娘を守るためなら、私は悪役でいい
本作には、学園での「断罪イベント」に近い場面や、空気と噂で誰かを悪者に仕立てる描写が含まれます。
ただし主軸は、母が娘を守るために“悪役”を引き受け、理不尽な舞台を折っていくお話です。
後味は重くしすぎず、救いのある結末になります。
扉の向こうから、聞き慣れない声がした。
声の主は娘だ。聞き慣れないのは、言葉の刃のほう。
「……泣けば許されると思って?」
乾いた語尾。冷えた間。
鏡の前で背筋を伸ばし、台詞を噛みしめる気配がする。
私はノックする手を止めた。
「王太子殿下に、近づかないで」
紙をめくる音。赤いペンの線が擦れる音。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
娘の名はアリア。十三歳。
焼き菓子の匂いがすると目がきらきらする子で、猫に話しかけるときだけ声が一段甘くなる。
その子が今、誰かを傷つける言葉を練習している。
「……平民のくせに」
その瞬間、世界が静かに割れた。
蛍光灯の白。消毒液の匂い。金属の冷たさ。
泣き声。大人のため息。
誰かの声が、薄く響く。
『仕方ないよ。みんな忙しいんだから』
小さな手が伸びる。
受け止めたかったのに、受け止められなくて。
その手が、遠ざかっていく。
――二度目は、離さない。
気づけば息を止めていた。
扉の取っ手を握り直す。指先は冷たいのに、心臓だけが熱い。
私はノックし、入った。
「アリア」
娘はびくりと肩を跳ねさせ、慌てて紙を背中に隠した。
隠し方が下手だ。下手なままでいてほしい。
「お母さま……!」
鏡の中の娘は、悪役の顔を作りきれていなかった。
目の奥に、怯えが居座っている。
私は笑った。
怒鳴らない。怒鳴れば娘は「私が悪い」と覚える。それだけは絶対にさせない。
「見せて」
「……だめ」
小さな抵抗。
怖いときの抵抗。
私は膝を折り、目線を合わせる。
「怒らない。約束する」
娘の唇が震えた。
やがて、ゆっくり紙が差し出される。
台詞の列。赤い添削。
“もっと冷たく”
“ここは笑って”
“観衆を見る”
観衆。
私は紙を畳んで机に置いた。壊れものを扱うみたいに丁寧に。
そして、声の温度だけを落とした。
「誰が、これを?」
「儀典官の先生……。明日の『清廉の儀』のためにって」
清廉の儀。
学園と王宮が好む、きれいな儀式。
きれいな儀式には、必ず“汚れ役”がいる。
「わたしが悪い役をやると、みんながまとまるんだって」
娘は目を伏せ、細い声で続けた。
「聖女候補のミラさまが傷つかないためにって……。わたしが悪い子になれば、うまくいくって」
胸がぎゅっと縮んだ。
この子は優しすぎる。だから狙われる。
私は娘を抱きしめる。
背中が少し硬い。呼吸が浅い。
「アリア」
「……なに」
「それは、あなたの仕事じゃない」
「でも……」
「でも、じゃない」
守るときだけ、声を強くする。
「娘を守るためなら、私は悪役でいい」
娘が顔を上げた。目がまんまるだ。
「お母さまが……悪役?」
「うん。あなたじゃなくて、私がやる」
娘の目に涙が溜まった。
怖い涙。悔しい涙。安心した涙。ぜんぶ混ざっている。
「……お母さま、嫌われるよ」
「嫌われてもいい」
私は即答した。
「嫌われたら、そのぶん私があなたを好きでいる。増やす。大丈夫」
娘が鼻をすすって、少しだけ笑った。泣き笑いだ。
その笑いを守るために、私は決めた。
明日の舞台を壊す。
正義の顔をした仕組みを折る。
娘を“役”から解放する。
⸻
夜。
侍女ノエルが私の部屋で髪を梳きながら言った。
「夫人、悪役は眉の角度からです」
「学びたくない」
「学ばないと、悪役に見えません」
