第40話 とっさに思いだしたんです
お茶の場には、お茶のほかにも、クッキーやケーキのほかにもサンドイッチもしっかりあった。
ありがたい。いつもと全然違う筋肉や頭や神経を使ってばかりだったから、お腹が空いているのも本当なんだ。
でも私はその前に、目の前に座るディルクさんに神妙に頭を下げた。
「エルヴァがごめんなさい。でも私のことを思ってなんです」
「いや……そこまで気にする必要はない。ただメナール卿との関係は、改めて聞いても良いだろうか。副官だとは聞いていたが」
ひとまず食べなさい、とケーキを取り分けてくれるディルクさんに感謝しつつ、私はもふ、とパウンドケーキを口にしようとして、はっとする。
あ、エルヴァに教えてもらった作法より大きく切り分けちゃった。
私があきらかに「しまった」って顔で固まったせいだろう。
ディルクさんはちょっと笑っていた。
「三十分だけなのだろう? 好きに食べれば良い」
ほんの少し目元を緩ませて許可をくれて、私は胸がきゅっとなりつつ改めて口に入れた。
甘さがすごく身に染みたんだと思う。
ディルクさんは優しい。でもエルヴァだって優しいんだ。
「功績を上げる聖女には、護衛を兼ねた直属の部隊が編成されるのは知っていますか。エルヴァはそんな平民の私の副官になってくれた人なんです」
本来聖女直属部隊は、栄誉ある仕事で騎士の中でも身分のある人が選ばれる。
けれど平民出身で、しかも当時から危険な任務に就くことが多かった私について来られる騎士はいなかったのだ。
部隊の中でも怪我人が続出した結果、たたき上げの平民ばかりが選出されて、野人部隊なんて言われていた中で、副官に抜擢されたのがエルヴァだった。
聖女が名誉職として部隊長だから、副官が実質、部隊のトップになる。
「エルヴァは前に所属していた騎士団にはなじめなかったらしくて、私の部隊に飛ばされたそうです。でも音を上げずに、傭兵団みたいだった私達に馬鹿にされないだけの立ち居振る舞いを教えてくれたんですよ」
エルヴァは剣も一流だけど、私が苦手だった他部隊との折衝や後方支援をすべて補ってくれたんだ。
私が聖女として一応体裁を保てていたのは、間違いなくエルヴァのおかげだ。
「どんな戦地でも死なずに、私を貴族から守ってくれた人なんです。だからエルヴァが必要だっていうなら、きっと理由があるんです」
「だからといって、領地を回りながら稽古をつけてもらうのは、働き過ぎだと思うぞ」
ディルクさんは、そう言うと今度はサンドイッチを取り分けてくれた。
しょっぱいのが食べたいってどうしてわかったんだろう?
ありがたく、もそりとサンドイッチにかぶりつきつつ私はちょっと彼を見た。
「それ、マルクやセリューの前で言ったらすごい顔されますよ。ディルクさんが一番働いているじゃないですか」
「だから君をお茶に誘うのを歓迎されているんだ。俺のためにも付き合ってくれ」
しれっとディルクさんがお茶を傾けるのに、私はなんだか顔がにやけてしまった。
そっかあ、ディルクさんのためになるのか。ならいっか。
「じゃあ、これおいしかったのであげますね」
お返しにひょいと、ディルクさんのお皿においしかったケーキを載せると、嬉しそうに口にする。
ディルクさんは案外甘いものも好きだって知ってるのだ。
口にすると、ちょっとだけ頬が緩んで優しくなる。ほんの瞬きの間だけしか表情が変わらないから、こうやって一緒に食べているときじゃないと見られない。
私がほかほかした気分で見つめていると、ふと紫の瞳がこちらを向いた。
「ひとまずは、わかった。君が負担に思っていないのであれば、俺は静観しよう。情けない話だが、彼の言う通りでもある。君に甘えて教師の選定をまだできていなかったのも事実だからな」
「ありがとうございます。ディルクさんへの誤解はなんとしても正しておきますから!」
「誤解、か……」
私が力こぶを作ってみせると、ディルクさんの顔が曇った。
けど、それも一瞬で、彼が言葉を続ける。
「ともあれ、なにかあれば遠慮なく、俺のところへ避難しに来てくれてかまわないからな」
「大げさですねぇ! 大丈夫ですよ、だって私戦場を生き抜いた聖女ですもん! 平和な訓練くらいでひるみませんって!」
からからと笑って、私はお茶を味わう。
