環状を抱く夜 — 鉄と牙 —
夜風が、鉄の箱を叩く。
前を行く若いRのテールが、
環状の闇を牙のように切り裂いていた。
コアラはその背中を視界の真ん中に縫いつけ、
古いハンドルを握り直した。
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——あの背中を超えたことは、一度もなかった。
昔も。今も。
誰かの後ろが心地よかった。
群れの中で笑い、煙草を回した。
速さの向こうは他人事だった。
それでも、胸の奥には棘があった。
ずっと抜かずにいた棘だ。
抜けなかったとも言える。
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エンジンの震えがペダル越しに脈打つ。
ラジエーターの冷却ファンが風を切り裂き、
古い金属の匂いが鼻に刺さる。
まだ走れる。
——そう思いたかった。
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針が跳ねる。
高架の照明がフロントガラスをかすめて流れる。
呼吸が荒くなる。
肺が鉄の煙を吸い込み、昔の声が滲む。
——もっと踏め、コアラ。
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前のRがわずかにラインを外す。
挑発か、誘いか。
若い牙が振り返りもせず、
古い鉄の鈍りを試す。
コアラは右足を踏み込む。
タイヤが小さく悲鳴をあげる。
ステアリングが路面の亀裂を拾って震える。
指先に、重さがのしかかる。
かつては気にしなかった、些細な重さ。
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ミラーには何も映らない。
ただ前だけがある。
アクセルを踏む。
シフトを叩く。
古い鉄が吠える。
横に並ぶ。
一瞬だけ。
Rのドライバーがこちらを見る。
若い目だ。
何も諦めていない目。
コアラの肺が焼ける。
心臓が鉄みたいに鳴る。
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——超えろ。
心の奥で声がした。
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しかし、その刹那。
足元で鈍い金属音が弾けた。
針が跳ねたまま戻らない。
エンジンが咳き込む。
ラジエーターの奥から、熱の塊みたいな煙が滲む。
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古い鉄が悲鳴を上げていた。
やめろ、と言っていた。
それでも、足は戻らなかった。
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Rは横目で一度だけこちらを見て、
軽く身をかわすように前に出た。
牙が鉄を置き去りにする音がした。
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コアラは、やっとアクセルを抜いた。
一度だけ深く息を吐いた。
夜の空気は冷たいのに、
汗はハンドルを濡らした。
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前を行く赤いテールが、
環状の闇に溶けていく。
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——まだだ。
声にならない声が、心の奥で呻く。
まだ走れる。
まだ砕けていない。
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古い鉄が壊れるまで、
この夜を抱き締める。