トイレというのは、人生の駆け込み寺
午前3時。
僕は後悔していた。
汗が顔の頬を伝っていく。
その過程で何ともしがたい痛みが走る。
「どうしてこんな………」
拍車をかけるように体中から滝のように汗が流れ落ちていく。
体が燃えるように熱い。
脚はガタガタ音を立てて震えている。
その時、扉を叩くノックがあった。
『トキ君? ねえ、大丈夫?』
「こ、これが大丈夫に見える?」
『扉越しで見えてないし、声しか聞こえないからわからないわよ』
「いや、トイレに今一時間くらい籠っていることから、さ、察して………」
そう、お腹を壊した。
真衣姉さんが買ってきた焼きそば(激辛)のせいで………。
真衣姉さんの思い付きは今に始まったことではない。
今回は、神薙ショッピングで、たまたま目に入った焼きそばの会社がすべて激辛を謳っていたことから、どの商品が一番辛いのか気になって全種買ってきたらしい。
そのせいで、理奈姉さんと僕はその実験の被害者になった。
しかも全8社のカップ焼きそばを3人で食べなければいけないので一人2つ以上食べる計算になる。
さらに言えばすべて激辛なので咽て、汗が噴き出るを繰り返した。
最終的に味覚がなくなり、辛いのか熱いのかよくわからなくなった。
なお理奈姉さんは最初にダウンし、部屋に入って倒れた。
僕も二番目にダウンした。
口が燃えるように熱くなり頭がグラグラし始めたので、そのまま部屋のベッドに倒れて再度眠った。
午前2時くらいに急にお腹が悲鳴を上げ始めトイレに急行し、今に至る。
「なんで、真衣姉さんは平気なの?」
『なんで、っていわれても………こっちが困るわ』
この姉は、ダウンした僕らの傍らで平然と激辛焼きそば群を平らげたのだ。
ただし、その惨状を帰ってきた紅葉さんに見られお説教部屋行きとなった。
今日の真衣姉さんの学びは、かるま食品のへヤングが一番辛く、旨さなら洋東社の焼きそばBegooonとの結論がでた。
これを真衣姉さんが紅葉さんに反省文として報告したところ、後者はちょい辛なので激辛の対象ではないと反省文のやり直しを言い渡されたそうだ。
『いや、そこの修正じゃないでしょ?』と思ったが、そんなツッコミをする余裕は僕にはなかった。
せめて、整腸剤をください。
そんなことを思っているとトイレの扉前に新手が来たらしい。
『あら、理奈? 大丈夫?』
『どいて! トイレ!』
『今、トキ君が入っているわよ?』
理奈姉さん、すまない。今は立ち上がれない。
すでに入ったもの勝ち。
ここは理奈姉さんに踏ん張ってもらうしかない。
『早く開けなさい!』
乱暴なノック音が響く。
「む、無理だって! こっちも限界なんだから!」
『こっちも限界なんだから!』
確かに、この腹痛は耐え難い。
わかる。
わかるけど………。
「でも、い、今立ち上がれない状況で………」
すまない理奈姉さん。
何とかしたいけど無理なものは無理。
現状お腹が落ちつかない限りまたすぐトイレに入ることになる。
それにお尻が痛い。
そうすると、足音は素早く立ち去って行った。
諦めたのだろう。
確かにこの場合、無駄なエネルギーを使うよりおとなしくしてこらえるのが一番得策である。
さすが理奈姉さん、合理的である。
そう思っていたら先ほどまでの足音が戻ってきた。
『ちょっと理奈! それをどうするつもり!?』
『こうするのよ!』
扉に衝撃が走り何かの先端が突き抜けてきた。
さらに繰り返され突き出てきたものが斧であることが分かった。
そして穴が大きくなっていく。
その切れ目から、こちらをのぞき込む目が現れた。
「キャー!」
「姉の登場!」
〇ャイニング!
