第41話 意外と心に残っていたみたいです
とっさに逃げたものの、行くところなんてない。
そもそも悪いのは完全に私だ。
せっかく教えようとしてくれていたエルヴァには悪いことをしちゃったし、本来なら執務をしているはずのディルクさんにも迷惑をかけている。
わかってるんだ。こんなふうに逃げたって解決しないことくらい。
先延ばしにしたって悪化する。
学校とかでは、勉強から逃げるのは、懲罰が与えられる位悪いこと、だもん。
(ディルクさんにがっかりされるのは、嫌だなぁ)
「勉強が苦手なのか」
ぷかりと泡みたいな黒い気持ちが、ぱちん、とはじけた。
なんだかディルクさんの声に、私を責める色も怒る色もないように思えたからだ。
気のせいかもしれないのが怖くて、顔は上げないままこくん、とうなずくと、また問いかけられた。
「君の魔法に対する知識量は、半端なものではない。聖女というだけではない膨大な研鑽があったはずだ」
ディルクさんの言葉は温かい。
おそるおそる、顔を向けると、ディルクさんの紫の瞳と目が合った。
やっぱり怒ってなくて、呆れてもいなかった。
ただ普段通りちょっと強面な顔でこちらを見ているだけ。
「苦手になった理由があるのか?」
「っ」
そんな風に聞いてもらえるとは、思ってなかった。
――聖女ならば、この程度こなして当然でしょう。
嫌なことを思い出して、勝手に肩が震えたけれど。
私は、惹かれるように口を開いた。
「それが、原因で」
「それ、とは」
「聖女になるために、魔法使い達に、たたき込まれた、勉強」
ディルクさんが続きを待ってくれている気がして、私はかつてのことを思い返しながらぽつぽつと話す。
「魔法使い達は、一刻も早く私の魔力量でできる魔法を使わせたがったんで、つきっきりで教わることになったんです。でも、魔法ってまず八割呪文詩の暗記なところあるじゃないですか。ただスラム育ちの私は、そもそも文字すら読み書きできなくて、で、魔法使い達は『文字すら読めない子供』という概念がわかんなかったんですよ」
「それは……」
ディルクさんの反応は見たくなくて、私はちょっと視線を逸らして続ける。
「文字の書き取りが出来るようになるまで、部屋から出してもらえなくて。なんとかした後も、課題として出された本を読み切るまで出してもらえないってざらだったんです。呪文詩を覚えられなかったらご飯抜かれたし、しかも読み方聞いても『聖女様なら読めばわかります』って言うばっかりで教えてくれないんですよ、ひっどかったんです」
私も無理矢理連れてこられて強要されたものだから、可愛くない子供だったとは思うけど!
教えてってちゃんと言ったのに、拒否されたのはあれはほんとうにどういうことかと思った。
普通はこんな風に詰め込まれることはないと知ったのは、聖女として任務に出て、ほかの魔法使いと話すようになってからだ。
まあそんなことつゆ知らず、私はご飯を手に入れるために必死こいて書籍と呪文詩にかじりついた。
「君の教育についた者達は、怠慢などという言葉では生ぬるい。ただの虐待だ」
そう言ったディルクさんの声がすごく低くて、私はちょっとびっくりする。
全身からは、ビリビリとした殺気が発散されている。
あ、この人怒っているんだ。と驚いた。
もしかして、私の教育係の魔法使いに達に対して、怒ってくれている?
