第2章 一日目 015
「しあわせだあ」
口中に広がる濃厚なトマトソースの旨味が素晴らしい。目の前には、今ひとかけら口に入れたばかりの真鯛のグリルが、白い皿の上で香ばしい湯気を上げていた。
一眠りしたあと、wifiに接続したスマホでチェックした情報によれば、ペンションいさり火のオーナー石田さんの前職は漁師さんだったらしい。その後、長崎市出身で料理人の敦子さんと結婚し、今はこのペンションを経営している。地元の漁師仲間から、良い魚が仕入れられるのだろう、この旅最初の夕食は、期待に違わぬ豪華な海鮮イタリアンだった。
「いやー、美味いですね、三輪さん」
魚介の出汁が複雑に溶け込むソースを堪能しながら、僕は満面の笑みで目の前の先輩に話しかけた。これでこのセリフは何回目だろう。内陸県出身者は、海鮮料理に弱いのだ。
「ウマイのはわかったわ、アオイ。そんなに喜んでくれて鯛も本望やろ」
かく言う三輪さんも、それはそれは名残惜しそうに、空になったイタリア風サザエの壺焼きの壺に残ったアーリオオーリオソースをパンでぬぐって口に運んでいる。そういえば三輪さんも海無し県奈良の出身だったな。
「喜んで食べていただいて、嬉しいですよ」
追加のバゲットパンが入ったカゴを持ってきてくれた竜二さんが、そう言って笑う。
「いや、本当に美味しくて、びっくりです」
「ありがとね。お酒は大丈夫ですか?」
食べるのに集中しすぎたからだろう。酒に目がない僕たちコンビだが、いまだテーブルの上の瓶ビールは一本目の途中だった。
「どないするアオイ、次はワインか?」
自分のコップのビールをクイっと煽ってから、瓶の残りを手酌で注ぎ三輪さんが聞いてきた。この人とは酒の好みもペース配分も本当に良く合う。
「大蔵省の財布は大丈夫なんですか?」
「まあそこまで大宴会はしないやろ」
二人でニヤリと笑い合う。
「じゃあ、やはりここは白ですかね」
「白やろうな。竜二さん、一番安い白ワインを一本ください」
「はいはい、学生さんから大金を取ろうとは思いませんよ。ちょっと待ってくださいね」
竜二さんは一度奥へ引っ込むと、白ワインのボトルとグラスを二個、持って戻ってきた。
「ほう、シャルドネですか」
「よく冷えてますよ。チリ産だから値段もお手頃。これで良いですか?」
もちろん僕も三輪さんも異論はない。早速開栓し、グラスに注いでもらった。
「キリッとした味で、ソースとよう合うわ」
「うんうん、美味いです」
「お前はそればっかやな」
「たくさん飲んでってくださいね。まだこれからメインの料理が出ますから」
他愛のない会話をしているところで、食堂の外に大勢の人の気配が現れ、ガチャッと音を立ててロビーへ続くドアが開かれた。
「遅くなってすみません。全員揃いました」
ドヤドヤと同年輩の若者たちが食堂へと入ってきた。これが西国海洋大学水生研のフルメンバーなのだろう。高遠さんや藤田さんの顔も見える。飯畑さんが目顔で僕たちの方へ合図をしてくれた。もう一人、ロングな黒髪をポニーテールにした活発そうな女の子が、元気よくこっちへ手を振ってくれている。
「六時半を過ぎたばかりだから大丈夫ですよ。こっちのテーブルに座ってくださいね」
七月半ばのこの時間、外はまだじゅうぶん明るい。水辺の生物を研究する彼らにとって夕方は、活動に良い時間でもあるのだろう。逆に山屋の我々の夕食は早いのが定番だ。山ではよほどの理由がない限り、時間の余裕を持って宿営地にたどり着く。着いたら着いたでさっさと食事をすまし、翌朝に備え寝てしまうのが習慣となっている。そして山を降りたら祝宴だ。てなわけで、一眠りして元気になった僕らは、夕方の六時前から食堂の前をウロウロし、気を使った敦子さんが、少し早めに夕食をスタートしてくれたのだ。
「飲み物は、ひとまずビールでよいかな?」
全員が席についたところで、藤田さんが確認を取る。どうやら彼がこのグループのリーダーらしい。確か獣医学部の五年生と言っていたから、三輪さんよりも一個上のはずだ。テーブルの方々から賛同の声が聞こえた。見れば男性三人、女性三人の六人パーティだ。
「三輪さん、向井くん、食事中にすまないが少しいいかい?」
全員のコップに飲み物が注がれたのを確認すると藤田さんは立ち上がり、我々に声をかけてくれた。
「どうぞ」
三輪さんが代表して返事をし、僕は自分と先輩のグラスにワインを注ぎ足す。
「お騒がせして申し訳ないが、こちらが我々西国水産大学水棲生物研究会シュノーケリング班のメンバーだ。みんな、あちらはさっき高遠から説明のあった、これから同宿する東都文化大学の三輪さんと向井くんだ。食後にそれぞれ自己紹介してくるように」
他のメンバーが、こちらへ黙礼したり手をあげたりするのを確認し、藤田さんはグラスを手に取った。
「じゃあ、初めての出会いと、我々のメンバーが全員揃ったことを祝って乾杯といきたいところだが、皆も承知の通り二年前にこの島で仲間が亡くなった。そしてその一人小橋さんは、三輪さんの友人だったという。そこでここは献杯としたい。皆グラスを持ってくれ。三輪さんたちもご一緒願えますか?」
三輪さんがグラスを手に取り、黙って頷きながら立ち上がり、僕もそれに習う。西国海洋大の面々も神妙な面持ちで立ち上がった。
「では友人の冥福と、ここにいるみんなの旅の安全を願って献杯」
「献杯」
唱和の声がこだまするなか、僕も静かに献杯と呟きグラスを掲げた。ふと高遠さんの方を見ると、彼女は悲しげな瞳で、静かに手元のグラスをジッと見つめていた。