「ダメだって! というかそのセリフ言いたかっただけでしょ!」
その隙間から手を伸ばし扉のロックを解除しにかかる。
カチャっという音とともにドアが開いた。
遠くから悲鳴に悲鳴が重なって聞こえるけど居間に避難した私には関係ない。
おそらく惨劇が行われていることは確かだが、ここは雪山でもなく、まして孤独な場所でもない。
なんて穏やか日常だろう。
そんな悠長なことを思っていると肩を力強くつかまれた。
この握り方はわかる。
逃げられないよう退路を塞ぐように入り口側の扉側の方を掴まれている。
そして肌がピリつくこの殺気………。
冷たい汗が一筋、背筋を流れる。
「おはようございます。お嬢様さま」
我が家の一員であり、私にとって年の離れた姉であり、トキ君の保護者でもある。
そして、何よりもこの邸宅を任された最恐のメイドである。
「………お、おはよう、紅葉。今日もいい朝ね………」
「今は深夜です。私の少ない睡眠時間をさらに少なくするこの騒ぎは一体なんですか?」
口調は穏やかだが、顔面から放つ圧はすさまじい。
目が座っている。
肩を掴む手が私の肩に食い込んでくる。
「こ、これは、その、さっきの件で二人ともお腹を壊したらしく、トイレの取り合いになっているところ………です」
さっきまで焼きそばを食べても無反応だった汗が垂れてくる。
「そうですか。先ほどは、あえて申し上げませんでしたが、私が休暇を取るにあたって食事のことを言っておいたはずですが?」
「え、えっと。食事は自由にとるように、だったかな?」
さらに掴まれていた手に一層力が加わってくる。
メキメキと私の肩から音が鳴る。
それよりも恐怖が先だ。
「私は冷蔵庫に入っている食事を自由に使ってといったのですよ? 誰が、実験でカップ焼きそば激辛を買って食べるように言いましたか?」
「い、言っていません。すみません。許してください。めっちゃ痛いです!」
先ほどまで片手で捕まえられていたがもう片方の手で反対側の肩を捕まえられた。
あ、終わった。
上半身を捻られ紅葉の顔を見せられる。
うっすらと笑みを浮かべているが目が笑っていない。
「反省してもらいます」
「ちょ、待っ………」
「問答無用」
両肩に回された手を腕に回され強引に天井に向けて垂直投擲された。
私は天井にキスどころか突き破って天井部に上半身が埋もれる形となった。
落ちついてから僕と理奈姉さんには紅葉さんから下痢止めが渡され、しばらくして落ち着きはとりもどしたものの、いまだにお腹が音を立ててうなっている。
また紅葉さんからは、
「家が汚れましたので、掃除をします。その間お風呂に入られてください、クソども」
と、半ギレ状態で言われた。
うまいこと言われたけど、あたりがキツイ。
ちなみに真衣姉さんは天井に刺さった状態から引き抜いたところ、真っ白になっていたので、紅葉さんに衣類を着たまま浴槽にぶち込まれていた。
このメイド、やたらと当主に厳しくない?
いや、何回も見せられた光景だから慣れてきたけど異常じゃない?
