速さは、海を渡る — 刃合わせ —
この日の環状の夜は、静かだった。
いや、違う。
自身の胸の奥が、ひどく騒がしかっただけだ。
ステアリングを握る両手。
骨の奥に、熱い棘が刺さっていた。
環状を斬り裂く。
この刃が、どこまで通じるのか。
まだ足りない。
まだ何かが欠けている。
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ハンドルを切るたびに、父の背中が浮かんだ。
遠い国の夜道で、助手席から見上げた影。
黙って前を見据えていた、あの小さな背中。
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——今なら、あの人を越えられるのか。
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微かな焦りがあった。
小僧を何台抜こうが、まだ何も変わらない。
速さが血肉になる感覚が、まだ遠い。
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アクセルを踏む。
心臓が跳ねる。
回転数が赤をかすめて戻る。
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環状は、まだ何も答えてくれなかった。
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そのときだった。
ルームミラーの奥に、ひとつの影が滲んだ。
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小さな二灯。
CR-X。
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息が詰まった。
胸の奥が冷たく痺れた。
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次の瞬間、侍の刃が心の奥で鳴った。
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錆びたはずの鉄が、まるで獣のように音を立てて近づいてくる。
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古豪。
神がかったCR-X。
遠い島国のもう一人の父。
刃の先に、同じ刀を持つ獣が現れた。
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ブレーキランプが一度だけ滲む。
古豪は何も告げずに、ただ列を切り裂く。
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侍は思わず笑った。
笑いながら、奥歯を噛んだ。
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父の残した影に、今の自分をぶつける。
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アクセルを踏み直す。
前へ。
この夜を追い越す。
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路面の継ぎ目が腹に響く。
タイヤがわずかに泣く。
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小僧どもが次々と道を空けた。
二台のCR-Xが、環状の闇を斬り裂く。
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古豪の走りは静かだった。
だが速さは獣だった。
テールの揺れは小さく、無駄なロールはない。
それでいて、流れるように列を裂いていく。
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まるで親子のようだと、侍は思った。
刃が二つ。
同じ血の匂いを残して、夜を縫っている。
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古豪の横に並んだ瞬間、
視線が合った。
一瞬だけ、古豪が口の端を上げた。
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ハンドル越しに、声が届いた気がした。
「抜いてみろ。」
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侍の肺が焼けた。
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父を越えろ。
血を超えろ。
環状の刃を、自分の手で繋げ。
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ギアが刺さる。
刃が夜を斬る。
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前方の闇が震えた。
モニターで見た、あの獣が、奥に潜んでいる。
そんな気がした。
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まだだ。
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侍の瞳が夜を睨んだ。