのうねる様な演奏も素晴らしい。重低音が心臓の鼓動と親和しそうだ。
ドラムの安定感が群を抜いている。叩きつけているようで、しっかりと刻んでいる。
ギターのカッティングは最早、人間技ではない。血液が逆流しそうなくらい、かっこいい。
全てが愛おしいく、狂おしく、かっこいい。
煙草を吸いながら、こう浸っていると
とん、
と誰かに肩をたたかれた。
イヤホンを外して、振り返る。
若い女の子だ。
恐らく2年生くらいだろう。
少し鼻が上を向いている以外は欠点の見当たらない顔だ。
いや、一つ欠点があるからこそ親しみを持てるのかもしれない。
そう思うと、それも愛嬌な気がしてきた。
と思うても残念ながら、どこの誰かなのかが不明だ。
「はい?」
僕は問うた。
「琴乃君、久しぶりね」
しっかりと僕の名前を琴乃と呼んでいる辺り、僕の事を知っているようだ。
繰り返すが、僕はこの人の事を知らない。
知っているのかもしれないけど、今は思いだせない。
しかしながら面と向かって「誰?」とも言えないのが現状だ。
「ああ、どうも」
仕方ないので、適当に相槌を打ってごまかす。
「寒いっすね」
笑いながら世間話を振る。
「本当ね。天気予報でも言ってたものね?」
ああ、僕も見たな。
「で、なんか僕に用事ですか?」
「ううん、ちょっとね」
ちょっとね、と言われて「ちょっと」の用事だった試しが少ない。
大体はハイパー面倒な事になるに決まっている。
金銭関係なら、断ろう。
恋愛関係なら、引き受けよう。
「夜、あいてる?」
「ええ」
「来てほしい所があるの」
「はあ」
はあ、としか相槌が打てない。
「カズヤ君も来るわよ」
カズヤ、とは僕の友人で同じ学科の佐々木和也のことだ。
となると、この娘は和也の友人という事になる。
確かに、和也と行動を共にしているのを見た事がある気がする。
ははあ。
だから僕の名前を知っていたんだな。
「そうなんだ」
「ええ」
「で、何するの?」
「ちょっとした交流会よ」
「ふうん」
きっと、他の大学との交流を図る会なのだろう。
もしかすると、女の子とお近づきになれるかもしれない。
それは非常にいい機会だ。
行く旨を伝えると、集合場所を伝えられた。
夜の9時に渋谷のタワレコの前。
ずいぶんと遅い会なのだな。
渋谷のタワレコ前で、あの娘をまつ。
未だに名前を知らないので「あの娘」としか言いようがない。
ああ、さむい。
特に渋谷は谷だから、風が吹き抜ける。
だから目にゴミがしょっちゅう入るし、空き缶が飛んでくるしで、いやになる。
迷惑極まりない渋谷名物を体に受けていると、あの娘がこっちに近づいて来た。
「待った?」
「いや」
「よかった」
笑顔を僕に振りまいてきた。
釣られて僕の口角も上がる。
「じゃ、行きましょう?」
そう言ってあの娘が歩き始めた。
道中、5分くらいの間にあの娘は色々な事を僕に聞いて来た。
体が大きい理由。
所属している道場。
どうして空手をしているか。
なんか、空手の事ばかり聴かれたが別に悪い気はしなかった。
こちらに興味を持ってもらえているのは嬉しいことだ。
などとニコニコしていると、
「ここよ」
というあの娘の声が鼓膜に届いた。
目の前に大きなマンションがそびえたっている。
10階建は裕に超える大きさだ。
外見からして、建設されたのはここ最近だろう。
まだ外壁が汚れていない。
光触媒のコーティングも施してあるのだろう。
内装も豪華で、一瞬ホテルかとおもった。
エントランスからエレベーターまで続くカーペット。
そして、口から水を流しているライオンの置物。
これはきっと、かなりの金持ちじゃないと住めないマンションだ。
恐ろしい。
エレベーターで10階まで上昇する。
上昇する回数表示を観ている時に、僕はふと気になった事があった。
この娘は僕の友人、佐々木和也と顔見知りだと言う。
そして和也も来ると言う。
僕はこの娘とは初対面だ。
向こうは違う、という雰囲気を出してきたが僕は言葉を交わしたのが
最初だと言う事実は変えようがないと思っている。
では、だ。
何故、佐々木は自分でこの件を伝えなかったのだろう。
どうして、見ず知らずの娘に伝言を?
