環状を抱く夜 — コアラと呼ばれた男 —
男がいた。
環状族が街を支配していた時代、
彼は人並みに速く走った。
だが、先頭にはなれなかった。
ただ夜が楽しければよかった。
仲間と笑い、タコメーターの針が跳ねる音を肴に煙草を吸った。
心のどこかに、一番への憧れを押し隠したまま。
群れは散った。
事故で去った者、家族を持って降りた者、名前すら残さず消えた者。
彼もやがて多忙な日々に流され、自由の翼を心にしまった。
けれど、折れはしなかった。
心の奥で、速さへの葛藤だけは死なずに残った。
月日は流れた。
街は変わった。環状は変わらなかった。
営業帰り。
彼は禁煙の社用車を路肩に止めた。
社会の空気を肺から追い出すように、一服の煙を吐く。
ふと視線の先に、並んだ鉄の墓場があった。
その奥に——
埃と錆にまみれた後ろ姿を、見つけた。
忘れるはずがない姿。
古いシビックだ。
ワンダー。
かつての愛車。
仲間と夜を滑った、小さな鉄の箱。
彼は夢遊病のように運転席へ歩み寄った。
ドアは外されたままだった。
がらんどうの車内に、ひとつだけ残ったものがあった。
ダッシュボードに、誰かが油性ペンで落書きした絵。
丸く眠たそうな熊が、ステッカーみたいにへばりついている。
——コアラ。
それは、かつて彼の愛した車そのものだった。
環状にしがみつく男をからかって、仲間が書いたものだった。
時代が変わって、誰かの手に渡っても、まだ走っていた。
そうして、終の棲家で彼に巡りあった。
彼はスーツに泥がつくことすら構わず、
スクラップヤードの店長に頭を下げた。
何度も礼を述べた。
そうして、コアラはもう一度、翼を手にいれた。
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エンジンは死んでいた。
車体は腐りかけていた。
それでも、鉄とオイルの匂いはまだ息をしていた。
週末ごとに、彼はワンダーに手をいれた。
外したボンネットの奥に手を突っ込み、指先を切り、油にまみれた。
若い頃に覚えたはずの工具の重さは、あの頃よりも重たくなっていた。
欠けたプラグを替え、割れたヘッドライトを探し、
土に埋もれたホイールを磨いた。
誰も知らない夜。
錆の奥で、小さな咳のようにエンジンが火を噴いた。
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その晩、彼は着慣れたスーツを脱ぎ捨て、
オイルの匂いが残る手でステアリングを握った。
ミラー越しに街の灯りが流れていく。
速度計がまだ生きていることを確かめる。
シフトを叩き込み、窓を少しだけ開ける。
——吸い込まれる夜の気配。
止まらない時間の匂い。
ハンドルを切る先は決まっていた。
環状の入り口が、遠く青白く光っている。
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彼は気付かなかった。
バックミラーに、若い光が映っていることを。
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コアラが、もう一度環状にしがみつく。