妹を推していた公爵令息から、婚約を申し込まれてしまいました
マリアの母、ヴィンター子爵夫人の喪が明けてしばらくした頃のことだった。
「マリア、お前の新しい母と、妹だ。仲良くするように」
父、ヴィンター子爵はマリアに告げた。
口調は厳格だった。
だが目線は床をさまよい、父の痩せたなで肩はさらに垂れ下がって見えた。
マリアは驚きのあまりしばし固まった。
母と紹介された女性、ナターリアは、マリアが今まで見た中でもっとも美しい人だった。
平民の彼女は、仕草こそ貴族女性ほど洗練されていはいない。けれど遠慮がちにマリアを見て微笑む様子には、天性の気品があった。
妹だという少女、ローザはといえば、丸顔と大きな瞳が印象的な、可愛らしい少女だった。
母ナターリアと比べれば、美しさにかけては見劣りするが、年相応の愛らしい魅力がある。
マリアはローザの若葉色の瞳に既視感を覚えて、同じ色を持つ父の顔を見返すが、目線が合わないことで確信した。
間違いない。ローザはナターリアの連れ子ではない。父の実の娘だ。
まさか、父にこんな甲斐性があったとは。
この父に。
マリアが知る限り、父は母を尊重して扱っていたように思う。いや、気を遣っていたというべきか。
母は先々代の公爵家当主の孫にあたり、父にとっては格上の嫁だった。それが父の態度に影響していたのは間違いない。
でも根本的な問題として、父ロドルフは女性の扱いに慣れていないのだ。
そう思っていた。
それが、だ。
平民とはいえ、絶世の美女と、父に似た娘を連れ帰ってきた。つまりは母に隠れて愛人を囲っていたのだ。
――私のお父様、客観的に見れば結構イケているのかしら。
考えを改める必要があるもしれない。
いや、しかし、この美女の趣味が特殊だった可能性もある。
マリアが驚きで反応できないでいると、ローザはマリアをじっと見て、ふいに目元を潤ませて言った。
「わたし、お姉様がいると聞いてうれしかったの。でも……」
そしてナターリアの背に隠れると、すすり泣くような声をあげた。
「ローザ、どうしたのだ?」
困惑するマリアと父、ナターリアをよそにローザは泣き続け、そのまま最初の対面は終了になった。
マリアはその後のローザの様子を、侍女の口から聞くことになった。
「大変申し上げにくいことですけれど、あの方はお嬢様に対して、根も葉もない悪口をおっしゃいます」
侍女が、不快そうに眉根を寄せる。
職務に忠実で、個人的な感情をあらわにすることがない彼女がそうするのは、珍しいことだ。
ローザは彼女に新しく付けられた侍女や使用人たちに、マリアにひどい仕打ちをされたと訴えているという。
お姉様に睨まれた。きっと私が平民だから、憎く思っているのだわ。
ここにあった髪留めがないの。きっとお姉様が持っていってしまったのだわ。さっき廊下ですれ違ったもの。
心当たりがないばかりか、まだ交流らしいものはほとんどしていないのだが。初対面の日から、食事の時間以外にローザと顔を合わせたことはない。
数日ののち、父が物憂げな顔で、マリアに聞いてきた。
「マリア、ナターリアたちと暮らすのは、嫌かね」
使用人たちにしていたように、ローザは父にも私の悪口を言ったのだろうか?
父の様子を伺うが、マリアを疑っているかどうかまでは判断できない。だが、大丈夫だと言い切るのも問題な気がする。
マリアはしばし考えてから言った。
「問題はありません。でも、近すぎるとお互いに気を遣ってしまいますから、あまりよろしくないかもしれませんね」
父はうむ、と顎に手を当ててしばらく押し黙ったあと、
「考えてみよう」
と言い、それでこの会話は終わった。
父はその後屋敷を改修し、マリアの部屋と離れた位置にナターリアとローザの私室をつくった。
マリアがこの母子と顔を合わせる時間は、夕食の席のみと決められた。それも父が在宅中の時のみに限るため、実質は一週間に二度ほどだ。
義母となった人、ナターリアとの関係は、特別親しくはないが悪くもないという状況に落ち着いた。
時折交流の名目でお茶を飲んで、雑談をする。
会話の内容の多くは、貴族社会に不慣れな義母がマリアに礼儀作法などについて尋ね、マリアがそれに答えるというものだ。
マリアは「私は貴族夫人の立場になったことはないので……」と遠慮がちに無難な回答をしていた。
何度かそういったやりとりを繰り返すうちに、ナターリアの瞳に浮かんでいた緊張感が和らいでいった。マリアのほうも、ナターリアとうまくやっていけそうでホッとしていた。
実母ほどの親しみはないが、貴族の母娘としては上出来ではないだろうか。
しかし、問題はローザだ。
時折廊下ですれ違っても、マリアの顔をみるなりサッと隠れてしまう。相変わらずマリアへの悪口も続いているらしい。
いったいどうしたものか。
マリアはしばし考えていたが、無理に距離を詰める必要もないと思い直した。
父の愛人と娘の存在を知ったときに、マリアがちょっとしたモヤモヤを抱えたように、彼女にも思うところがあるのだろう。