「見えなくていいのよ。悪役ってのは、見た目じゃない」
「見た目で空気が決まるんです。人間はそういう生き物です」
ノエルは真顔のまま淡々と刺してくる。
私はため息を吐き、笑った。
「ノエル。明日の儀式、進行役は?」
「儀典官ベレンです。教会の監督官ローデンも同席します」
「王太子は?」
「ユリウス殿下もご臨席。観衆は上級生と貴族の保護者。拍手が得意な方々です」
「拍手が得意って何」
「拍手で空気を作るのが得意、という意味です」
嫌な言い方だ。嫌なほど当たっている。
「それから夫人。会場は『誓約の間』です」
私は手を止めた。
「誓約の間……?」
「はい。あの床、嘘が嫌いなんです。虚偽を口にすると、声が出にくくなるって噂があります」
噂じゃない。私は知っている。
この世界の“儀式の部屋”は、言葉に重みを持たせるために作られている。
なら、使える。
「明日の席。アリアは私のすぐ後ろ。手が届く距離」
「承知しました」
「ベレンの台本を探れる?」
ノエルが一瞬だけ口角を上げる。
「生活のための情報収集は得意です」
私は頷いた。
「悪役になるなら、最後まで悪役でいてください」
ノエルが声を落とす。
「途中で優しくすると、相手が『可哀想な正義』になります。あれ、最悪です」
「……分かった。今日は優しさを隠す」
「はい。では衣装を選びましょう。悪役は色からです」
「学びたくないって言ったのに」
「世界を変える前に、着替えです」
妙に現実的で、可笑しかった。
私は笑って、そして思い出す。
現実を守るために舞台を壊す。
順番だけは、絶対に間違えない。
⸻
翌日、誓約の間。
白い床に淡い紋。光がまっすぐ落ちる。
まっすぐな光は影を薄くする。影が薄いほど、人は自分を正しいと思い込む。
観衆の席。囁き声。扇子の音。香水。上品な笑い。
私は椅子の背に指をかけ、こっそりアリアの手を探した。
触れた。
冷たい。小さい。震えている。
軽く握り返す。
手をつないでいる間は、悪役になれない。
でも今日は、手をつないだまま悪役になる。
儀典官ベレンが壇上に立ち、澄ました声で語り始めた。
「本日は学園の清廉を示す儀。聖女候補ミラ様の純潔と慈愛を讃え――」
ミラが前に出る。白い衣。細い足。
目が怯えている。手首には薄い痣。隠しきれない。
王太子ユリウスは、正義の顔をして座っていた。
空気で作った顔だ。中身が、まだない。
ベレンが次の合図を投げる。
「そして、彼女を傷つけた者に、相応の言葉を」
会場の端で、誰かが小さく指を鳴らした。
合図。
観衆の呼吸が揃う。
ベレンの視線がアリアへ向く。
「アリア嬢。あなたの言葉で、清廉を示しなさい」
娘の肩が跳ねた。
私は立ち上がった。
空気がたわむ。台本がきしむ音が、見えない場所からした気がした。
「その役は、私が引き受けます」
ざわ、と波が走る。
ベレンの笑みが一瞬止まる。
「レティシア夫人、何を――」
私は壇上に上がった。
靴音が白い床に響く。紋が、薄く光ったように見えた。
そして私は、あえて悪役の声で言う。
「娘を守るためなら、私は悪役でいい」
観衆が息を呑む。
拍手しようとした手が止まる。合図が追いつかない。台本にない。
私はゆっくり笑う。
優しさを隠すための笑いだ。
「素敵な儀式ですね。なら、清廉にやりましょう」
私は床の中心へ手を置いた。
「誓約します。この場で語られる言葉は、証拠を伴う事実のみ。噂や推測で人を裁かない」
ベレンが口を開く。
「夫人、それは――」
「誓約の間ですもの。言葉は力になる。正しく使いましょう」
私は顔だけで振り向いた。
「異論があるなら、誓約を破ってください。床が教えてくれます。誰が嘘をついたか」
ベレンの喉が動く。
監督官ローデンの顔が初めて歪んだ。