おそらく積年の事柄がそうさせているのだろう。
うちでは、こういう事柄が一週間に一回はある。
真衣姉さんも学習してほしいものだ。
いや、一周回ってこれがお互いのコミュニケーションになっているのかもしれない。
確か、昔の芸人たちは『押すな、押すなよ』、というのは『押せ』という芸風があったと聞く。
まあ、これが四乃宮家の芸風なのだろう。
だけど、毎度コントのために邸宅を破壊しないでほしい。
職人の人たちが毎週きて『次はいつくればいいですか?』って言われる始末だ。
心で愚痴を言っていると、脱衣所の外で返答するかのように声をかけられた。
『ご安心ください。お嬢様が反抗期の頃は、半壊が普通でした。また、ペースも毎日でしたので昔より今は成長が伺えてうれしい限りです』
紅葉さんだった。
脱衣所前で待機していたのか。
あと心の中をのぞいたかのような回答はやめてほしい。
浴場を開けるとすでに真衣姉さんが湯舟に浮いていた。まだ濡れた服を着た状態で。
「………ブクブク」
さすがに、そのままにしておくのは忍びない。
「………真衣姉さん、とりあえず服脱がすよ」
「いやぁん、トキ君のエッチ♡」
「………姉さんみたいな、ぺちゃパイに興味ないよ」
「わかってないわね。女の魅力は胸じゃないのよ。尻! 尻によって決まるのよ!」
「ハイハイ、早くしないと紅葉さんに洗濯物洗えないって怒られるから脱がすよ」
「………ん」
初めから素直にしてほしいものだが、この姉一号に言うのは酷かもしれない。
ちなみに僕の性癖は胸ではない。そこは誤解なきよう。
そうしてずぶ濡れになっている衣類を脱がし、服についた水分を絞りだす。
こうして姉一号の服を脱がせてわかったが、無駄な脂肪がなくその代わりに常人ではありえない筋肉が見え隠れしていた。身長は僕と同じくらいか少し小さいくらいなのに体重が80キロ近くあるのは恐らく鍛え上げた結果なのだろう。なにより、その体のあちこちに無数の痣が散見されたことだ。多分、無茶な戦闘でつけてきた傷なのだろう。
いや、もしかしたら一番傷が増える要因になっているのはメイドとのじゃれ合いかもしれない。生半可な戦闘よりもここのメイドの方が強いのである。
姉一号の服を脱衣所に戻り洗濯機に入れる。
そうしている間に、脱衣所に理奈姉さんが入ってきた。
「今日は、ひどい目にあったわ」
「それ、僕に言う?」
「………早く入るわよ」
確かに、緊急事態の時(トイレ大)はすべて投げ捨ててでも入りたい場合があるのは事実。
時として人間は尊厳より生理現象を優先する。
恥も外聞もない。
だからと言って、斧で扉を壊し、内カギを開けて侵入するのは勘弁してほしいものだ。
理奈姉さんと一緒に浴場に入り、シャワーを軽く浴び、体を洗ってから湯舟につく。
そこまではよかったが………。
「理奈姉さん?」
「何?」
「どうして僕の上に乗っかってくるの?」
なぜか僕の上に乗っかってきたのだ。
浴槽は一般家庭よりも広く、6人掛けでも幅には余裕ある。
しかし、理奈姉さんは、あえて乗っかってきた。
思えば昔から、理奈姉さんは僕になんでもマウントをとってくる。
罰ゲームで椅子にさせられた時のことを思い出した。
ここでのイスとは四つん這いのことではなく空気椅子のことだ。空気椅子をした状態で乗っかられる痛みはすさまじかった。
あの時は、体幹も筋肉も未発達だったため本当にきつかった。
「理奈姉さん、広いんだから隣に浸かってよ」
「さっき、早くトイレを出なかった罰よ」
理不尽。
僕だって、キツイ中で引きこもっていたのだからしょうがないと思うのだが………。
「それで今日は二人ともどうするの?」
さっきまで浮かんでいた姉一号が切り出してくる。
誰のせいでこうなったと思っているのだろうか。
僕たちから白い目で見られているのに反省の色がまるでない。
あきれていると、切り替えの早い姉二号は淡々と語り始めた。