そう思い、間近に迫った学園への入学に思いを馳せた。
マリアには婚約者がいない。
子爵家とはいえ、父には政治的な野心が薄く、つながりを持ちたいと考える家は少ない。
おまけにマリア自身も、自分には男性の気を惹く魅力がないことを自覚していた。
マリアの持つ白皙の肌に薄いブラウンの髪と瞳は、男性には大人しそうな印象を与えるらしい。そのため、初対面の男性はマリアを好んでくれる。
従順で貞淑、妻としてふさわしいと思えるからだ。
しかしマリアが実のところ口さがなく頑固で、従順とは言い難い娘であることを知った途端に、男性たちは蜘蛛の子を散らすように去ってしまう。
せめて見た目だけでも美しければ違っただろう。
マリアの顔かたちときたら、父と母のもっとも凡庸な箇所だけ受け継いだような有様だ。
自分が男性だったとしても、真っ先に選びたいような娘ではない。そうマリアは思う。
マリアはローザの姿を思い浮かべる。
絶世の美女であるナターリアの子としては見劣りするが、父の童顔と大きな若葉色の瞳を受け継いだ姿は、なんとも愛らしく庇護欲をそそる。
マリアとは違って、父のよい点だけが引き継がれたらしい。
「たぶんローザなら引く手あまたでしょうね」
マリアはそうひとりごちて、制服や筆記具を確認する。
マリアが子爵家を継ぐ予定はない。
男の子に恵まれなかった父は、早々に年の離れた叔父を跡継ぎと定めたからだ。
つまり、マリアもローザもどこかの家に嫁ぐか、職業婦人として身を立てるかの二択だ。
愛らしい容姿も平民としてのたくましさも備えたローザならば、この先安泰だろう。
マリアは自分の心配に集中する必要があった。
「やっぱり、どこかの侍女になるのが一番でしょうけれど」
しかし余計な一言を発してしまう自分の性格に自覚があるマリアは、気がすすまないでいた。高貴な女性に、しずと傅く自分の姿があまり想像できない。
でも学園に入学して、新しい世界を知れば、なにか変わるかもしれない。
ささやかな期待を胸に、真新しい教科書を握りしめた。
◇◇◇
幼い容姿で年下だと思っていたが、なんとローザはマリアと同学年だった。
――では、お父様は私がお母様のおなかに居る間に……。
マリアは少し遠い目になったが、今更だろう。
侍女たちも直前までローザの入学を知らされていなかったらしい。
大慌てて準備された制服に身を包んだローザは、
「お姉様と一緒の馬車で通学したいです!」
と出発間際に言い出して、使用人たちを慌てさせた。
いまだにマリアを避け続けているローザが、馬車に同乗したがるとは誰も思わなかったのだ。
「だめ……でしょうか?」
微妙な空気にしょげた様子で懇願するローザに、父はもの言いたげに口をモゴモゴとさせたのち、
「ローザの言うとおりにしてあげなさい」
と告げた。
父もローザのわがままに思うところはあるようだ。しかし、マリアとローザが仲良くするのは良いことだ。そう思い直したのだろう。
マリアはコクリと頷いて、同意を示した。
ローザも入学を機に、関係を考え直すに至ったのかもしれない。そうポジティブに捉えることにしたのだ。
馬車に同乗してみれば、ローザは同行した侍女にばかり話しかけていて、マリアとは目を合わせようとしなかった。
距離を縮めようとしてみたものの、まだ話しかける勇気はないのか。あるいは外面だけは、中の良い姉妹を装う必要があると考えたのかもしれない。
――後者だとすれば、なかなかにしたたかね。
悪意なくマリアはそう思った。
たとえ内心が乱れていたとしても、外側に見えさえしなければそれで良い。
ローザは案外貴族に向いているのかもしれない。マリアはぼんやりと感心しつつ、窓の外を眺めた。
◇◇◇
入学して二ヶ月ほど経つ頃には、ローザは学年一の人気者になっていた。
「つい最近まで平民として暮らしていました。そのせいで、いろいろとご迷惑をおかけしたらごめんなさい」
ローザの学園生活はそんな挨拶から始まった。
はじめのうちは、周囲の評価は二分していた。謙虚だが卑下しない態度に好感を持つ人と、元平民への警戒感と。
だがその後のローザの行いが、周囲の心を溶かしていった。
苦手とするマナーの授業は誰よりも熱心に取り組み、みるみる淑女らしくなっていった。
人当たりが良く、男女分け隔てなく会話する様子も、異性に遠慮がちな貴族社会において好感を持たれた。
愛らしく美しいが父の要素が強くて親しみやすい容姿も、彼女の魅力になっていた。
休憩に向かっていたマリアは、学内の庭園の花が見頃だったと思いだし、迂回してカフェテリアに行くことにした。
庭園の花がいちばんよく見える場所に、テラス席が設けられている。
その一角に、数人の子息子女に囲まれ、会話に花を咲かせているローザがいた。
庭を通りかかったマリアは、その様子を半分賞賛、半分羨ましさを感じつつ通り過ぎる。
ローザたちの姿が生け垣の陰になって見えなくなったところで、マリアは奇妙な青年を目撃した。