だけど、そんな大口叩いた翌日、私は敵前逃亡をする羽目になるのである。
*
あまりに決まりが悪くて、私は屋根の上に膝を抱えて座り込んでいた。
ロストークの秋風はだいぶ冷たいけれど、日差しがあるからまだ耐えられる。
「…………どおしよ」
ちょっぴり冷えてきた頭の中は後悔と羞恥に沈んでいる。
風がぴゅうと吹いてきて、縮こまった。
十数分前に、エルヴァの授業から逃げ出して来たところだ。
昨日ディルクさんにあんなこと言った手前、ものすっごーく恥ずかしい。
居場所も知らせてないから、サリア達にも迷惑がかかっているだろう。
ほんとは戻らなきゃいけないのもわかっている。
でもどうしても戻るのがおっくうで、こうして風に吹かれながら屋根でぼうっとしているのだ。
「くしゅんっ……さぶ……」
物理的に耐えられなくなるまでは、ここにいて良いかな……。
顔を膝に埋めていると、ふっと人の気配を覚えた。
反射的に警戒すると、屋根の端を大きな手が掴むのが見える。
そしてにゅっと現れたのは黒髪の頭と紫の目、ディルクさんだった。
彼は私と目が合うなり一旦引っ込むと、ぐんっと腕の力だけで屋根に上がってきた。すごい膂力だ。
ぽかんと見守ってた私は、隣に座り込む彼に我に返る。
「えっあの、どうしてわかったの?」
「わかって来たわけじゃない。ただ、この屋根は俺の執務室の上だからな。もしかしたらと思ったんだ」
私はうっとなる。
ディルクさんが気配に聡くても、気のせいと思うかなーと思ったんだけど。
だって、逃げるとき、ディルクさんの言ったことが頭に思い浮かんだのだ。
『なにかあれば遠慮なく、俺のところへ避難しに来てくれてかまわないからな』
見つかりたくなかったなら、もっと別の場所があるはずだ。なのに私は無意識にディルクさんのところに行こうとした。けど、さすがにこんなことで押しかけるのはどうかと思って、屋根で縮こまることになったんだ。すごく決まりが悪い。
顔を見られたくなくて、ディルクさんから背けて膝に頬をつける。ぱさりと赤毛が顔に落ちてきた。
「……はなし、聞きました?」
「座学から逃亡したらしいな」
あまりに端的な表現に、みぞおちのあたりがぎゅうっとなりながら、私は数十分前のことを思い出す。
そう、あれからエルヴァは気持ちに火がついたらしくて、作法の訓練の傍ら、私にマナーの座学も教えることにしたらしいのだ。
今日、テーブルの上に どん、と置かれたのは、分厚い紙の束だ。
さらに、どん、どん、と書籍が何冊も積まれていく。
もはや塔だ。私のテーブルに本の城ができた。
私が引きつらせてエルヴァを見ると、麗しくもやる気に満ちた美貌があった。
『ではルベル様、授業を始めましょう。結婚式は冬が明けてから、とのことですが、成婚までに各種の業務報告書や契約書が読めるようにいたしましょう』
『あで、でも、王太子殿下との契約では、ディルクさんに領地の管理は一任することになってて……』
『それでも、最終確認はルベル様を通します。そしてカルブンクスはあなた様の領地ですから、責任を持つ必要があります。特にこれから婚姻継承財産設定があるはずです。いいように決められないようにするためには知識を持つべきですよ』
あまりにその通りで、私はうっと言葉をのむ。
エルヴァは、たたみかけるように身を乗り出してきた。
『ほかにも、領主として心得ておくべき経営学、歴史学、地理、郷土史……早急に暗記すべきは、ロストークの貴族と派閥でしょう。ロストーク辺境伯の勢力図も私になりに調べてまとめておきました』
差し出されたのは手書きの分厚い書類の束だった。
エルヴァの几帳面な文字がたくさん連なっている。
この机にあるものを、全部読まなきゃいけないのか。
ふっと鮮烈に記憶がひらめく。
――この論文をすべて読み切るまでは、退出を認めません。
私のみぞおちがじくじくと痛み出して、思わずお腹を押さえていると、ずい、とエルヴァが身を乗り出してくる。
「どうしたって遅れておりますから急がなければなりません」
その厳格な表情と、机に積み上げられた本の山が私にのしかかってくるみたいで。
耐えられなかった。
『ご、ごめんエルヴァ無理!!!』
『えっルベル様!?』
私はそうして窓から逃げて、今に至る。