首をかしげていると、10階に着いた。
階の一番端の部屋に通された。
内装はいたって普通。生活感もする。
怪しいところは見当たらない。
僕の考え過ぎだろうか。
リビングに入ると、10人ほどが思い思いに喋っていた。
年齢も性別もバラバラだ。
ここまではよくある光景だ。
ただ、皆が手に持っている缶が同じであることが気になる。
これしか飲んではいけない日なのか?
「どうぞ、適当に座って」
その娘が言った。
僕は出口に一番近い所に座った。
軽くそのこメンバーを見回す。
一人、眼が合った時に軽く眼をそらした男が――
「いらっしゃい!」
右側から強烈な声が耳朶をうった。
「はい、おじゃましています」
反射的に起立し、その声の主を確認した。
初老の御婦人だ。
衣類も装飾具もどれも高価なものだが、それがすっぽりと違和感なく収まっている。
なかなか出来るものではない。
「良く来たわね。さ、これをどうぞ」
そういうと婦人は僕に皆が飲んでいる缶を渡した。
「ああ、どうも」
呑もうとした矢先に、婦人の声が部屋に響き渡った。
「皆さん!」
びっくりして思わず、飲み口から口を離してしまった。
他のメンバーもこちらを見る。
「皆さん、新しい方よ。さあ、自己紹介なさって」
婦人は僕の方を見た。
「ええ、ああはい。羽生大学芸術学部の津田琴乃と言います。よろしくおねがいします」
頭を下げた。
「よろしく!」
「ようこそ!」
そういう温かい声が部屋の中に響き渡っていた。
下げた頭の中、目線は先程の男に向けていた。
どこか僕の事を探るように見ている。
体が大きいことに驚嘆している様な眼つきには見えない。
もしかすると、面識があるのかもしれない。
頭を上げ、僕は着席した。
「こんにちは」
左に座っている女性が僕に話しかけてきた。
20代後半くらいだろう。
黒のドレスに身を包んでいる。装身具もそれなりに高価そうなものばかりだ。
「琴乃くんって、本名なの?」
「ええ」
「女の子みたいね」
「よく言われます」
「ふふ」
女性が軽く笑った。
笑った眼に少しの違和感を覚えた。
なんだろう。
その違和感は、他の連中にも感じる。
皆、笑ってはいるのだが。
「琴乃君、芸術学部なんだって?」
左から声がした。
先程の婦人だ。
「ええ、はい」
僕は答えた。
「どうなの、芸術って忙しいの?」
「そうっすねー。忙しいし金にならないしで大変っすよ」
「でしょうねえ」
「そういえば、佐々木も来てるんですよね?」
「佐々木?」
「佐々木和也」
「ああ、彼のことだったわね」
だった……?過去形なのはどうしてなのか。
「そうそう、ちょっと待ってよ」
そういうと、先程の缶を手元に持ってきた。
「これね、飲んでみて。レッドブルより効くのよ」
「ああ、そうなんすかあ」
飲み口に口をつけようとした瞬間に、視線を感じた。
それもその場の全員の視線だ。
おかしい。
そんなに僕が缶ジュースを飲むところを見たいのか?