「夫人、儀式は手順が――」
「手順通りに進めます。証拠を出して話す。それだけ」
私は会場を見渡し、静かに指を差した。
「まず、あの方」
会場の端。指を鳴らした男。
「あなた。今、合図をしましたよね。何のために?」
男が青くなる。
「し、しておりません」
床の紋が、ふっと強く光った。
男は口を開けたまま、言葉が出ない。
虚偽を嫌う床。噂ではなく、現実。
ざわめきが広がる。
ざわめきは、正義の形を崩す音だ。
私は続ける。
「次。儀典官ベレン。あなたの手元の紙。台本ですね」
ベレンが反射で紙を隠しかける。
隠した時点で答えだ。
私はにっこり笑う。
「公開してください。儀式の進行なら、見せられますよね?」
ローデンが割って入る。
「夫人、学園の秩序が――」
「秩序のためなら隠す必要がない」
私はローデンを見る。悪役の目で。逃げ道を塞ぐ目で。
「あなたの秩序は、子どもを傷つける秩序ですか」
ローデンの口が止まった。
私は最後の釘を落とす。
「台本に従って拍手した方は、拍手の理由を説明してください。できないなら、それは空気です。空気で人を裁くのは、清廉じゃない」
観衆の中で、数人が顔を背けた。
心当たりがある反応。
私はアリアを振り返る。
娘は泣きそうな顔で、でも、私を見ていた。逃げない目。
「アリア。台詞は言わなくていい」
娘の唇が震える。
「でも……」
「いい」
私は短く切る。
「代わりに、あなたの言葉を言って」
娘が息を吸う。
小さな勇気が膨らむ。
「……わたしは、誰かを泣かせたくありません」
細い声。
でも台本じゃない。だから強い。
会場が静まった。
静まりは、嘘が居場所を失う音だ。
私は視線をミラへ向ける。
「ミラ様。あなたも。あなたの言葉で」
ミラの目が揺れる。
ローデンが小さく咳払いをした。止めろ、という合図。
私はすぐ拾う。
「今の咳払い、合図ですね」
床が淡く光る。
ローデンの顔色が変わった。
ミラは震えながらも、口を開いた。
「……私は……断罪で光りたくありません」
空気が一段落ちた。
正義の羽衣が、ずるりと滑る。
ベレンが焦って叫ぶ。
「儀式を続行します! アリア嬢の――」
「続行するなら、証拠」
私は冷たく言う。
「アリアが何をした。誰が、どこで、いつ見た。証拠は?」
ベレンが詰まる。
赤い添削の紙の上にあるのは台詞だけだ。事実がない。
私は一歩、ベレンに近づいた。
「あなたは子どもに台詞を教えた。観衆に拍手の合図を仕込んだ」
ミラが反射で手首を隠した。遅い。
「誰が、ミラ様に『泣け』と言いました?」
ローデンが口を開きかける。
「夫人、それは――」
「誓約の間です」
私は静かに言った。
「嘘をつけば声が出ない。さあ、どうぞ」
ローデンは一瞬、ベレンを見る。
ベレンはローデンを見る。
視線の往復が、答えだった。
私は“悪役”の笑みを深くする。
「なるほど。二人で作った舞台。もしくは、もっと上」
観衆がざわめく。
そのざわめきの中で、王太子ユリウスが初めて顔を上げた。
「……これは、正義ではない」
声が震えている。
でもそれは本物の震えだ。空気の声ではない。
「演出だ」
ユリウスが立ち上がり、ベレンを見下ろす。
「私は、誰かの台本で人を裁きたくない」
ベレンの顔が崩れた。
「殿下! これは教会の――」
「名前を出せば助かると思うな」
ユリウスの声が冷えた。
王太子の冷えは、会場の温度を変える。権力は空気を書き換える。
ローデンが保身のために口を滑らせた。
「我々は学園の秩序のために! 聖女を立てるために! 必要な犠牲だった!」
床が強く光った。
言葉が、誓約の間に刻まれる。
必要な犠牲。
子どもを犠牲にする秩序。
私はそこで初めて、優しさを少しだけ見せた。娘へ。
