表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

雨音の渡し船

作者: 雨宮 灯
掲載日:2026/08/03

人は、生きていくなかで多くのものを失います。

言えなかった言葉、守れなかった約束、そして、もう二度と会うことのできない人。時間が過ぎるほど、その人の声や顔は少しずつ曖昧になっていきますが、不思議と、一緒に見た景色や季節の匂いだけは心の奥に残り続けます。

この物語は、夕暮れの川で出会った娘と男が、それぞれの喪失と向き合う姿を描いた作品です。

流れていく川のように、人は前へ進まなければなりません。しかし、その胸には、決して流れていかない思い出があります。

静かな旅の終わりに、何かを感じ取っていただければ幸いです。

夕暮れの川は静かだった。


静かすぎて、流れていることさえ忘れてしまいそうなくらいに。


渡し舟がひとつ。


川面をゆっくりと滑っていく。


山の端には最後の陽が残り、その向こうから夜が少しずつ降りてきていた。


対岸の宿場町では夕餉の煙が立ち上っている。


誰かが帰る場所。


誰かを待つ灯り。


誰かが「おかえり」と言うための家。


そんなものが、この世にはまだ残っているらしかった。


娘は川を見ていた。


いや、見ていたのは川ではない。


流れていくものだった。


置いてきた日々だった。


戻れない場所だった。


流れていく水は羨ましい。


後ろを振り返らないからだ。


過ぎた景色を抱えないからだ。


ただ前へ進むことだけを許されている。


人はそうはいかない。


失くした約束も。


言えなかった言葉も。


もう会えない人の笑顔も。


胸のどこかに引っ掛けたまま生きていく。


男が言った。


「急ぐ旅でもあるまいに」


その声は古い鐘の音によく似ていた。


「逃げてきたんです」


娘がそう言うと、一枚の枯れ葉が川へ落ちた。


葉は何も語らない。


どこから来たのかも。


何を失ったのかも。


ただ流れに身を任せている。


男はその葉を見ながら、


「そうか」


とだけ答えた。


理由は聞かなかった。


川も聞かない。


風も聞かない。


だからきっと。


長く生きた人間ほど理由を聞かなくなる。


人が本当に抱えている痛みは、言葉にならないことを知っているから。


しばらくして娘が尋ねた。


「あなたは、何から逃げたんですか」


男は空を見上げた。


昼でもなく。


夜でもない。


何かを失った者だけが立つことのできる色だった。


遠くを見たまま、男は言う。


「守れなかったものからだ」


二人の間を風が通った。


風は何も知らない顔をしている。


けれど人の悲しみだけは、どこへも運ばず覚えている気がした。


岸へ着く少し前。


男は不意に口を開いた。


「桜の綺麗な年だった」


娘は黙っていた。


男も続けなかった。


誰の話なのか。


何を失った話なのか。


聞けば答えてくれるかもしれない。


けれど娘は聞かなかった。


川が流れていた。


夕暮れの色を溶かしながら。


男の目だけが少し遠くを見ていた。


そして、桜という言葉のあとだけ、男は少し笑った。


思い出を見ている人の笑みだった。


その続きを話せる相手は、もうこの世にいないのだと娘は思った。


顔は思い出せなくなった。


春になるたび、桜だけが先に思い出された。


岸へ着く。


空には一番星が浮かんでいた。


「これからどうする」


男が聞く。


娘は星を見ていた。


遠い光だった。


届くことはない。


それでも人は見上げる。


希望というものは、きっとそういうものなのだろう。


「まだ分かりません」


男は小さく笑った。


「なら、それでいい」


夜道を歩く。


娘は一度だけ振り返った。


川は変わらず流れていた。


あの日に言えなかった言葉も。


守れなかった約束も。


届かなかった想いも。


きっとどこかで、あの流れに混じっている。


もし人生が川なら。


もう一度会えるのだろうか。


流れてしまったものに。


失くしてしまったものに。


そんなことを考えて、娘は少しだけ笑った。


そして気づく。


会えないから、人は忘れないのだ。


忘れたくないのか。


忘れられないのか。


もう娘には分からなかった。


空には星があった。


遠すぎて届かない。


それでも誰もが見上げる。


届かなかったものほど、人は大切にしてしまうから。


夜風が吹いた。


男は前を歩いている。


娘はその背中を追う。


夜の道は暗かった。


それでも不思議と怖くはなかった。


歩いているうちに、いつか朝は来る。


失くしたものは戻らなくても。


会えない人は帰らなくても。


朝だけは誰にでも来る。


ただ川だけが流れていた。


まるで何も失われなかったかのように。

川は、どれほど多くのものを見送っても、何事もなかったかのように流れ続けます。

しかし、人の心はそうではありません。失ったものを忘れたつもりでも、ふとした瞬間に思い出し、そのたびに過去へと引き戻されます。

この物語では、失うことの悲しさだけではなく、それでも前を向いて歩いていく人の姿を描きました。

会えないからこそ忘れられないものがあり、届かなかったからこそ大切になる思いがあります。

この作品を読み終えたあと、誰かのことや、昔の景色を思い出していただけたなら、とても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