速さは、海を渡る — 西へ向かう —
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眠気を吹き飛ばすほどのアスファルトが、初めて足元にあった。
港を出て、青年はハンドルを握り締めた。
遠い海の向こうで幾度も夢に見た路面を、いま自分の刃が刻んでいる。
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向かう先は関西、大阪。
環状の牙が潜む街。
亡霊を追い越す夜が待つ街だ。
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まぶたが重い。
視界の端に、何度も夜明けの光が滲んだ。
それでも止まれなかった。
寝ずの行進だった。
まるで桶狭間に奇襲をかける侍のように、
この速さを誰にも悟られぬうちに——
環状へ踏み込む。
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大阪にたどり着いたとき、空は白み始めていた。
CR-Xのボンネットに手を置く。
潮気の残る鋼が、指先の熱を奪う。
「ここが、お前の戦場だ。」
胸の奥が、また一つ跳ねた。
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眠る時間など要らなかった。
すぐに環状へ向かう。
何年もスクリーン越しに思い描いた曲線が、
ようやく目の前にあった。
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だが、夢に見たあの獣の姿はなかった。
ただ、風と車。
無数の群れが流れていくだけだった。
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仮の宿に戻り、浅い眠りに落ちた。
脳裏には環状の暗がりと、まだ現れない亡霊の影だけが残った。
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夜が来た。
青年はまた環状へ向かった。
刃を研ぐためでもあった。
あの獣に挑むためでもあった。
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だが、誰もいなかった。
見えるのは、整った群れ。
鋭い走り。
それだけだ。
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アクセルを踏む。
仕掛ける。
だが抜けない。
追いつけない。
心臓が軋む。
遠い国の夢だけで作った速さは、まだ薄っぺらだった。
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「こんなはずじゃない。」
言葉が漏れた。
誰もいない助手席に、届かない呟き。
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亡霊はどこだ。
環状を食い破った、あの牙はどこだ。
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胸の奥が、熱を帯びて疼いた。
速さに触れたい。
獣を斬り伏せたい。
血の匂いを吸い込みたい。
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だが、夜は何も応えなかった。
ただ、環状のざらつきを
ステアリングが指先に伝えるだけだった。
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ハンドルを叩いた。
窓の外の風が笑った気がした。
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まだだ。
まだ俺は、刃を研ぎ足りない。
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眠気も焦りも、全部アスファルトに置いて、
侍はまた環状を走り出す。