「あー!」
僕はわざとらしい声を上げて、口を呑み口から外した。
無論、飲料は1mmℓも咥内に入れてない。
「どうしたの?」
御婦人が問うた。
「いやあ、最近カロリーが気になってですね」
「わかるわ」
婦人がうなずく。
「これはね、なんとゼロカロリーなの」
婦人がドヤ顔で僕に言ってきた。
「え、それはすごい!」
僕もそれにわざとらしく返した。
いまどきゼロカロリーなんて珍しくもなんともない。
コカコーラだってペプシコーラだってやっていることじゃないか。
「だから安心して飲んでちょうだい」
婦人が言った。
「はい」
僕は飲み口に口をつけ、軽く飲料を飲んだ。
特に毒はないようだ。
「どう?」
婦人が言ってきた。
「どう、と言われても」
本当だった。
別にウマくもマズくもない。
普通の普通のジュースだ。
「これね、レッドブルよりも効くのよ」
「そうっすか」
思うのだが、「効く」と効能をうたうのは薬事法違反ではないのだろうか。
まあ、レッドブルは薬じゃないから比較対象にもってきても構わないのだろう。
「それに一本80円なの」
「安いですねえ」
「でしょう?」
適当に相槌を打つ。
何となくこの環境が読めてきた。
皆、眼の中に光がない。
ハイライトが飛んでる。
間違いない。
ここはマルチ商法のねぐらだ。
友人を、親を、自分を売りながら金を稼ぐコスい連中の集まりだ。
金に命をかけたクソみてえな奴ら。
新しい形の新興宗教にちかい。
御本尊は福沢諭吉ってところか。
なんてこった。
よりによって僕が一番嫌いな場所に、連れてかれてきてしまった。
最初にこいつらは関係ない話を続けて、自分たちが無害だと言う事をアピールする。
次に商品を買わせようとする。
最後に、そこの会員になろうと勧めてくる。
で、そいつが会員になると報酬がもらえる。
自分が紹介した会員の何パーかをピンハネできる。
そういう仕組みだ。
いま、婦人……婦人というのはやめよう。
ババアでいい。
いま、ババアは商品を一生懸命に説明している。
これで僕を乗せて買わせる気だ。
そいすれば自分がマージンを取れるからだ。
「どう?買ってみない?」
来た。
この流れだ。
恐らく、先程から僕の事を睨んできている男は用心棒的な存在だ。
僕が渋ったり、通報したりするのを暴力的手段で解決するために呼ばれているのだろう。
「買ってみる、っていっても。そんなにジュース飲めないっすよ」
僕は困った顔していった。
「あら、そうだったら他の人に売ればいいのよ」
来た。
最後に「会員にならない?」と突きつけてくるはずだ。
「売るって、どうするんですか?飲食物は売れませんよ。保健所の許可もないし」
「いらないわよ、そんなの。第一、誰も守ってないから」
「そんな」
「いい、琴乃君」
ババアが顔を近づけてきた。
ウンコみたいな匂いと香水が混ざって、不快感をマキシマムにさせてくる。
公害意外の何物でもない。
「これはね、ビジネスなの。健全なビジネスよ」
「そうっすかあ」
「買ってほしいなあ」
ババアの声に同調したのか、一同がずらっとこちらを見た。
皆、眼が叫んでいる。
「買え、弱者。買え、弱者」と。
「健全?」
僕は問うた。
「そうよ。健全な商品を健全な方法で売っているだけなの」
「いや、違法だろう?」
「何を言ってるの」
「正論を言っているよ」
「いい、必ずあなたはこの商品を買いたくなるわ」
「そうかい」
「ええ」
「いやだ、と言ったら?」
「仕方ないわね」
ババアが黒ドレスのネーチャンに視線で指示を出した。
ネーチャンが部屋から出て行った。
あの男も一緒に着いて行く。
いなくなる分には構わない。
辺りを見回した。
乱戦になる可能性がある。
乱戦は、タイマンとちがって独特の間合いだ。
その際に、人数で負けているこちらが不利なものを覆すだけの材料が欲しい。
なるべく、武器を持ってぶん殴るのが手っ取り早い。
椅子。
包丁。
燭台。
いいぞ、様々な物がある。
こうすれば、ここの連中に囲まれても生きて帰ってこれる―
刹那、部屋に赤い物が運ばれてきた。
引きずってきたのだろうか。
赤い線が床に描かれていた。
無造作に僕の前に放り投げられた。
なんというか、それには生えていたのだ。
手が生えている。
足が生えている。
髪の毛が生えている。
人。
赤いのは、血液のせいだ。
後ろ手を縛られており、抵抗できない様にされている。
可哀そうに、ここで渋ったが為に袋叩きに合った人だろう。
「うぅ」
「うぅ」
「うぅ」
小さく呻いていた。
唇から振りしぼるように何かを言う。
聞き取りにくい。
耳を近づける。
呼気が耳たぶに触れた。
、、
、、
こ、
、
、、、
と、、、、
、、、
の、、、
―え?