生け垣越しにテラス席をのぞき込むように、腰をかがめている。
――やだわ、不審者かしら。
教師たちに報告した方が良いだろうかと一瞬考えたが、その人物が制服を着ていることで思いとどまった。
何気なく通りすがるそぶりで青年を観察すると、彼の視線の先にはローザたち一行の姿がある。
「ローザ……」
急に青年から妹の名前が発せられ、マリアはビクリと体を震わせて足を止めた。
青年はマリアに気づいた様子はなく、さらに言葉を重ねる。
「なんて愛らしい素敵な女性なんだろう。若葉色に輝く瞳は木漏れ日のようで、赤みがかった柔らかな髪は春の花のようだ」
うっとりと詩人のように妹を賞賛する青年に、マリアの背中に悪寒が走る。
この男を、妹に近づけてはいけない。
妹との関係は良好とは言い難いが、それでも血を分けた妹だ。他人より情は沸いてくる。
このように物陰からのぞき込んで妹につきまとうなど、やましいところがあるに違いない。
マリアはぎゅっと手を握りしめて深呼吸をすると、少しばかり強い口調で話しかけた。
「あなた、そこで何をなさっているのかしら」
「え、うわっ」
驚愕した様子で振り向いた青年は、慌てたためかその場で尻餅をついた。
口をパクパクとさせて返答のない青年に向かって、さらに追求する。
「うちの妹に何かご用ですか?」
「い、妹……?」
「ええ、妹ローザに、何かご用があるのかと申し上げたのです」
マリアが睨みをきかせると、青年は、
「ローザの、姉……? …………と」
「と……?」
言いよどむ青年の顔はみるみる紅潮し、ふいに目の焦点が合わないような無表情になった。
「……尊い」
青年はその一言を発し終わると脱力して地面に倒れ込んだ。
「きゃっ、ちょっといったい……え、気を失っているの? どうしましょう!」
マリアは狼狽えて人を呼ぼうとしたが、青年が目を覚ますのが早かった。
恐縮して立ち去ろうとする青年を捕まえて、カフェテリア内の涼しい席に二人で腰を下ろす。
体調不良の人を呼び止めるのは気が咎めるが、ここで逃がしてはいけない気がする。
ローザに付きまとっていた理由はきっちり問いただしておかないと。
口を開こうとしたところで、水を口に含んで一息ついた青年が話し始めた。
「迷惑をかけてすまなかった。ローザの姉君ということは、きみはヴィンター子爵家のマリア嬢だね」
「え、ええ……」
別に隠し立てするようなことではないが、見知らぬ青年から言われて身構えてしまう。
「僕はアドラー公爵家の三男、フリッツだ。きみのお母君、ステファニー様のことは身内からよく聞いていたよ」
お気の毒なことだったと、フリッツは眉尻を下げる。
「あ……!」
そういえば母の祖父は、先々代のアドラー公爵、エックバートだった。
子供も孫も男ばかりだった公爵家にとってはじめての孫娘だった母は、、エックバートから随分かわいがられたそうだ。
高齢のため母の葬儀の出席を辞退する旨を記した丁寧な書簡と、慰めの品が届いていたらしい。
「公爵家の三男の方が同級生とは聞いていましたけど、貴方だったのですね」
父からアドラー公爵家の子息に会う機会があれば、ご挨拶をしておくようにと言い含められていたのだ。
そうは言っても、妻の生前から関係があった元愛人を後妻に据えたことは、公爵家にも伝わっているはずで。父は心象が悪いとは思わなかったのだろうか。
わざわざ気まずい思いをするために会いに行く必要もない。マリアはそう思って何もせずに過ごし、幸い鉢合わせすることもなかった。
それが、こんな形で会ってしまうとは……。
今までフリッツの怪しげな行動や体調不良に気を取られてばかりだったマリアは、ここへ来てようやく彼をを観察し始めた。
フリッツはローザの正体を知っていて近づいたのか? だとしたら、何が目的なのだろう。
――それにしても、どうして今まで学内で見かけることがなかったのかしら。
改めてフリッツを見れば、随分と整った容姿をしている。
白皙で繊細な容姿は神聖なほどに完成されていて、物憂げに伏せられたまつ毛が陽光を浴びできらめく様子は、宗教画を見ているかのような心地にさせる。
しばし黙り込んだマリアに、フリッツが不安そうに尋ねる。
「その、悲しいことを思い出させてしまっただろうか。すまない」
「あ、いえ。そうではありません。その、フリッツ様がとてもお美しいので、見とれていました」
不躾に眺めてすみませんと頭を下げると、フリッツは硬直し、しばらくして頭から湯気が出そうなほどに顔を真っ赤に染めた。
「っ、す、すまない。その、そんなふうに褒められたのははじめてだったから……」
「……えっ?」
所在なげにそわそわと水の入ったグラスを弄ぶフリッツを見てマリアは訝しむ。
家格も高く、美貌の青年とくれば、このくらいの褒め言葉は日常茶飯事だと思うのだが。
周囲を見渡せば、幾人かの女生徒がこちらを見ている。
やはり彼を魅力的だと思うのは、普通のことのはずだ。が、女生徒たちはマリアと目が合うとすぐに反らしてしまった。
どういうことだろう?
