第45話 ある騎士の悔悟
エルヴァ・メナールにとって、陽輪の聖女、ルベル・セイントは、己の生き様を肯定してくれたはじめての人だった。
騎士を数多く輩出する名門伯爵家出身にもかかわらず、エルヴァは努力ではどうしようもない理由で期待されていなかった。
周囲の反対を押し切り独力で騎士になったが、家名に忖度する者達のせいで望む前線配属とはならなかった。
悔しかった。
力で競り負けるのなら素早さで。剣術が追いつかないのなら魔法を極めた。
熟練の騎士にも負けない実力を持ったはずだったが、同期達に次々と追い抜かれていく。
それどころか騎士団にも家族にも「いつやめるのか」とせっつかれた。
この力を以て、国を守りたい。それだけが難しい。
くすぶる中で配属されたのが、陽輪の聖女ルベル・セイントの護衛騎士団だった。
平民出身の聖女であり、まれに見る攻撃魔法の使い手。
だが酷く扱いづらく、護衛を置き去りにして任務に当たるような問題児らしい。
何人もの副官が胃をやられたり怪我を負い、やめている曰く付きの上司だった。
どうやら少しでも親しみを覚えてくれたら、という理由でエルヴァが選ばれたらしい。
たとえ顔で選ばれようと、ようやく望んだ配属だ。
多少問題があろうと勤め上げてみせる。
そうして顔を合わせたルベルは、幼いとも呼べる年齢の少女だった。
もっと驚いたのは、彼女はエルヴァが自己紹介をしても淡々とうなずくだけだったことだ。
エルヴァを見て知ると、たいてい奇妙な顔をするのに、まるで興味がない。
『私のことが気にはなりませんか?』
『? なんで? 騎士なんでしょ。そのほかに必要?』
当時のルベルは、護衛の騎士を監視役としか捉えていなかった。
それは、いてもいなくても変わらない存在という意味だ。それはわかっている。
だがエルヴァにとっては、はじめて己のあり方を肯定してくれた言葉だった。
救われたのだ。
それから、ルベルに付き従い、様々な戦場を渡り歩いた日々は、エルヴァにとって得がたい時間だった。良いことばかりではなかった、血反吐を吐き、文字通り死にかける経験を何度もした。
大の大人ですら裸足で逃げかねない惨状の中でも、ルベルは赤髪をなびかせ、前を向き続ける。その背を守りたいと心から思うようになるのは、自然の流れだった。
心からの忠義を捧げられる、唯一の聖女。
だから、彼女が押しつけられた結婚には、悔しさしかなかった。
社交界ではその話題で持ちきりだった。少し耳を澄ませるだけで、そこかしこからルベルへの嘲弄が聞こえてくる。
「第二王子殿下の王子妃とはいえ、あの鮮血聖女には不相応でしたわ」
「それにしたって、癒水の聖女ラフィネ様と即座に婚約し直しとは、あからさまでしたけれど」
「ラフィネ様のご実家であるカルダン侯爵家も、鮮血聖女を煙たがっておりましたからね。利害が一致したのでしょう」
「そういえば、第二王子殿下は、グランナリー地方に出現した魔獣被害を抑えに行くらしいですわね――」
第二王子との婚約が解消されたのは望ましかったが、ルベルがもたらした恩恵の一端を甘受しておきながら、口さがない貴族どもに腹が立つ。
だが、それ以上に――胸にくすぶる悔しさと絶望を持て余していた。
ルベルとは、良い関係を築けていると思っていた。生涯仕えたいと考えていたのだ。
だがエルヴァの聖女は、あっさりとエルヴァを王太子に預けて、たった一人で味方などいない土地へと旅立ってしまった。
どうして。と思った。
どうして自分を置いていったのか、必要ないと思われたのか。
追いかけることもできず、さりとてルベルに仕えた者として無様な姿もみせたくなく、近衛騎士団でくすぶった。
そんなとき、第一王子カーティス殿下が話しかけてきたのだ。
「メナール卿、仕事には慣れたか」
「はい。同僚達もよくしてくれますので」
お世辞ではなく、働きやすい環境だった。カーティス付きの近衛騎士達は仕事仲間として扱ってくれたからだ。カーティスがよく統制をとっているのを感じさせた。
ただ彼がエルヴァに興味を持つのか、といぶかしんでいると、カーティスはひとつうなずいた。
「なによりだ。貴殿のことは、陽輪の聖女殿によくよく頼まれていたからな」
「は……」
ルベルが自分のことをカーティスに頼んでいた?
初耳の話に衝撃を受けたエルヴァが硬直すると、思惑の読めない笑みを浮かべた。
「ああ、聖女殿はことのほか部下達を大切にしていたようで、行き先の世話を頼まれた」
そこまで考えてくれていたのか、とエルヴァはくすぶっていた己が恥ずかしくなった。
だがそれも次の話を聞くまでだ。
「ロストーク伯は、以前から精霊の居着かぬ自領を改善できないか研究を進めていてな。私もどうにかできないかと考えていたんだ。聖女がいれば、精霊も土地に近づいてくるだろうよ」
ぐわん、と殴られたような気がした。
ルベルの利用され続けた半生を、エルヴァは知っている。
魔法使いの研究材料にされ、戦の道具にされ、見合う評価もされず、最後は王都から追い払われ、一領地の妻という名の精霊を引き寄せるためだけの人形になるのか。
(生け贄、ではないか……!)