「アリア」
「……お母さま」
「聞いた? あなたは犠牲じゃない」
娘の目から涙が落ちた。
断罪の涙じゃない。解放の涙だ。
私は会場を見渡し、最後の宣言を落とす。
「この儀式は終わりです」
悪役の声で、終わりを言う。
「今日、断罪されるのは娘じゃない。子どもを道具にした大人たちの仕組みです」
誰も拍手しなかった。
拍手のない静けさは、勝利の音だった。
⸻
儀式のあと。
廊下に出ると、空気がやっと息をし始めた気がした。
ノエルが後ろで、肩を軽く叩く。
「夫人、悪役として満点です。眉の角度も合格」
「褒め方が嫌」
「嫌でも合格です」
私はアリアの手を握り直した。
娘の手は、さっきよりあたたかい。
「お母さま……」
アリアが小さく言う。
「私、怖かった」
「うん」
「でも、嬉しかった」
私は足を止め、娘の頭に手を置いた。
「怖いのは、ちゃんと生きてる証拠。嬉しいのは、守れた証拠」
娘が笑った。涙の跡が残る笑い。
私はそれを胸にしまう。
そこへミラが駆けてきた。
白い衣の裾を持ち上げ、息を切らしている。
「夫人……ありがとうございました」
私は首を振る。
「礼はいらない。あなたも被害者だった」
ミラが目を伏せた。
「……断れなかったんです。空気が、怖くて」
「断れない空気は、悪役が壊す」
私は淡々と言った。
「今日は私が壊した。あなたは自分の言葉を言った。それで十分」
ミラが小さく頷いた。
その後ろで、ユリウスが立っていた。少し疲れた顔だ。
「レティシア夫人」
「殿下」
「……あなたは救った」
「救ったのは私じゃない」
私はアリアの手を見る。
「守っただけです」
ユリウスが短く息を吐いた。
「あなたのような人が、悪役でいるのは……不思議だ」
私は笑った。今度は、隠さない笑いだ。
「悪役は、誰かを傷つける人じゃありません」
ゆっくり言う。
「子どもを守るために、空気を壊せる人です」
ユリウスは黙って頷き、まっすぐ頭を下げた。
王太子の頭が下がると、世界がひとつ変わる。正義の形が少し柔らかくなる。
⸻
屋敷へ戻る馬車の中。
アリアは私の袖を握ったまま、窓の外を見ていた。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「お母さま」
「なあに」
「悪役って……かっこいい」
「かっこよくない」
私は即答した。
「怖かった」
娘が笑った。
「でも、わたし、助かった」
その言葉が胸に落ちて、熱くなる。
私は娘の額に軽く口づけた。
「それなら十分」
前の席でノエルが振り向く。
「夫人、悪役は引退できます」
「できるの?」
「はい。母親は終身ですが」
「そこは引退させてくれないのね」
「引退すると困るのは、娘さんです」
ノエルの言葉に、アリアがくすくす笑った。
私はその笑いを聞きながら、目を閉じる。
――二度目は、離さない。
それだけでいい。
悪役でも、何でも。
娘が自由に笑えるなら。
私は、喜んで空気を壊す。
娘を守るためなら、私は悪役でいい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このお話で描きたかったのは、「悪役=誰かを傷つける人」ではなく、
“子どもを守るために、空気を壊せる人”という別の悪役像です。
きれいな正義の舞台ほど、誰かを黙らせる仕組みが用意されている。
だからこそ母は、娘の代わりに前へ出て、あえて嫌われ役を引き受けました。
その結果、救われたのは娘だけでなく、言葉を奪われていた人たちでもあります。
アリアの小さな一言と、母の覚悟が届いていたら嬉しいです。
ご感想や評価をいただけると、次の物語の力になります。ありがとうございました。