わからないことを保留にして、マリアは聞くべきことに集中する。
「ローザのことは、以前からご存知だったのですね」
「ああ、そうだね。その……伝え聞いてはいたよ」
少し言いづらそうな様子から、やはり公爵家には、ステファニーの死後に平民の愛人を後妻に迎えたことは、不愉快に思われていることが見て取れた。
「なぜローザに近づこうと思ったのか、お聞かせいただいても?」
フリッツによれば、ローザのことを知ったのは、やはり父が後妻を迎えたことを聞いたのがきっかけらしい。
その時は聞き流していたが、学園内で人気を集めているという元平民の娘の話を聞いて、もしやと思い、興味を持った。
「正直なところ、はじめは信じられなかったんだ。子爵家に引き取られた事情が事情だし、周りの目も厳しいものになりがちだろう? そんな子が周囲から好かれて尊敬されるようになるなんて」
フリッツは一息つくと、目を輝かせて言った。
「でも本当だった。ほんの少し前まで平民だった子が、あんなふうにけなげで、でも理想にも思える女性として振舞えるなんて。どうしてそんなことができるんだろう? 尊敬しかない」
力説するフリッツに、マリアは思わず頷いた。
「私も、そう思います」
そうなのだ。
ローザは元からああだったわけじゃない。
急に貴族女性として振舞えと言われて葛藤があったはずなのだ。おそらくマリアを嫌っていたのも、そのせいだろう。
だけど今は、マリアの遥か高みに見えるほどに、淑女として振舞っている。
あれほどの努力をできる姿は、本当に眩しくうらやましく映る。
マリアの返答を聞いて、フリッツは微笑んでに首肯する。
「ああ、姉のきみならわかってもらえると思った。理解者が得られて本当に嬉しいよ」
「ですが」
マリアは眉尻を上げる。
「先ほどの行為は、決して容認できません。陰に潜んで付きまとうなど。なぜあなたほどの方がそんなことをなさるのです」
「そ、それは……」
フリッツはひるんだ様子で身を縮める。
「直接声をかければよろしいではありませんか」
「そんな、無理だ!」
勢いよく首を振るフリッツを、マリアは訝しむ。
「どうして無理なのですか」
「だって、その…………」
フリッツはしばらくうなだれて無言でいたが、ようやく観念したように答えた。
「は、恥ずかしいじゃないか」
「はあ?」
何を言っているのだろうか。
「い、今だって! きみと話している今だって心臓が飛び出そうなんだ! このうえローザ嬢と話すことなんて考えただけで……!」
言ったきり、フリッツは机に突っ伏してしまった。
マリアはしばらく考えた末、声をかけた。
「その、フリッツ様は、女性と話すのが苦手でいらっしゃるの?」
フリッツは机に伏したまま首を振る。
違うのか。じゃあどういうことなのか。
「ええと……女性がお嫌いなわけではないと。ええと、まさか……その、失礼なことを言ったらごめんなさい。人と話すのが苦手なんですの?」
今度は肯定が返ってきた。
なんてことだろう。
改めて周囲を見回すと、また周囲の女性たちからスッと目を反らされた。
もしかして、フリッツが美しいから見ていたのではなく、フリッツが話しているのが珍しいから気になって見ていた……?
マリアは目の前の青年がなんだか気の毒になってきた。
「あの……よろしければ、我が家にご招待いたしましょうか」
思わず口にした言葉に、訝しげな様子のフリッツを見て慌てて言葉を重ねる。
「あっ、その……公爵家の方に起こしいただくのに我が家では不足かもしれませんが……落ち着いてお話をできる場所があれば、緊張も和らぐかと思いまして……我が家は居心地がいいとお客様からは評判ですの」
大通りから外れた場所にあるヴィンター邸は、貴族の家としてはいささか地味だが、住心地優先の設計になっており、客人からは好評なのだ。
「招いてくれるのはありがたいが……なぜ、その、マリア嬢の家に?」
「それはもちろん、ローザと気兼ねなくお話いただくためですけど……」
「は……?」
フリッツは何度も目をしばたかせたのち、顔色が赤くなって次に青くなった。
「いいいいい、いや無理だ……絶対無理だ……」
フリッツはポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭う。
なんて繊細な人なのだろう。
しかし、ここで引き下がってはローザのためにもフリッツのためにもならない。
きちんとした段取りでお付き合いをすべきなのだ。
「心配いりませんわ。はじめから二人きりになどいたしませんし……」
「ふたっ、二人…………!?」
「はい。少しずつ慣れていけばきっと、そのうち自然に……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
汗を拭いつつ、フリッツはマリアを静止する。
「ど、どうしてきみは、僕とローザ嬢を引き合わせようとするんだ」
「どうしてって……」
なぜそこが疑問なのか。マリアは訝しみながら答える。
「ローザを恋人に、お望みなのではないのですか?」
「こいっ……!?!!!!!!」
正直なところ、マリアには公爵家三男とローザとの間に縁が結べるのか判断がつかなかった。
ローザは平民の母との間に生まれた子だし、何より父が母ステファニーを裏切った末にできた不貞の子だ。アドラー公爵家の人々はよく思わないだろうから。
でも、学生時代の恋ならば、個人の自由ではないだろうか。
フリッツはハンカチを握る手を震わせながら、立ち上がって言った。
「ぼ、僕とローザ嬢が恋び……と……だなんて! か、解釈違いだ!!!!」
「……………………はい?」
思いの外響いたフリッツの声に、周囲のテーブルにいた人たちが振り返る。
注目を浴びたフリッツは、湯気が立つほど顔を紅潮させたのち、走ってカフェテリアを出ていってしまった。
「私、まずいことを言ってしまったかしら……」
◇◇◇
