速さは、海を渡る — 刃を研ぐ —
一度負けてわかった。
この環状は、母国の路面とは違う。
速さだけでは限界がある。
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硬い足回りが要る。
無駄なロールを殺し、
わずかな隙間に牙を滑り込ませるための骨が要る。
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夜が明ける頃、侍はCR-Xを走らせた。
寝ずのまま、街をさまよった。
港町の裏路地。
朽ちかけた看板の奥に、
油にまみれた町工場があった。
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シャッターの隙間から、光が漏れていた。
埃と鉄粉の匂いが混じったその奥に、
見覚えのあるリアガーニッシュがあった。
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CR-X。
あの古豪の獣。
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胸が跳ねた。
幼い頃、父の車を見つめた時と同じ熱が、指先にまで届いた。
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古豪は、そこにいた。
黙々とボルトを締め、
工具箱を漁り、火花を散らしていた。
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侍は一歩近づいた。
何も言えなかった。
言葉より先に、古豪の背中が笑った。
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「来たか。」
声が低く、鉄みたいに響いた。
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侍は息をのんだまま、
自分の刃を指さした。
「……環状を切るために、研ぎたい。」
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古豪は振り返り、侍を一瞥した。
油にまみれた手が、工具箱の中を探る。
「研ぎ方、知ってんのか。」
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「……教えてくれ。」
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しばらくの沈黙があった。
やがて古豪は手を止め、
ふっと煙草を咥えた。
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「いいだろう。刃を研ぐなら、ここで学べ。」
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錆びた床に膝をつく。
指を切り、油にまみれ、
侍は小さな刃を、何度も組み直した。
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父が遺した古いノートを思い出す。
港の潮気が残るCR-Xのボディに、
新しい足を与える。
ブッシュを打ち替え、ロールを殺し、
骨を鍛える。
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夜が深まっていくほどに、
二人の会話は少なくなった。
ただ整備の音だけが、
親と子のように息を繋いでいた。
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ふと、侍は問いかけた。
「なぜ走り続ける?」
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古豪は笑った。
煙草の先が小さく赤く灯った。
「速さだけが、俺を許すからだ。」
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侍はうなずいた。
「俺も、環状の化物を越えたくて来た。
父が置いていった車を、
刃にして……夜を切り裂く。」
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古豪の笑みが深くなる。
「なら俺を抜いてみろ。
俺は——コアラより速い。」
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静かに、闇がざわついた。
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侍の胸の奥が灼けた。
亡霊を越えるためには、
この古い牙を踏み台にするしかない。
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侍は両手を油で黒く染めたまま、
額に触れた。
「必ず、越える。」
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古豪の笑い声が、
小さな町工場を満たした。
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錆びた鉄と若い血が、
またひとつ夜を孕んだ。