蛮族伯という異名が脳裏をよぎる。
辺境伯というのは、常に国境……つまりいつ他国に攻め入られるかわからない地域を治めている。だからこそ、王家の厚い信頼と、能力を認められて任されるのだ。
逆にいえば、王家が忠義に足らずと判断すれば、剣を向けることもいとわない。
ロストークは代々その期待に応え、かつては王家に連なる血筋の者が嫁入りすることもあったという。
ましてやロストークは、いつ魔獣があふれるかもわからない土地だ。
魔獣が周辺地域に侵攻してこないどころか、大きな被害が王都にまで届かないことからしても、その統治と軍事力の強さは少し考えが及ぶ者であれば容易に察せる。
最強の盾にして、治世を判断する試金石。そういう家門なのだ。
だからわかってしまった。
エミリアンの婚約破棄などただの茶番で、カーティスが……王家がロストークの信を得るために、聖女を差し出す布石に過ぎなかったのだ。
なにより、どこまでもルベルを遣い潰す気なのだと。
かろうじてエルヴァは剣を抜くのを堪えたが、殺気がこぼれるのは抑えられなかった。
カーティスの護衛が柄に手をかけるが、それは当のカーティスが制した。
なぜだと、目の前が真っ赤になるような怒りの中でも疑問に思っていると、彼は話を変えた。
「ところで、貴殿は貴族の作法に詳しかったな? 今、聖女殿の嫁入りの品のほかに、教育係を送る話をしている。聖女殿の護衛兼教育係として、ロストークへ行ってもらえないだろうか」
意味がわからなかった。
ルベルの婚姻が政略だと明かした口で、エルヴァを送り込む。
エルヴァにこのことを話せと言っているようなものではないか。
聖女はこの国の宝だ。本気で否を唱えられれば、彼女の意向を聞かざるを得ない。
せっかくロストーク伯との仲を取り持ったというのにぶち壊す気なのだろうか?
「なぜ、でしょうか」
全く思惑が読めずにエルヴァは固い顔で探りをいれると、カーティスは曖昧な笑みを浮かべた。
「なに、それなりの功績を挙げる優秀な者を、私は手放したくないのさ」
それが言葉通りの意味だけではないのは言われずともわかる。
この王宮は漫然と生きれば食い潰される魔境だと、忘れていたエルヴァが悪い。
(ならば、私が剣となるのだ。ルベル様が安らげる場にいけるように)
「承知しました。ご命令、謹んで承ります」
恭順を示すと、カーティスは予想通りとでもいうようにうなずいた。
たとえルベルに拒絶されようとも、確かめに行こう、ロストーク伯がもしルベルに無体を働くような冷酷な者なら。
(この手で切る)
そんな覚悟を持って乗り込んだロストークで、ルベルは今まで見たことがないほどのびのびと過ごしていた。
仲間内でしか見たことがないはじけるような笑顔と共に、ロストークのことを話し、そんな彼女を周囲は受け入れている。
独特な文化にもなじみ、あれほど精霊と共に利用されることを嫌がっていたのに、進んで役に立とうと振る舞っていた。
城内で聞き込めば、彼女は各村で感謝されており、お礼の言葉と素朴な献上品が毎日のように届くのだという。
ルベルに仕える者達も、親しみはあれど彼女を聖女として、次期辺境伯夫人として尊重している。
信じられなかった。
エルヴァがあれほど望んだ年相応の少女の姿がそこにあり、何より……彼女が安心しきった顔で見るのは、ロストーク伯ディルクだったのだ。
エルヴァよりも二つ三つほど年下なだけにもかかわらず、歴戦の強者もかくやという覇気をまとう彼は、この短期間でルベルの信頼を勝ち得ている。
思い知った途端、足下にぽっかりと穴が開いたような心地になった。
ルベルの味方は、自分たち騎士団だけだと思っていた。だから必死になった。
だがこの地にはルベルが得るべきものがそろっていて、エルヴァが入り込む余地などない。彼女が望んだものを得ているのなら、自分がいる必要はない。
じくりと胸が痛み、己の愚かさに暗澹たる心地になる。
ほとんど眠ることができないまま、エルヴァは自室で夜を明かした。
また今日も授業だ。今となっては自分が役に立てる唯一のことに、手を抜くつもりはない。
身支度を整えるエルヴァの耳に、コンと遠慮がちに窓を叩く音が聞こえた。
その調子はひどく聞き覚えがあった。かつての彼女が、「遊び」に誘うときには定番だった。
まさかと思って窓に駆け寄ってカーテンを開く。
そこには杖に乗って虚空に浮かぶ燃えるような赤毛をなびかせるルベルがいた。
急いで窓を開くと、彼女は欄干にそっと降り立つ。
「エルヴァ、案内したいところがあるんだ」
彼女の琥珀の瞳が、美しくきらめいていた。