その後、フリッツを学園内で見かけることはなかった。
ローザの周辺をそれとなく探してみたが、その姿はなく。
もしかしたら見えない物陰に隠れているのかもしれないが。
そうして二週間ほど経った頃、父が機嫌良さげに一通の手紙ををマリアに手渡してきた。
封かんにはアドラー公爵家の紋章がある。
送り主はフリッツで、内容はマリアを自宅に招きたいというものだった。
「アドラー家の三男とはうまくやれているようだな」
マリアは父に曖昧に微笑み返したが、内心では心臓が飛び出そうだった。
――ローザをフリッツ様に近づけようとしたことを、公爵家の方たちがお怒りなんだわ。
改めて母ステファニーは公爵家から大事にされていた娘だったのだとマリアは思った。
ローザとフリッツの交際など、はじめから許すはずもなかったのだ。
刑場へ引き立てられる囚人のような気持ちで、マリアは公爵家の準備した馬車に乗り、アドラー邸へと到着した。
緊張しすぎて、道中何を考えていたのか覚えていない。
使用人に恭しく促されて、立派な作り付けの扉の前へと案内される。
「大旦那様、お連れいたしました」
「入りなさい」
使用人がノックをして声掛けすると、男性の声が聞こえた。
扉が開かれ、マリアは遠慮がちに部屋の中へと入る。
部屋は居心地の良さそうな書齋兼私室といった風情の場所で、背もたれのしっかりした椅子に老人が腰掛けている。
おそらく、いや間違いなく、先々代公爵のエックバート様だ。
隣には、エックバートを気遣うようにフリッツが佇んでいる。
「おお、よく来たねえ。老いぼれで体が思うように動かなくてね、すまんが、もう少し近くで顔を見せておくれ」
「もちろんでございます」
思いのほか優しい声音に面食らいつつ、マリアは一礼して歩み寄った。
さらに近くへと、エックバートが手招きするので、マリアは椅子のすぐそばまで歩み寄って、腰をかがめた。
「おお、おお。本当にステファニーによく似ておる」
エックバートは相好を崩して、マリアの手を取って喜んだ。
マリアは母に似ていると言われて不思議な気持ちになった。
父そっくりというわけではないが、母にも特別似ていると感じたことがなかったからだ。
「エックバート様。私、母と公爵家のことは、よく知りませんの。親しくしていただいていたとは聞いていたのですが」
「爺と呼んでおくれ、マリア。ステファニーは十五の歳まで、この屋敷で育ったんだ」
エックバートはマリアに話して聞かせた。
ステファニーの父アーロンは、エックバートの四男だ。
独立していずれ公爵家を出る予定だったが、宮仕えの都合や金銭的な理由から、結婚してからも長い間公爵家に留まっていた。
そしてその間にステファニーが生まれた。
子どもといえば息子しか知らないエックバートは、はじめての女の子の孫に狂喜した。
たいそう可愛がられていたという話はマリアも聞いていたが、子供時代をずっと祖父の元で過ごしていたというのは初耳だ。
「おまえはとくに目が似ておる。素直で意思が強い目をしておる」
エックバートはそう言ってマリアを懐かしそうな目で見る。
「エックバート様、いえ、お祖父様。お母様のことをもっと話してくださいまし」
誰かと母の話をするのはいつぶりだろう。
思い返せば、母が亡くなってから、父と母の思い出話をしたことがない。
使用人たちも、母をなくしたマリアを気遣ってか、母の話を避けていたように思う。
――ようやく、お母様のお話ができる方に出会えた。
マリアはそう思って、はたと気づいた。
自分は寂しいと、思っていたのかもしれない。
母のことがこの世界から忘れ去られていくようで。
少しばかり目頭が熱くなってきたマリアに、エックバートが口を開きかけたところで、ノックの音がした。
「大旦那様、お薬の時間でございます」
「わかった、少し待て」
エックバートは名残惜しげにマリアに向き直って言った。
「まったく、難儀なことだよ。一晩中でもステファニーのことを語って聞かせてやりたいのに」
「私も、同じ気持ちですわ」
マリアが深く頷くと、エックバートは言った。
「あの男、ロナルドはきみに良くしているかね」
急に父の名を出されて、マリアは固まった。やはり父のことで怒っているのか。
「後妻と娘を迎えたのは聞いておる。辛くはないかね」
マリアは首を振った。
「辛くなんて。それに、お祖父様に会えたおかげで、母のことを聞くことができて嬉しいのです」
考えてみれば、この縁はローザのおかげとも言えるかもしれない。
ローザのことがなければ、フリッツと知り合うこともなかったし、公爵家に呼ばれることもなかった。
「あ……そういえば。きょうは何か私にご用があって招待していただいたのでは?」
マリアの質問にエックバートは破顔し、なぜか隣のフリッツは気まずそうに目を逸らした。
「あの男がおまえに辛くあたっているようなら、うちの子にならないかと誘おうとおもったんだがね」
うちの子とはなにか。マリアはしばらく考えたのち、マリアを養女にしたいと言っているのかと思い至った。
「お祖父様、お気持ちはとても嬉しいのですけど、そこまでしていただくわけには……」
エックバートはゆっくりと頷いた。
「マリアの意思を無視するつもりはない。ただの老いぼれのわがままだ。可愛いひ孫の顔を毎日みて暮らせるなら、こんな楽しい老い先もあるまいと思うてな」
「お祖父様……」
マリアは温かい気持ちになったが、ここでフリッツが横槍を入れた。
「僕も可愛いひ孫のはずじゃないんですか」
「おまえが可愛いもんか。図体ばかり大きくなって、中身は泣き虫のままではないか」
悪しざまに言いつつも、エックバートの目は柔らかく、フリッツを愛おしく思っていることがマリアには感じ取れた。
「いますぐとは言わんが。儂も歳だから、そう長くは待っておれん。婚約だけでも早くまとめて、家に遊びにおいで」
「ええ、喜んで…………はい?」
婚約?