、、、
、、、
こ、
、、、
と、
の。
―ことの?
琴乃?
それは、僕の事だ。
どうしてこの血まみれの男が僕の名前を―
まさか、と思った。
頭からバケツでペンキを被ったかのように、赤色に染まっていた。
目じりは切れ、鼻は曲がり、眼窩や頬は膨れ上がっていた。
傷のいくつかは古いが、まだ新しい傷もある。
繰り返し殴打されたのだろう。
これでは、誰かは分からない。
だが、それは知っている顔だ。
佐々木和也。
大学の友人の佐々木和也だ。
こんな形にされてしまって……。
和也の顔に触れようとした時、何かがそれを遮った。
脚だった。
見上げる。
そこには、あのくっさいババアの顔がこちらを見下ろしていた。
「買う気になった?」
ババアの鼻息が荒い。
得意気になっている。
自分がこういう手法で全てを支配したつもりでいる。
ふと、僕は気づいた。
ババアの後ろで、さっきの用心棒がにたぁと笑っていやがる。
むかつく眼が、笑ってる。
腹立たしい歯を見せて。
用心棒は僕の視線に気づいたのだろうか。
近づいて来た。
そして僕を見下ろし、口を開いた。
「お前も、こうなる運命だ」
言い終わるか終わらないかの前に、動いた。
右手で用心棒を顎をかちあげた。
歯同士がぶつかり、かちん、となった。
そのまま、人差し指と薬指を目玉に突っ込んだ。
最早、僕はこの瞬間から覚悟していた。
自分が捕まる覚悟を。
殺人犯として、刑務所にいれられる覚悟を。
死ぬ覚悟は、していない。
この程度の人間に殺されることは無いからだ。
しかし、僕はこういう人間を許すことはしない。
それが、鬼哭館空手だ。
それが、津田琴乃なのだ。
「うわっ!」
用心棒が右手で顔面を押さえながら、左手で空を触り始めた。
まだ視力が戻っていないらしい。
かなり深くまで突っ込んだからな。
何かが脚に当たる度に、でたらめに拳を振っている。
荒い呼吸音は息切れでなく、恐怖を物語っていた。
怖いのだ。
今まで反抗する奴も居ただろう。
しかし、僕は違う。
何をしでかすか分からない。
もしかすると、ナイフで刺されるかもしれないのだ。
それは最早、恐怖そのものだ。
「何をしているの!」
ドレスの女が叫んだ。
「こっちよ!」
その声に釣られて、用心棒が走った。
終点には僕が居る。
それをサイドステップで避けた。
避けるのも下らない位の、早さだ。
なんてことはない。
先輩方の弾丸タックルに比べたら、蝿が止まるくらいの速度だ。
ついでに、男の走査線上に黒ドレスの女を突き飛ばしておいた。
「え?」
という声の直後に、用心棒は女と接触した。
「ちょ」
女が言い終わる前に、男の拳が女の顔面にめり込んだ。
意識と、歯と、血を飛ばしながら女が後ろに倒れた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!」
男は拳に感触を得たのか、用心棒が満足げに咆えていた。
僕を倒したと勘違いしているのだろう。
どこの世界でも、馬鹿と言うのは咆えたがるものだ。
その叫び声が急に止まった。
回復した視力が、現状をとらえたに違いなかった。
男の目の前には、鼻骨を砕かれ、前歯を失った黒ドレスの女が横たわっている。
抜けた歯の間からは夥しい量の血液が流れ出て
そして男は自分の拳に刺さった歯をみて悟ったはずだ。
自分が殴ったのは黒ドレスの女だ、と。
津田琴乃ではない、と。
男がゆっくりとこちらを振り返る。
「気分はどうだ?」
僕が聞いてやった。
男は小さく震えながら、何も言えないでいた。
怒っているのか、
それとも怯えているのか。
「眼窩低骨折、鼻骨陥没、前歯損傷。これは、全治数週間だな。もっとも、完全に治っても顔面は元通りにはいかないだろう」
「てめえ……」
男が低く唸った。
「許さねえ!」
男がアップライトに構えた。
現状と台詞だけ見ると、まるで映画だ。