「今日は午前中までに、決算報告書の提出と午後一から若手の新規案件の発表会があるからほぼリモート会議になるわ。そのあとはしばらく時間があるから実況しながら昨日の購入したゲームをする予定。でも深夜帯にサビ残している馬鹿な社員がいないか抜き打ちチェックのために出社するわ」
………珍しい。
理奈姉さんが午前と午後、どちらにも予定を会社に入れるなんて。
理奈姉さんは午前もしくは午後、どちらかは必ず空けて置いたはずだ。正直、耳を疑ったほどだ。
「珍しいこともあるものね。………もしかして総決済で予想よりも下回った結果だった?」
「いいえ、誤差範囲内だったわ。………だからこそ、ちょっと新入社員に期待を込めたいって感じ………かな」
誤差範囲で満足できないなんて、上の人たちはすごい思考をしているんだなあ。
そう感心していると真衣姉さんの視線は僕に向けられた。
「で、トキ君はどうするの?」
「うん? とりあえず、地上の東ブロックに行くつもりだよ」
「ああ、あの親子に会いに行くつもり?」
「そのつもり」
べチベチ。
理奈姉さん、湯舟だからと言って太腿をたたかないで。
「確か、出会って3年? 4年?になるでしょ? あなたが左手に噛み傷をつけて帰ってきたときにはびっくりしたけど」
あの時の歯型は、今でも残っている。
装備の回復機能をもってしても残る傷口。
手には抉れた傷が痛々しく残っているが、すでに完治もしているし痛みもない。
「この傷は、しかたないよ。あの時のカルミラにはそんな余裕なんてなかっただろうから。そんな彼らが生き生きとした時間を過ごせているのであれば仕事のやりがいとしては十分だよ。それに最近は、スミレちゃんから『遊んで!』ってせがまれてさ。子供の成長が、いかにはやいかを身をもって実感しているよ」
仕事をしていると、時々難民にあう。
その人たちが誤って防衛線内に踏み込んでくることはよくあることだ。
市民権がない人たちをコロニー内部に入れることはできない。
しかし、コロニーからみて東西南北にある地上再開発地に難民を誘導することは許可されている。さっき言った親子はさらに特殊だが、同じような手引きで今は地上の開発地に定住している。その親子に定期的にあっている。これが僕にとってささやかな幸せの一つでもある。
感慨に更けていると、何が不満なのか理奈姉さんはご立腹だ。
「あんた、昔から子供には優しいわよね………。そのやさしさをもっと偉大で聡明な姉に向けなさい」
「年上は優しくするものではなく、敬うものと思っていたけどね、理奈姉さん?」
「どちらも必要よ。そうすればいつか大きな見返りがあるかもしれないわよ?」
「いや、ないでしょ」
断言しよう。
理奈姉さんに借りを作ったとしても僕には絶対いい方向にならない。
最終的に姉さんの奴隷として首輪をつけられる未来が見える。
だから絶対に無駄なことはしない。
そして癪に障ったからって肘打ちはやめて! みぞおちに入っているから………。
はっ⁉
違う!
狙ってみぞおちを打ってきている⁉
そんな僕たちの様子を見て真衣姉さんはあきれ顔をしていた。
「どちらにせよ、早くパートナーは選んでおきなさいよ」
なぜその方向の話になる?
文面がガラっと変わって違和感しかないが………。
「トキ君は甲斐田の姓を名乗っているけど、四乃宮家の名前も持っているに等しいから言い寄ってくる人は多いはずよ? 玉の輿ってやつね?」
いや、目の間にいる姉一号に言われたくない。
「そんなこと言っても、女の影がない僕に言われても」
寂しい男あるあるの悩みだ。
「「どの口で言っているの!?」」
見事な二重奏だった。
今度は、僕が白い目で見られる番だった。
何故?
そういわれても、現実ではお付き合いをしたことないし、どちらかといえば避けられている………と、いう感じだ。
21歳で彼女無し。
先は長いとはいえ、悲しい。
「トキ君って、基本他人の好意に関して無頓着というか、おざなりというか………」
「女の敵」
言いたい放題だ。
「姉さんたちよ、誤解をうむ発言をしないでくれ。決して女性に興味がないとかではない! むしろ、普通に接してほしいし、欲情だってする!」
あとそんな憐れむような眼を向けないで!