一体誰と誰の。
フリッツはため息をついた。
「だから言ったでしょう。マリア嬢とはそのような仲ではないと」
「ふん、不抜けめが偉そうに言うことか。マリアより上等な娘がいると思うてか?」
「それは! マリア嬢が一番に決まっています」
「なら答えはきまっておるではないか」
「それは……だから段取りというものが」
「段取りで好いた女を振り向かせられるものか」
マリアは二人の軽口に動揺した。
一体何の話をしているのか。
これではまるで…………
――フリッツ様が、私のことを、好き、みたいじゃないの……
再びノックの音がなった。
「わかっておる! 入れ」
「マリア嬢、もう話は終わった。行こう」
フリッツに促されて、マリアはエックバートに別れの挨拶を済ませると退出した。
「その、いきなり済まなかった。曾祖父がどうしてもマリア嬢に会わせろというものだから……」
公爵邸の廊下をマリアを誘導して歩きながら、フリッツは謝罪した。
「いえ、そんなことは。お会いできて本当に嬉しかったですわ」
母の話も聞けたし、エックバートという新しい身内ができたことも嬉しかった。
しかし……。
聞きたくない。しかし聞かないままモヤモヤするのはもっと嫌だ。
「それで、あの……婚約というのは」
マリアの問いに、フリッツはみるみる顔を赤く染めた。
「ああああああああああああ」
フリッツは近くの窓のヘリに手をついてしゃがみ込んだ。
「フリッツ様……!?」
しばらくうずくまったあと、フリッツは深呼吸して顔を上げた。
「その……一目惚れだったんだ」
「一目惚れ……?」
「きみが、妹のことを思って僕を叱ったとき」
まさか、フリッツがローザのつきまといをしていると思って思わず注意した時のことを言っている!?
「きみは、すごく凛々しくて、でも……言葉に出来ないくらい、きれいだって、思った」
フリッツが、どこか切ないような目でこちらを見てくる。
きれい、だなんて。
そんな言葉が私に当てはまらないことは知っている。
私はどこにでもいる、普通の娘だ。
マリアは自分に言い聞かせて、フリッツに問うた。
「あなたは、ローザのことを愛しているのでしょう」
「愛……いや、僕はその……」
「私、ローザに似ているところなんてあるでしょうか。髪や瞳は母譲りだし。父に似ているところはローザとは被っていませんし」
「ちょ、ちょっと待って、何の話だ?」
フリッツは慌てだす。
「私をローザの代わりに、お望みなのでしょう?」
思わず口に出した言葉だが、そう考えるとしっくりきた。
フリッツはローザに思いを寄せている。でも、その思いが叶うことはない。きっとフリッツとローザの婚約を、母ステファニーをあれだけ愛していたエックバートが許すはずもないだろうから。
そうか、はじめからそうだったのだ。
フリッツがローザに決して近づこうとしなかったのは、彼が内気なせいだけではない。現に、マリアとはこうやって会話が成り立っているのだから。
きっと、ローザとは結ばれないとわかっていたから……。
それでフリッツは、せめてローザに近しい存在であるマリアをと考えたのだとしたら、この急な婚約話も納得がいく。
腑に落ちた。
そう感じて、すっきりしたはずなのに。
どうしてだろう。どこか別の部分にモヤモヤが湧き出てくる。
フリッツはマリアの言葉にしばし瞠目したあと、大きく深呼吸をした。
「マリア嬢、聞いてくれ。僕は確かに、ローザ嬢のことを好ましく思っているよ。でもそれは、恋とか愛とか、そういうものとは少し違うんだ。彼女は、なんていうのか、僕の理想なんだ。以前にも言っただろう、元平民にもかかわらず、淑女として完璧に近い振るまいをできる彼女を尊敬していると」
「え、ええ……」
それにはマリアも同意したことを思い出した。
個人的に複雑な気持ちがないではない。だが、ローザの努力は本物だ。
「僕にはできないことだから。高位貴族の息子として、たとえ本心では逃げ出したくても、堂々と振る舞わないといけないこともある。人が見ているのは僕自身じゃない。僕がどんなふうに振る舞うのかだって。頭ではわかっているのに……」
フリッツの言葉に、マリアはローザに感じていた思いを言い当てられたような気がした。
もっと、貴族の淑女としてふさわしくしないと。
淑やかで、控えめに。でも笑顔を絶やさず、誰からも好ましく思われいる存在に。
頭ではわかっているのに、マリアの体も口も、言うことを聞いてくれない。
考えていることがすぐに口に出てしまう。抑制しようとしても、不意に糸が緩んでしまう。
それができてしまう、ローザに嫉妬していた。
「だから僕は、ローザ嬢に憧れた。彼女は自分の心を完全に制御して、夢を見せてくれる存在だから……でも」
フリッツは窓越しに空を眺める。
