速さは、海を渡る ー 旅立ちの刻 ー
青年の部屋は、小さな鍛冶場のようだった。
机の上には外したパーツ、鈍く光る工具、
油の匂いが夜気を満たしている。
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スクリーンに映る遠い国。
見たことのないアスファルトと、
走り去る亡霊のようなワンダー。
画面の奥から、鋭い呼吸が聞こえた気がした。
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検索履歴は日本語だらけになった。
環状、首都高、峠、深夜。
言葉の壁など関係ない。
速さだけが胸を刺した。
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父が遺した古いノートをめくる。
頁の隅に、小さく走り書きがある。
> 「この車は、まるで刃だ。
闇を切り裂く刀となり得る。」
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青年は小さく笑った。
——なら俺が、研ぎ澄ませる。
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財布を空にしても構わなかった。
働いて貯めた金は、
すべて海を渡る刀へと変わった。
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注文メールが並ぶ。
足回り、強化パーツ、スペアツール。
航空券のEチケットが届く。
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友は笑った。
「無謀だ」と肩を叩いた。
だが、青年の蒼い目は笑わなかった。
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夜、ガレージで愛機のボンネットに手を置く。
冷たい鋼が、指先の熱を吸い取る。
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「行こう。」
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誰に言うでもなく、
刃が、小さく呼吸した気がした。
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荷物は少なくていい。
着替えより工具を、土産よりオイルを。
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夜明け前の空港へ向かうタクシーが、
路地にヘッドライトを灯す。
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速さは海を越える。
夜を切り裂くために。
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青年はドアを閉めた。
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——侍の夜が、始まる。
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