この家族の中で一番地位が低いだけでなく、信頼の地位も低いらしい。
とりあえず、そろそろ湯船から出たい。
理奈姉さんを一旦抱きかかえて僕の体をずらし、理奈姉さんをゆっくりおろす。
理奈姉さんはすごく不服そうな顔になったものの抵抗なく、浴槽に再度浸かっている。
浴槽から出て、髪をシャワーから出るお湯で濡らす。
滴り落ちる水滴が口の周りを通るだけでピリピリとした痛みが走る。いまだに唇の腫れが引かないのだ。この痛みのせいで陰鬱な気分にさせられる。
頭を洗い終えてすぐに浴室を後にする。
「もう出ていくの? もう少し湯舟に浸かっていけば?」
「もう上がるよ。それに真衣姉さん、もうすぐ4時過ぎるよ。急いだほうがいいんじゃない?」
そういって、後にする。
僕は、姉たちと違って長湯ではない。
どちらかといえば迅速に終える方だ。
毎回の平均時間は10分くらいで済ませている。
だが、決してお風呂が嫌いなわけではない。
考え事や憂鬱なときはお湯に浸かっていたいと思えるほどに好きである。
今回の件は、あの姉たちから脱出するため早めに上がりたかったのが本音だ。
それと、口の周りやお尻がヒリヒリして痛いからという理由もある。
そそくさと浴場を後にして着替えに手を伸ばす。
浴場からはまだ姉たちの話声が聞こえる。
この調子だと、真衣姉さんの遅刻する未来が見えるが、言及すれば煙たがれるのも事実。
ここでは放置が適切との結論が経験から出た。
おそらく、また紅葉さんに捕まるであろう未来も見えるが仕方がない。
これは真衣姉さんが選んだ結果。
つまり僕のせいじゃない。OK?
着替え終わってから朝食を作っている紅葉さんのもとに向かう。
だいたいこの時間から仕込みを始めているのは長年の経験上わかっている。
キッチンには予想通り紅葉さんの姿があった。
日課となっているので自分がどう行動するかもわかっている。
おそらく、真衣姉さんの早出の件を聞いているはず。昨晩のうちに仕込みの大まかなものはできている………。なら配膳準備の手伝いをした方がいいだろう。
そう思いキッチンに踏み込んだ瞬間、何かが顔の横をかすめた。
後ろを振り向くと包丁が壁に突き刺さっていた。
「何かと思えばクソ虫さんじゃありませんか。死にたければ一歩前においでください」
殺意むき出しで睨まないで。
「居候だけど、殺さないでください。あとクソ虫はやめてください」
「これは失礼しました。先ほどまで汚物のようなものでしたので適切ではありませんでしたね、クソ野郎」
「確かに虫から人には昇格したけどクソは要らないよね⁉」
「最近は、なりを潜めていますがキッチンでの作業中に床や壁をはい回る黒い虫と同類だと勘違いしました。あの時の感情が噴出してつい………。なので、キッチンに入らないでください、G野郎」
「楽しんでいる⁉ 明らかに楽しんでいるよね⁉」
楽しんでいるのはいいが、おそらく一歩前に出ると確実に死に至るであろうことは予想できる。だって、紅葉さんの右手にしっかり包丁が見えているから。
「そ、それじゃあ、洗濯物でも干しにいってきます! すみませんでした!」
その言葉と同時にキッチンの境界線まで後退する。
するとさっきまでの殺気が薄くなった。
「洗濯物にクソのにおいを付けないでくださいね、Gブリ野郎」
言葉の追撃を背中に浴びながら洗濯物を回収しに洗濯機に向かう。
私、月下理奈は、弟が浴場から出たことを確認して浴槽に浸かりながらいじけていた。
先ほどまで背中に感じていた温もりがなくなり、無機質な浴槽に背中を預けている。
ため息が零れ落ちた。
もう少し、いてくれてもいいじゃない。
いや、違う。
どうしてこうも、素直になれない………。
湯面に口を沈めてさらに息を吐く。
当然、そこにはぶくぶくと音を立てて泡が浮き出てくる。
意味のないことをしている自覚はあるし、何なら非合理的なエネルギーの使い方だが、精神的な均衡を保つためには必要なことだ。
「どうしたの、理奈? 明らかにテンション下がっているじゃない?」
「………なんでもない」
真衣姉さんは家族のことをよく見ている。