「きっとそれは虹のようなものだ。近づこうとしても遠ざかって、たどり着いてもそこにはないもの」
マリアも空を見た。
フリッツはローザのことをよくわかっていたのだ。ローザの虚像を知りつつ、その魅力的な虚像に惹かれた。
「マリア嬢。僕がうっかりきみの話をしてしまったばかりに、曾祖父に勇み足をさせてしまった。止められなくてすまない。きみに無理を強いるつもりはないんだ。婚約の話は、断ってくれて構わない」
「……はい」
フリッツの気遣いに感謝しつつ、マリアの胸は少しだけざわついた。
「けれど……もし、もしきみさえ良ければなのだが……その。僕と、交際してくれると嬉しい」
「え…………?」
少しもじもじしながら話すフリッツに、マリアは戸惑い、そしてかすかな期待が湧き上がってきた。
「きみは、本心から妹のために怒っていただろう。僕は、雷を打たれた思いだった。何かの“フリ”をしなくたって、こんなに人を惹きつけるものがあるのかって」
「は、はしたなくはなかったでしょうか」
今思えば、仁王立ちでフリッツを問い詰める姿は、随分と淑女らしくない形相だった気がする。
「きみの心に触れて、もっと知りたくなった。きみの本音をもっと聞きたい。近くで、ずっと見ていたい。言葉を交わしたい」
なぜか恥ずかしい行いを褒められている。マリアは頬を染めつつ戸惑った。
「つまり、僕はきみに、一瞬で恋に落ちてしまったんだ」
穴があったら埋まってしまいたい。マリアはそんな気分だった。
「ひ、人と話すのが苦手だなんて嘘です。フリッツ様は私を騙していたんですわ。こんな、こんなことを恥ずかしげもなくおっしゃるなんて……」
彼の甘いマスクでそんなことを言われれば、誰だって心が傾くではないか。
フリッツは一瞬きょとんとした顔をしたあと、破顔した。
「知らなかった。僕は愛する人の前では、饒舌になってしまうみたいだ」
「…………!」
◇◇◇
その後どうやって公爵邸から戻ってきたのか、マリアは覚えていない。
だが、翌日学園に向かおうとしたら、なぜか公爵邸の馬車が家の前に付けられており、フリッツが笑顔で降りてきた。
「では、いこうか。僕のマリア」
そう言って手を差し出されて、マリアはいっそ、あのときのフリッツのように気を失えればいいのにと思った。
記憶がはっきりしないままに、マリアとフリッツは交際していることになっていた。
信じられないような日常がすぎる中、アドラー公爵邸訪れた数カ月後に、正式に公爵家から婚約の申し込み状が届いた。マリアは再び気を失いたくなった。
普段は寡黙なフリッツが、時折堰を切ったかのように愛の言葉を語りだすことに、マリアはいまだに慣れない。
心臓の鼓動が激しすぎて、これが何かの策略であれば、自分を早死にさせたいに違いないと思った。
マリアには最近悩みがあった。
フリッツが言葉を尽くしてくれるのに、自分は返せていない。
自分は言いたいことをすぐに言ってしまうような女のはずだったのに、どうしてこんなにも言葉が出ないのか。
せめて一言、自分の気持ちをフリッツに伝えたい。
今日は、エックバートの見舞いを兼ねて公爵邸に来ている。
相変わらずこの曾祖父は、マリアを目に入れても痛くないほど可愛がっている。
しばし曾祖父と歓談をしたあと、フリッツに連れられて公爵邸の庭を散策することになった。
花の香りが、緊張気味だったマリアの心を少し落ち着ける。
「あ、あの……!」
今しかない。そう心に決めて、マリア前を歩くフリッツの背中を呼び止める。
柔らかい笑顔とともに振り返る美しい相貌に、鼓動を高鳴らせつつ、マリアは胸の前で拳を握った。
「私、フリッツ様のこと――」
言葉を告げたあとのフリッツの表情は、一生忘れられない。
マリアはそう思った。
◇◇◇
――あの女、意外とやるじゃない。
マリアとフリッツの婚約を知らされたとき、ローザは腹違いの姉を少しばかり見直した。
恵まれた環境に甘んじるだけのつまらない女だと思っていたが、公爵家の三男を射止めるとは。しかもとびきりの美男子ときた。
聞けば気弱で人見知りが激しい男で、周囲からは遠巻きにされていたらしい。姉はそこに漬け込んで優しく声掛けでもしてやったのだろう。
ローザはひと目見たときから、姉が嫌いだった。
自分がもっとも嫌いなタイプの人間だと直感したからだ。
優しく甘やかされて育って、何ひとつ疑問に思わず生きてきたような顔。
その癖やけにこだわりが強くて、ちっとも思い通りになりはしない。
昔、ローザが平民だった頃にも。同じような子がいた。
街の路地裏の一角に、廃材などの置き場所があった。
薄暗く、めったに人が近づこうとしないそこは、不良少年たちのたまり場になっていた。
