環状を抱く夜 — 化物の心臓 —
昼の日差しが、やけに遠い。
ネクタイを締め、会議で頭を下げる。
同僚の笑い声に相槌を打つ。
そのすべてが、
今は夜の声に繋がっている気がした。
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退勤の電車。
スマホの画面を指で滑らせる。
便利な時代になった。
昔は街を流し、
仲間の伝手を探した。
今は違う。
指先ひとつで、牙が揃う。
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最新の足回り。
競技用のブレーキ。
フルバケット。
ラジアルの新品。
国産の剥き出しのホイール。
ページをめくるたび、
古い箱が生まれ変わる姿が浮かぶ。
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そして——心臓。
VTEC。
B16B。
平成生まれの化物の心臓。
あの頃、耳にしただけの憧れ。
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社会の歯車として溜め込んだ金を、
惜しみなく放り込む。
ためらいはなかった。
何に金を使うべきか。
夜が全部教えてくれた。
コアラはワンダーのまま戦いたかった。
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週末。
コアラは小さなガレージで、
油にまみれた。
鉄のボルトが外れる音。
錆びたパーツが床に転がる音。
オイルの匂いが鼻を刺す。
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外したボンネットの奥に潜り、
配線を切り、手を切り、
血と油を混ぜる。
煙草の火種が、
鉄の影を揺らす。
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目の前で脈を打つ心臓。
あの頃、手に入らなかった
VTECの刻印。
指先で触れる。
冷たいアルミが、生き物みたいに熱を持つ。
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街は眠っている。
社会は眠っている。
コアラは眠らない。
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蛍光灯の白い光の下で、
工具箱が口を開ける。
ひとつずつ、昔の記憶が転がり出てくる。
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新しい足回りが、
古い鉄を抱え込む。
剥き出しの牙が、
環状の夜を裂く準備をする。
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そのすべてが、
また走るための代償だった。
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この心臓が夜に火を吐くとき、
赤いテールに牙を立てる。
もはやワンダーは、ただの箱じゃない。
暴れる鉄馬と化した。
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コアラの口元が、
小さく笑った。