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プロローグ:魔王、海を渡りて星を睨む

「……是非に及ばず」


天正十年、六月二日。京都、本能寺。


堂宇を包む紅蓮の炎の中で、織田三郎信長は自らの腹に刃を突き立てた――と、日ノ本の歴史は記録している。


だが、漆黒の煙が視界を覆う中、信長の前に現れたのは、従順なる黒人の小姓・弥助と、彼を熱狂的に信奉する南蛮の宣教師たちだった。


「上様、床下に隠し通路がございます。ここから長崎へ、そして……」


「ふっ、光秀め。この俺を焼き殺したつもりか」


血を吐きながらも、信長は不敵に笑った。


彼は天下人としての死を偽装し、日ノ本という狭い揺りかごを捨てる決意をした。


すべてを焼き尽くす炎の向こう側へ、魔王は消えた。


それから、十数年の歳月が流れる。


舞台はヨーロッパ、イタリア半島のナポリ。


地中海の風が吹く修道院の薄暗い一室で、一人の男が天球儀を凝視していた。


名をジョルダーノ・ブルーノ。


質素な修道服を纏い、頭頂部を剃髪しているが、その背筋は鉄のように伸び、鋭すぎる眼光は周囲を威圧している。


かつて「第六天魔王」と恐れられた男の、これが現在の姿だった。


ヨーロッパへ渡った信長は、飢えた狼のように西欧の学問を貪った。 


ラテン語を操り、キリスト教の教義を学び、アリストテレスの哲学を読み解いた。


しかし、学べば学ぶほど、信長の胸には狂おしいほどの退屈と、激しい怒りが湧き上がっていた。


「地球が宇宙の中心であり、固定されて動かないだと? 神の作った檻の中で、人間はただ平伏して生きろと言うのか」


信長は天球儀を乱暴に回した。


かつて日ノ本にいた頃、彼は比叡山を焼き、一向宗を叩き潰した。神仏という「目に見えぬ古い権威」が、人間の可能性を縛るのが我慢ならなかったからだ。


そして今、目の前にあるヨーロッパという世界は、ローマ・カトリック教会という巨大な権威によって、人々の思考が完全に支配されていた。


「浅い。浅すぎるわ。この大空の向こうには、無限の星々がある。太陽と同じ輝きを持つ星が数多あり、そこには別の世界、別の人間が広がっているのだ。地球など、その中の一つの塵に過ぎん」


それは、当時のキリスト教世界において、一言発するだけで即座に火あぶりにされる「絶対の禁忌タブー」――地動説、そして無限宇宙論であった。


「ブルーノ修道士よ、滅多なことを言うな!」


同僚の修道士が、顔を真っ青にして部屋に駆け込んできた。


「お前の論文が異端審問所の目に留まった! 教会を敵に回せば、今度こそ命はないぞ!」


命、と聞いて信長ブルーノは低く笑った。


その笑い声は、かつて数多の戦場を震撼させた覇王そのものの響きを帯びていた。 


「命など、本能寺の炎の中に置いてきたわ。この世界の古い天を焼き尽くす烈火となるなら、この身など惜しくもない」


信長は立ち上がり、窓の外に広がる果てしない夜空を見上げた。


かつては一国を、そして日ノ本全土を求めた。


だが、今の彼が魅了されているのは、境界のない無限の宇宙そのものだ。


「足利幕府も比叡山も、俺の敵ではなかった。今度の敵は教皇庁か……面白い。この第六天魔王、今度は言葉の兵刃をもって、お前たちの『世界』を天下布武してやろう」


ブルーノは机の上のペンを握り締めた。


ガリレオ・ガリレイが沈黙し、コペルニクスが恐れた暗黒の中世。


一人の日本人が、ヨーロッパの思想史を根底からひっくり返す、孤独にして壮大な「天下統一」の戦いを、いま始めようとしていた。

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