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始まりの音

 音は、あまりにも小さかった。それでも、日常が壊れるには十分だ。「それ」が壊れる瞬間というのは、ひどく、とてもひどく静かなものだった。


 父はよく、「こりゃまいった」と言って手を額に当てながら笑っていた。母は私の髪を、その綺麗な手で撫でながら、丁寧にくしで梳いてくれた。部屋には少しツンとするような薬の匂いが染みついていたけど、どこか安心するようないい匂いだと思っていた。

 よく笑う父も、くすりと微笑む母も、私の世界の中心だ。


 でも、あの瞬間だけは、どこか陰りがあった。今思えば、そんな気がする。


 私の7歳の誕生日のときだったか。いつも聞くような音が鳴った気がした。母が研究に使っていた魔水晶(マナクリスタル)がカタン、って。

 初めは母が動いているのかと思った。母は研究者だった。何の研究なのかはよく知らない。父と夜遅く帰っては次の日の朝まで机にかじりついているのはよく見かけた光景だった。


 だけど、意識が覚醒するにつれて、違うと感覚的にわかった。


 次に聞こえたのは、水滴音だった。ピトン……ピトン……って。

 窓の外はまだ暗かった。でも、眠気はどこかへ吹き飛んでいた。今ベッドから抜け出したら、母に叱られるというのはわかっていたけど、その音の正体が気になって仕方がなかった。


 私は叱られることを覚悟して、母の研究室を覗き込んだ。そこには、椅子から転げ落ちたかのように横になっていた母の姿があった。

 それを見て最初に感じたのは、困惑だった。いつも夜遅くまで机に向かっているから、こんなところで寝ちゃったのかと思った。

 いつもの調子で歩み寄って、「ここベッドじゃないよ」って言いながら手を握った。


 母の手は冷たかった。


 変だなとは思った。母は冷え性とかでは無かったと思う。そんな楽観的な考えは長く続かなかった。気になって母の顔を覗き込むと、母の目は開いていた。でも、その中に光を感じなかった。

 ちょっと怖くなって、呼びかけてみた。反応はない。握りっぱなしの手も動いてくれない。もう一度呼びかけようとしたら、再びあの音が聞こえた。


 ピトン……ピトン……。


 ハッとなって、その音のほうへゆっくりと振り返った。

 額から赤い雫を垂らしている父が部屋の隅の椅子に腰かけていた。足元には水たまりができて、今も尚、父の額からはピトン……ピトン、と赤い雫が音を立てていた。


 瞬間、いつもいい匂いと感じていたはずの薬の匂いにむせかえる。

 いや、いつもの匂いと違う。薬の匂いと混じるように匂うこれは、今まで嗅いだことのないような匂いだった。それは、すぐに部屋に染みついていた薬の匂いと混じり、上書きしていく。


 それを感じる度に、思い知った。日常が壊れていく。


 二人を呼ぼうとした。お父さん……お母さん……って。

 でも声は出なかった。むせかえる異臭と乾ききった空気に、喉は砂のようにカラカラだった。無理に声を出そうとすると、お腹の中から喉を通って気持ち悪いものがこみ上げてくる。

 それを必死に抑えて呑み込もうとすると、喉は潤いを取り戻すも、今度は焼けるような痛みが襲い、結局声は出ない。


 そう、声は出なかった。私は、ただ立ち尽くしていた。


 足は床に縫い付けられたみたいに動かなくて、指先だけが、小さく震えていた。

 何をすればいいのか、何が起きているのかわからないまま、私は動かない二人を見ていた。


 ピトン……ピトン……。


 その音だけが、気づくとやけに大きく響いていた。


 ――これが、私の「始まり」だった。






 風の音が耳を打った。冷たい夜気が頬を撫でる。お前の金髪は目立つからとおっちゃんから渡されたフード付きのマントが、まるで風からダンスを誘われたかのように舞い上がる。


「……懐かしい夢を見た気がする」


 誰かにと届ける気もない独り言が、夜闇に消えていく。私は眼下に広がる金色に輝く王都の一点、窓の奥で、仕様人らしき人があたふたと行き交う建物を見ていた。今朝あそこに住んでいる下級貴族の書斎の窓に挟んでおいた“予告状”の効果は上々のようね。


「さて、仕事の時間だ」


 スイッチを入れる言葉と共に立ち上がると、踏みしめた屋根のレンガがカランと音を立てた。

 黒の革手袋をキュッと嵌め直し、頭にのせていた深紅のベネチアンマスクを目元に下ろす。仕上げにフードで長い髪をすっぽりと仕舞いこんで、手首につけた魔道具に手を添える。


 瞬間、刻限を告げる鐘の音が王都中に響き渡る。それを合図に、私はそこから飛び立った。月光がひときわ目立つ鐘のある時計台を怪しく照らしている。そんな不気味さゆえに、誰も私の存在に気づかない。


 そんな目覚めていながらも眠っているこの街を駆けながら思う。

 あの時の手の冷たさは、今でも指に残っている気がする。あの時むせかえった“血”の匂いは、ふとした瞬間に蘇る。あの時見た光景は、目を閉じれば否が応でも脳裏にこびりついて離れない。


 だからかな。現実逃避みたいな感じで、こんなことをしてるのは。

 でも、仕方なかった。この街は、この国は、嘘であふれているんだもの。


 ターゲットである下級貴族の住む建物の屋根に辿りついたころには、鐘の音は止まっていた。

 今夜も、静かな夜だ。


 こんな夜にこそ――

 私は、真実を盗み出す。

読んでいただき感謝感激です。

不束者ですが、これからもご愛読いただけると幸いです。

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