狼の森
フェティファルーナ王国の都市部は、王城と貴族街を中心にして円形に特区が囲んでいる。南側が農業特区、西側が商業特区、北側が騎士特区、そして東側が賢都特区だ。王立学校や研究機関はほとんどが賢都特区に位置している。
ティナがいる位置は、南の農業特区の外れのようだ。東の道沿いを歩いていくと賢都特区に着く、らしい。
遠くから獣の遠吠えが聞こえ、ティナは足元の鞄を拾い上げてすぐに歩き始めた。
母国の教育で一定の護身術は身につけているが、あくまで対人用の護身術だ。ティナの魔法では獣や魔獣には争うことが出来ない。
数十分ほど歩いたが森から抜けられない。一本道を歩いているはずなのに、当たりの霧が深くなる一方だ。さらに、深い灰色の霧はティナの体に纏わりつくように重くなっている。
(どうなっているの……?)
アルフからの説明では、この森はそう深く無いはずだ。フェティファルーナ都市結界のほんの少しだけラインを外れた場所。
時間が経つほどに足は沼に沈むように重くなってきて、焦りが生まれてくる。こういう時は闇雲に歩くべきでは無いとわかっているが、しかし道は一つしかないのだ。
ガサガサと木々を切り裂くような足音が聞こえた。はっと茂みの方を振り向くと、毛を荒立てた狼が現れた。金色の瞳は瞳孔が開いており、興奮状態であることが分かる。剥いた牙はティナの首筋程度なら一噛みで千切れるだろう。
(魔獣……牙狼……!)
悪戯に声を上げるとさらに獣を興奮させる。叫びそうな口を抑えたまま後退りした。右手で太ももに忍ばせた短刀に手を伸ばしたのと、牙狼が襲ってくるのは同時だった。
(いやっ……!)
死ぬ時は、どんな痛みなんだろう。そう思ったことは何度もあった。けれど、その想像した痛みのどれもやってこなかった。
「え……」
魔獣の血は赤ではなく、金色。そう母国の病院に駆け込んできた冒険者が言っていた。地面に座り込んでいるティナのブーツのすぐ近くまで金色の液体が溢れて、そして燃え上がるように空に消えていった。
困惑したまま見上げると、すぐ目の前に剣先が迫っていた。深い森の中で僅かな光を浴びて鈍く光る剣。
「こんなところで何を?」
目深くローブを羽織った男だった。髪も瞳も見えない。背が高く、騎士のような体躯をしている。いや、きっと騎士なのだろう。恐れのない凛とした姿勢と、迷いなく真っ直ぐに伸びた細剣。
「あの、道に、迷ってしまって」
ファティファルーナの発音を間違えないようにティナは何とか発声した。どう見ても怪しまれている。
「こんな国境に近い、南の狼の森までですか?女性が一人で?」
ローブの奥の瞳と目があった気がした。夕暮れ時の一番星のように輝く赤の瞳だ。見透かすような重い視線に、ティナは自分が失敗してばかりだと思った。
(顔を隠してくるべきだった。短刀は見られてない?発音は変じゃない?)
顔を青くするティナを見て敵意は無いと判断したのか、男は剣を収めた。
「手を」
差し出されて、一呼吸置いてから立ち上がる補助をしてくれているのだと気がついた。骨張っていて大きい男性の手だ。手のひらは硬く、それは剣を握っている人間の手だった。それから転がっていた鞄も拾ってもらった。所作は滑らかで水が流れていくように美しく、やはり騎士様なのだろうとティナは思った。
「ありがとう、ございます」
「礼より、ここで何をしていたのか聞いても?」
決して大きい声ではないにも関わらず、ゆっくりと話す低い声は体の深いところまで響くようだ。フードの奥の視線は刺すようだ。
「……母国から、王立学校に入学するために関所を超えて来たばかりで。迷ってしまったみたいです。申し訳ございません」
アルフから指示されたティナの設定は、貧しい母国から一人フェティファルーナに留学して来たというものでほとんど嘘が無い。嘘は、嘘が多いところから發れてしまう。だからなるべく本当の話を混ぜ込む、らしい。
「……なるほど。母国の生家では何を?」
「えっ」
嘘があるのは、設定上の生家が貧しい商家ということだけだ。育った組織を「家」と表現するのであれば、確かに商家といえばそうだろう。売っているのは人間なのだが。でも、ティナからすれば「嘘」である。だから進んで口にしないようにと教え込まれた。
「言えないと?」
「……貧しい商人です。貧しく、この国なら奨学金で学べると聞き」
教え込まれた設定を一言一句間違えないように、読み上げるように答えた。しばらく男は黙った後、「なるほど。商家、ですか」と呟いた。
「送りましょう。王立学校ということは、賢都特区に向かう途中なのでしょう。途中まで案内します」
「ですが」
「この森は、時折魔力による霧に覆われることがあります。今日は特にひどい。このままこの森を一人で歩くということは、狼の餌になりたいということと同義ですよ」
淡々とした口調で男が続け、ティナはその後ろを着いて歩くことにした。小柄なティナよりも頭ふたつ分は背が高い。長い足はティナよりもずっと歩くのが早いはずだが、歩調が合うのはスピードを合わせてくれているのだろう。
ティナは男が何者かを考えた。警戒されているようだが殺意は無い。ティナのことも助けてくれた。もし、早々にあっけなく死んでいたら、ティナだけではなく母国のララも死んでいた。
「騎士様」
「…………何か?」
「魔法を使っても良いでしょうか?」
筋が通った真っ直ぐな歩き方をしているが、ティナはふと男の背中に影を見た。もやのように広がる影は負の感情が溜まっている証拠だ。疲れ、焦り、怒り、恐怖。ティナの目にはそれらが溜まったものが影のように見える。影の量から見ても騎士のような男は魔力の強い魔法使いなのだろうと思った。
「あの、安心してください。簡単な癒し系統の魔法です」
少し考え込むような様子を見せてから、「構いませんよ」と答えた。
ティナは祈るように手を握ってから目を閉じた。流れ込むのは泥のように流れる黒い靄。闇医者にたどり着く冒険者達とは到底量も大きさも違う。息が詰まるほど重いものが逆流するだった。
「っ」
目の前が真っ黒に変わり、それから点滅にするように白く変わった。脂汗が玉のように浮かんで、落ちた。
「大丈夫ですか」
ティナが頭を押さえていると、これまで淡々とした話し方だった男の声色に、少なからずの心配の色が浮かんだ。支えられるようにして、ティナは身体を起こした。
「今の魔法は?」
「魔法使いに対してだけ、負の感情の滞りを解消することが出来る魔法です。騎士様の影が大きく見えましたので」
「貴女は、私が魔法使いだと分かったと?」
「え?ええ」
男は何を確かめるように手を握って開いて、ということを数度繰り返した。
その時、雲間から太陽の光が注ぎ込むように霧が引いた。視界が急に明るくなり、湿度の高い暗雲とした森が春先の穏やかなものに様変わりする。まるで、魔法のように。数日ぶりに見る太陽にティナは目を細めた。
「これは……」
溢れるような日差しを浴びた男のフードの奥で、紅い目が光った。ガラス越しの赤い目だった。