悪役によって殺されたヒロインと、復讐を誓う男。
B級ハリウッドにありそうな設定だ。
だが、現実はまるで違う。
無垢な大学生に暴行を加え、自らの勘違いで仲間の女を殴り倒した男。
スポーツ新聞の三面記事程度のクォリティだ。
「殺してやる!」
その言葉をゴングとし、男が僕に攻撃を仕掛けてきた。
パンチは単純な、それでいて強張っていた。
怒りのあまりコンビネーションを忘れているのだろう。
せっかくアップライトなのに、ローで相手の意識を散らすことも忘れている。
つまり、無意味な攻撃だ。
その無意味な攻撃を弾き、いなすことに難しさは無い。
フックを避け、
ジャブを払い、
ボディブローを受け止める。
「よくも! よくも!」
男が咆える。
何度も言うが、自分で殴ったのである。
僕に非は、無い。
次第に男のパンチの速度が落ちてきた。
疲れているのだろう。
一打一打に気持ちと力を込めすぎだ。
「であ!」
フックだ。
甘い。
打ち終わりに体が、流れた。
その足に、僕は思い切りローキックをかました。
膝の内側だ。
踏ん張りのきかない男は、床に転がった。
「ではっ!」
大きく後頭部を打つ。
その顔を、僕は思い切り踏んだ。
一度目で男は大きく顔をそむけた。
逆足で顔を戻した。
二度目で男は顔を手で守った。
その手ごと、踏みぬく。
三度目で男は、動かなくなった。
白目をむいたまま、動かなくなっていた。
「こんなもんかな」
僕が振り返ると、ほかの連中は一目散に逃げ出して行った。
「まっぴらごめんだ!」と言いたげだった。
あっさりと用心棒を倒した僕の目の前には、ババアが椅子にこしかけていた。
脚を組み、煙草を吸っている。
「あんた、やるじゃない」
煙を吐きながら、僕に言った。
「どうして、そこまでするのよ」
「どうして?」
「だって、誰でもやってることじゃない」
「……」
「親だ友人だと言っても、所詮は他人よ。自分以外は他人なの」
ババアの目に、うっすらと光るモノが浮いていた。
「他人を利用しなければ、利用されてしまうわ!」
「だから、和也を弄ったのか?」
「あれは、仕方なく……」
仕方ない、で済む問題でもない。
人を人と思わぬ所業で僕の友人は、死にそうだ。
それを、「仕方ない」と言ったコイツの精神を疑う。
「ねえ、そう思うでしょう?」
「なにがだ」
「誰でもそうなり得るのよ」
完全に自己肯定に走っている。
同情を誘い、許しを請う気だ。
まあ、まったく許す気などないがな。
ババアは背を向け、テレビのスイッチをつけた。
テレビでは貧困にあえぐ子どもたちについての、報道番組が流れていた。
「誰もが悪魔になりうるの」
そういうとババアは泣きだしてテレビに近づいた。
テレビを思い切り抱きしめている。
「でも憶えていて欲しいの!」
ババアの涙は、ネコの小便みたいなものだ。
人間にとっては不要だ。
「許して欲しいとは言わないわ!」
こちらを見ずに、モニターにしがみつきながら話している。
良く分からないが、小学生の芝居より下手だと言うのは分かった。
「いいだろう。了解した」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ―」
「あんたは本当に可哀そうだ」
「そうでしょう」
「確かに、誰でも悪魔にはなりうる」
「そうなの、気をつけて!」
「でもな」
僕は、ババアの後頭部を思い切り蹴った。
ガラスを破る音がする。
顔面がモニターを突き破って刺さっていた。
「それでも悪魔にならないから、人間なんだよ」
ババアの体が、だらしなくふぬけていた。
その後、警察がやってきて僕は留置場に入れられた。
しかしながら、和也と他の被害者の証言から僕の正当防衛が認められた。
だが、やりすぎだと生活安全課の刑事にこっぴどく怒られてしまった。
まあ、やりすぎたのは認めよう。
しかし、それが過ちだったとは思わない。