ドレックと呼ばれていた少年は、不良少年たちのリーダー格だった。
溜まり場の奥に積み重ねられた空き箱の最上段に腰掛け、手慰みに隣に腰掛ける少女の肩を抱き寄せていた。
「なあ、パン屋のあれ、おまえがやらせたんだろ」
ドレックは隣の少女、ローザに問いかけた。
先日、このあたりでは評判のパン屋で火事が起こった。
火は周辺に燃え移ることなく消し止められたが、店は使い物にならなくなってしまった。
絶望して呆然とする少女の顔を思い出して、胸のすく思いをしながら、ローザはこてんとドレックの肩に頭を乗せた。
「なんのことぉ」
甘えた声で返答すると、ドレックはローザの鼻先を軽くつまむ。
「そういうのは俺には通用しないって言ってんだろ。別に責めちゃいねーよ。まあ、できれば派手なことにアイツらを使ってほしくはないがな」
「……だって、本当に嫌いなんだもの」
ローザはむくれた顔をしてみせる。
「ローザは昔からリナにご執心だな。妬けるこった」
「そんなんじゃないわよ。ただ、消えてほしいだけ」
あの節制のないぷっくりと膨らんだ頬が嫌い。いつだって気味悪く笑ったままで、私がすこしばかり痛い目に合わせてもちっとも懲りないところが嫌い。
何ひとつわかっちゃいないバカなのに、やたらと街の連中から構われているのが嫌い。
だから、大事なものを壊してやった。
リナの姉の経営する、評判のパン屋。リナの自慢の姉の幸せ。
溜まり場に集まる男たちは、何でもローザの言う事を聞いてくれた。
かれらに何か見返りを用意してやる必要なんてない。
すこしばかり自尊心を満たしてやるだけ。
ローザがドレックのお気に入りであることも、ローザに従う理由になる。
ちょっとおもしろい花火をしましょうよ。そう言って、パン屋に火付けをするよう仕向けた。
――けれど、これくらいじゃ、足りなかった気がする。
リナとその姉が呆然としていたのは、ほんの少しの間だった。
二人とも押し黙ったまま、火種になりそうなものを撤去し、散乱した店内の中で無事だった店の道具を集め始めていた。
そのときの光景が、ローザに暗い影を落としている。
なぜあんな、まだ希望があるかのような顔をしているのか。
もっと、もっと痛めつけないと折れないのだろうか。
「また何か企んでるって顔をしてるな、ほんとに悪い女だよおまえは」
ドレックがローザの頬を指でつつく。
「ドレックは、私が悪い女で嫌になった?」
ローザが抱きついて甘えると、ドレックはローザの頭をポンポンと叩いたあと、そっと腕を外した。
「おまえのことは昔からずっと好きだぞ。バカで可愛い女だ」
「バカとはなによ」
ローザはドレックの女だと周囲から思われていたが、実際にはそんな事実はなかった。
ドレックは最初から最後まで、ローザを妹のように扱っていた。
自分がまだ大人じゃないから、ドレックは……ローザはそう信じていたが、本当は違ったのかもしれない。
でもそれを問い詰める機会は、もう来ないだろう。
「ローザ、聞いているかい、ローザ」
物思いに耽っていたローザは、声にようやく気づいて振り返った。
「ごめんなさい、アルバン様。少し、昔のことを思い出していて」
「ああ……きみは確か、下町にいたことがあると」
アルバン男爵は周囲の景色を見渡し、納得したように顎に手を当てた。
ローザはアルバンの所有する船で、運河を遊覧していた。
彼はローザが学園で得た人脈を駆使して出会った中で、最高の条件の男だった。
歳は三四で、若い頃に妻をなくしており、子どもはいない。人好きのする容姿で常に流行の最先端の衣服を身にまとっている。
手広く行っている商売は羽振りが良いらしく、したたかなところもローザは気に入っていた。
「今日はきみに、贈り物を用意したんだ」
アルバンはそう言って、役者のようになめらかな動作でローザに小箱を手渡した。
ローザが小箱を開けると、銀の髪飾りが現れた。
繊細な細工は、一流の職人が施したものに違いない。髪飾りの中央には、アルバン家の紋章が刻まれている。
「アルバン様、これは……」
ローザが顔を上げると、アルバンは微笑んだ。
髪飾りを手にしたローザの両手を引き寄せ、顔を近づけて言った。
「ローザ。私の最後にして一生の恋人。どうか妻になっておくれ」
ローザの目に、涙が滲んだ。
どうして、今思いだすのだろう。あの路地裏で頭を撫でた手を。
ヴィンター子爵家に入って以来、成り上がり淑女としての人生を完璧に演じてきた。
そしてようやく見つけた目の前の男は、ローザを幸せにしてくれるだろう。
そう、確信しているのに。
「とても……嬉しいわ。喜んでお受けいたします」
アルバンの唇がローザに重なる瞬間、涙のひとしずくが頬を伝った。
その涙が、喜びなのか、悲しみなのか。
それはローザにもわからなかった。