速さは、海を渡る — 古豪の影 —
夜風が、刃のように環状を撫でていた。
侍はその冷たさに、眠気を洗い流されていた。
それでも胸の奥には火種があった。
亡霊の牙を探し続ける焦燥。
手に入れた速さでは、まだ闇を裂けないという焦り。
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深い時間の環状は、
群れも疎らだった。
若い光が、たまに通り過ぎるだけ。
抜いても、抜かれても、心臓は跳ねない。
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——いない。
亡霊はいない。
ステアリングを握る指に力が入る。
肩に宿る疲れより、胸の奥の棘のほうが重かった。
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ふと、ミラーに影が滲んだ。
一つの光。
同じ鉄の輪郭。
だが、纏う匂いはまるで違った。
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CR-X。
侍の刃と同じ形の獣が、
夜の奥から音もなく姿を現す。
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見覚えのないフロントフェイス。
低く潜った光軸が、まっすぐに侍を射抜いた。
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高架の壁が一度、風圧で唸った。
次の瞬間、背後に貼り付く影。
ミラー越しの瞳が、獣の匂いをまとっていた。
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——速い。
鼓動がひとつ、胸を蹴る。
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ブレーキを抜いて踏む。
アクセルを叩きつける。
だが影は笑うように間合いを詰めた。
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闇の中で、ふっと並ばれる。
横目に覗く暗い窓。
古豪の顔は、街灯の残響に切り取られただけで、何も読めない。
ただ、その呼吸が伝わる。
——同じ獣だ。
あの亡霊の牙と同じ匂いがした。
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ひとつ息を吐く音が聞こえた気がした。
その瞬間だった。
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古豪のCR-Xが、夜を裂いた。
何の合図もなく、無音のまま前に出る。
車列の切れ目を滑るように穿ち、
侍の鼻先を軽く叩き伏せていった。
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ステアリングが震える。
タコメーターの針が跳ねる。
シフトが追いつかない。
影は伸びていく。
まるで、地面に縛られているのは自分だけだと言わんばかりに。
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古豪は振り返らない。
ミラーにも映らない。
ただ赤いテールが、環状の闇に溶けていく。
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鼓動の残響だけが車内にこだまする。
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ブレーキを踏む。
息を吐く。
背中の汗がシートに冷たく染みる。
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——これが、速さか。
口の中に血の味が広がった。
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胸の奥が痺れていた。
心臓は敗北に震え、刃を研ぐ音を立てていた。
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環状の奥には、まだ夜がいる。
牙を隠した獣が、まだ潜んでいる。
亡霊だけじゃない。
古い牙が、生きている。
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侍はステアリングに額を預けた。
笑った。
悔しさが、熱に変わって喉を焼く。
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——次は抜く。
この刃で、あの牙を超える。
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環状が遠くで吠えた気がした。
夜がまた、侍を試していた。