そう考えたら、なんだかじわりと嬉しくなった。
「はい、知ってます。ぽっと出の聖女候補が気に食わなくてストレス発散に当たり散らしていただけだって。私も呪文詩がどんなに正確に暗唱できたところで、私の魔法には敵わないってところを見せつけて、あいつらのプライドべっきべきにへし折ってやったんで」
もうスカッとした気持ち以外顔も覚えていない。
親指を立ててきりっとしてみせると、ディルクは少しだけ怒りを収めて「そうか」とちょっと笑ってくれた。
「まあ、その、そんなわけで文字通り死にそうなほど本を読んだので、どうしても紙束を見ると逃げ出したくなるんですよねぇ」
書類仕事もついサボって、後回しにしたあと、一枚ずつそうっと持ち出してなんとかしていた。
時間がかかるし悪いとは思っていたけれど、どうしようもなかったんだ。
私がしみじみ思い返していると、ディルクさんは息を吐いた。
「俺の前にいてくれているのは、君の努力の結果なのだな」
噛みしめるように言われて、なんだか胸のあたりがむずむずする。
やっぱり予想していた、呆れたり、怒ったりする反応はなくて、ディルクさんは真面目に私の言葉を受け止めて、いたわってくれた。
たぶんこのむずむずは、嬉しいってことなんだ。
へへ、とちょっと頬を緩ませながらも、私はだめな紙束ばかりじゃなかったことを思い出した。
「あ、でも昔は紙を見るのも嫌だったんですけど、唯一魔法論文で読めたのがあったんです。そこから、十枚なら大丈夫なくらいになったんですよ」
「ほう、そんな論文が」
「はい! アウルズという魔法研究者が書いた、精霊の魔法についての論文なんですけどね」
「ぶっ」
ディルクさんが急にむせた。
「? どうかしましたか?」
「いや、なんでも、ない。だがなぜその論文だけ読めたんだ?」
ディルクさんが興味をもってくれるのが、私はすごく嬉しくて身を乗り出した。
「あのね! 魔法を使っていないときの精霊が現れる条件がなにかって内容だったんですけど、精霊を変に崇拝せずに、まるで親しい知り合いについて話すみたいで、他の研究者みたいに嫌な感じがしなかったんです。しかも文章がすっごく読みやすい!」
文章に読みにくい読みやすいという概念があったのを知ったのも、アウルズの論文からだった。
「大きくて複雑な魔法より、より魔法を使いやすくするための方法に詳しくて、おかげで私いつも精霊に余分に魔力を渡していることに気づいて、もっと火力を出せるようになったんですよ!」
「そ、うか……」
「あれ、ディルクさん、顔赤いです?」
のぞき込むと、ディルクさんは顔を背ける。
手で隠しているけれど顔が赤い。
どうしてだろう。外は寒いし暑いわけじゃないだろうし……。
「はっくちゅんっ!」
寒さを思い出してくしゃみをすると、ディルクさんがするりとジャケットを脱いでかぶせてくれる。一枚だけでほっとするほど暖かくなった。
でも私が暖かいってことは、ディルクさんが寒いってことなんだし、ほんとうは帰らなきゃいけない。
それでも動く気になれなくて、ぎゅうっと被された服を握っていると、こほんとディルクさんが咳払いをする。
「ところでなんだが、君は座学はしたくはないか?」
「ん……ううん。やらなきゃ、いけないと思う。エルヴァの言うことも正しいんだ。私は領主になったんだし、ロストークの……えっとディルクさんの、家族にもなるん、だもんね」
私は上に立つ人が無能だったり無知だったりすると、下につく者がどれほど悲惨になるか、よく知っている。
だから私は、どれだけ嫌でも最終的にはちゃんとしなきゃいけない。
たとえものすごく苦手でも。ゆ、憂鬱過ぎる……。
「なら、君が学べる方法を考えよう。紙束が苦手なら、減らせばなんとかなるか?」
「いいの?」
あまりにもあっさり言われて私が戸惑っていると、顎に手を当てて思案していたディルクさんは言う。
「これは俺個人の経験だが、学ぶことは世界と将来を広げられる有効な手段だ。だから学ぶことを嫌ってほしくはない。君が学びたいと思えるのなら、どんな疑問でも答えるさ。答えられないことは共に考えよう。学ぶことはきっと君のためになる」
私は知っている。無知な人間のほうが、他人は操りやすい。だからこのまま私に勉強させずに、エルヴァを追い出したって良いはずだ。
でもディルクさんは私を考えてくれる。
少しだけ前向きな気持ちになれそうだ。
「帰れそうか」
ディルクさんの問いに、私はこくんとうなずいた。




