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大人への道程  作者: 石原裕
第四章 ストーカーの殉愛死

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第4話 一年前、美恵と下条忠は大学の図書館で出逢った

 学部の期末試験が迫っていて図書館は多くの若い学生で混み合っていた。美恵は室内をずう~っと見渡しながら空席を捜した。一人の年嵩の学生の横に僅かばかりの隙間が見受けられた。横長の机の一番端っこだったが、美恵は、まっ、良いか、と彼に声を掛けた。

「あのう、少し詰めて貰っても良いでしょうか?」

男はチラッと眼を挙げて彼女を見た。

「ええ、良いですよ。さあ、どうぞ・・・」

彼は直ぐに身体をずらし、ノートと参考書を横に押しやった。男の言葉使いや態度は優し気で誠実、顔立ちは地味で勉強熱心に見えた。

「済みません。有難うございます」

美恵は丁寧に礼を言ってテーブルの端に身を縮めるようにして腰掛け、直ぐにバッグから参考書を取り出してページをめくり始めた。それは経営学に関する著名な論文だった。男がチラリと美恵の方を見たので、彼女ははにかむような笑顔を見せて、又、自分の勉強に戻って行った。

男が読んでいるのはフランス語の原語本だった。彼は時々その本から目を挙げてはノートに何かを書き込み、それをまた別の参考書の内容と突き合わせていた。美恵は自分の本に集中してその難解な内容をしっかり理解しようと努めたが、横でカサコソと始終動く男のことが気に懸って仕方が無くなり、うふん、と鼻をひとつ鳴らしてから彼に話し掛けた。

「フランスの原書を読んで居らっしゃるのですか?」

男は微笑って答えた。

「ええ、フランスの文学史に関する本ですよ」

男は笑うと顔の感じが一変した。

美恵は思った。

へえ~、結構整った顔立ちじゃない!・・・

「君もフランス文学を?」

「いえ、私はフランス映画を観るだけで・・・とても原語で読むなんて出来ませんわ」

「へ~え、フランス映画を、ね」

その言い方は、感嘆したような、小馬鹿にしたような、微妙な言い方だった。

「でも、小説を映画にしたものは一杯在って、優れた原本だと映画も良い仕上がりになるから、結構、楽しくて良い勉強にもなるよね・・・僕もフランス映画はよく観に行きますよ」

「あっ、そうなんですか?」

 

 一時間後、二人は大学構内のコーヒー・ショップに居た。

男は下条忠と名乗り、文学部の修士課程に在籍して歳は二十四歳だと言う。岡山の公立高校を卒業して現役でこの大学に合格し、百万遍の学生会館でルームメイトと同居していた。目下、仏会話を熱心に学んでいるのだとも言った。

「君は何学部?文学部で無いことだけは確かだね」

「私は経営学部の修士課程で会計学を専攻しているの、博士号を取って公認会計士になる為にね」

「へぇ~、凄いんだ!俺とは大分違うタイプだね」

 その日の別れ際に忠が美恵を誘った。

「今度の金曜日に映画を観に行かないか、フランスの。その後、一緒に食事をして、それから、マンションまで送って行くよ、どう?」

美恵は多分に逡巡の色を見せたが、やがて吹っ切るようにして了解した。

「良いわ、解かったわ」

 

 金曜日に再会した二人は、自分たちが互いに相手と恋に落ちるだろうことをはっきりと予感した。

 二人が観たのはフランス映画界が誇る大女優ジャンヌ・モロー主演によるヒューマンドラマ「クロワッサンで朝食を」だった。

故郷エストニアで、長い介護生活の末に母を看取ったアンヌ。そんな彼女のもとに、憧れの街パリでの家政婦の仕事が舞い込む。しかし彼女を待ち受けていたのは、高級アパートでひとり寂しく暮らす気難しい老女フリーダだった。そもそも家政婦など求めていないフリーダはアンヌを冷たく追い返そうとするが、やがてアンヌを若き日の自分と重ねるうちに心を開いていく・・・。

「パリの風景や、お洒落な家具や食器やカフェなど、将にフランスらしさが溢れた映画だったわね」

「うん、そうだな。話がゆっくりと展開する中、内容は重いんだけど、あまりきつく感じずサラッと見ることが出来たね」

「それがフリーダ役の大女優ジャンヌ・モローの演技力の凄さなのよね」

「うん、アンヌ役のライネ・マギの演技も素晴らしく、表情や仕草、台詞にも見惚れてしまったよ」

「ぶつかり合いながらも、フリーダとアンヌが心を通わせて行く姿にグッと来たわね」

 

 映画を観た後ディナーを共にした二人は、やがて、地下鉄の駅から美恵のマンションまでの道程を手を繋いで歩いた。

「ちょっと上って行かない?」

美恵が誘った。

「えっ?」

「今日は週末だし、特に急いでしなければならないことも無いし・・・」

二人は美恵の部屋に入ってコーヒーを啜り、暫くして、ベッドに倒れ込んだ。

全てが終わった時、美恵は毛布を顎の下まで引っ張り上げて横たわっていた。放心したように眼が潤んでいた。

忠が美恵に囁いた。

「君を死ぬまで愛し続けるよ」

美恵は彼の言葉を信じた、心の底から信じようとした。

狂ったように二人は又、激しく唇を重ねた。


 それからと言うもの、二人は殆ど毎日のように会って、愛を育み高め、確かなものにしようと努めた。

 だが、忠の美恵に対する望みは彼女にとっては性急過ぎた。彼は彼女を欲しがり過ぎた。愛するだけでは足りなくて独り占めしたいと思っているようだった。毎日毎日、朝と言わず夜と言わず、時にふれ折に触れて、何かにつけて、電話を架けメールを送って片時も美恵から目を離さなかった。それはまるで彼女に付き纏い、彼女を監視し見張っているかのようだった。遂には、結婚しようと言い出し、それが駄目なら同棲しようと持ち掛けた。美恵の胸には、次第に忠を重荷に感じ彼を疎ましく思う気持が膨らんで行った。

 そうして時は流れて一年が過ぎた。


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