ちょっとしたことや嘘は確実に見抜く。
その他のことはかなりおざなり(馬鹿)だが………。
真衣姉さんは、この邸宅に住んでいる私やトキ、紅葉さんのことを最重要と思っていることは長年一緒に住んでわかっている。
でも、感づいてほしくない時もあるのだ。
「トキ君と一緒の時間が過ごせるから『喜んでいた』、ように見えたけど?」
本当によく見ている。
「別に………」
「そお?」
嘘だ。
私は噓つきだ。
自分でも自覚しているほどだ。
本当の自分を偽らないと生きていけない。
立っていられない、弱い自分。
それをいままで支えてくれたこの家族が何よりも大切だ。
さらに言えばトキへの依存心………。
「ねえ、少しだけでいいからトキ君と本音でお話したら? 今のままは、つらいだけよ?」
「………」
「ほんとはトキと離れたくないし、一緒にいたいんでしょ?」
「………」
本当に煩わしいまでに見透かされている。
これくらいトキも察してくれれば楽なのだが………。
あの唐変木は、心に壁を作っているせいで相手の感情を読めないようにしている。
場合によっては、ありがたいが最近はつらい。
「真衣姉さんみたいに素直に生きられない。それにトキには幸せでいてほしい」
「でも、自分の気持ちに蓋をしたから苦しいのよね? 丸わかりよ?」
真衣姉さんに馬鹿にされたようで『ㇺッ』、としたが仕方がないことである。
煮え切らない自分が悪いのだから。
「確かに今の義姉という立場にいるのもいいけど煮え切れずモヤモヤした感情を引きずって、最後まで後悔する結果になるのはわかっているんじゃない?」
「………わかっているわよ」
「あなたって、賢いくせに臆病で姑息よね。あれだけトキ君には強気でいるのに」
耳が痛い。つらい。でも怖いのは事実。
嫌われたくない。
蔑まれたくない。
離れたくない。
おいて行かれたくない。
「会社まで立ち上げて、つらいことがあっても挫けなかったのは、トキ君がいたおかげでしょ?」
私が会社を立ち上げたときに、こんな私でも人生を貫けることをトキに教えてあげたかった。このご時世でも生きていくことができると認識してもらってそれで、必要とされたときに手を差し伸べてあげられる存在になりたかった。
でも実際は違った。
トキは異常だった。
私は秀才だったが、都木は天才だった。
しかもだ。
よりにもよって軍学校で才能が認められてしまった。
頑張って本を読み漁って、時間の限り知識を覚えて、早く進級して家族を守れる屋台骨になろうと努力してきた。
私が頑張れば真衣姉さんもトキも戦場に立たなくていい。
死ぬのは、他のだれかでいい。
いまでもトラウマが蘇ってくる。
私の母親のような死を視たくない。
そう思っていた。
しかし、私の思惑は外れて二人とも今、戦場に立っている。
特にトキには立ってほしくなかった。
この家で初めて見たときから感じていた。
ああ、同類だと感じた。
この世界で生きるにはつらい。
だから姉という立場を利用してこの世界から守れるように努力を重ねてきた。
だが、結果はこのざまだ。
———私ではこの子を幸せに導くことができない。
さらに言えば長年一緒にいるせいかそれとも愛着なのか、逆に私が依存するようになってしまった。
「まあ、冗談抜きで、別に難しく考えずに『私から離れるな』って言えばいいんじゃない?」
そんな簡単に言わないでほしい。
でも、(馬鹿な)真衣姉さんの発現は受け入れなければならない。
「でも、真衣姉さんの意見も正しい」
「お! ついに妹が一歩踏み出すの⁉ お姉ちゃん感動だよ」
「………うるさい」
この姉のペースは、どの交渉相手より難解なのだ。
「ただ………」
「ただ?」
「今度、ショッピングで自分も服を見るのもいいかな………」
私が出せる勇気にも限界があるのだ。
「ピュア! 我が妹ながら純粋でかわいらしくていじらしい! だが、そこがいい!」
姉のテンションの振れ幅も読解不可能だ。
「それじゃ、あの唐変木が嫌でも振り向くように飾りに飾りまくっちゃおう!」
姉に相談したことを後悔した。
………でも、トキに振り向いてほしいのは本心だ。